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第一章

第八話 初夜を越える

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 コーエンとヘクセの婚儀は王族として最低限許される質素さをもって執り行われた。両名の望みであった。
 二年前に王太子リヒャードと王太子妃バチルダの婚儀があったこと、続いて翌年王太子に第一子である王女が生誕し、王家の祝い事が続いていたこともあり、やや縮小されることを許されたのである。
 婚儀を挙げたとて、第二王子妃ヘクセの親族席には誰一人並ばなかった。

「これで夫婦になっちまったわけだ。ヘクセ、本当にニヒトとの寝室つくんなくてよかったのか?」
「何を仰るのウサギさん」
「えっ。俺ウサギなの? どっちかってえとウサギはヘクセじゃねえのか。まあ俺が狼かってえと微妙だけどよ」
「そういう言葉があるのです。お気になさらず」
「あっそ」

 二人は広い寝台の上、真向いに座っている。
 まんじりともせず朝を迎えることになるのかと、コーエンは胡坐を組んで天を仰ぐ。
 天は天でも、見上げた先は何やら豪奢な天蓋だ。金縁や金刺繍の施された深紅の天鵞絨に繊細なレース。掃除洗濯してくれていたのは一体誰だろう。この天蓋は掃除するのも取り外ずして洗濯するのも、かなり重労働になりそうだし、ヘクセの趣味でないのなら取っ払ってもいいかもしれない。
 離宮の装飾は譲り受けたときのままだから、ヘクセが嫌でないなら内装を任せよう。
 コーエンはこの離宮にさほど使用人の数を割いていない。なぜならこれから増える可能性があったから。

「殿下」
「コーエン」
「え?」
「さすがに夫婦になって殿下はねえだろ?」
「そうですわね。ではコーエン」
「はい」
「はいって」

 ヘクセが思わずといった体で笑い声をあげる。
 そこでコーエンも肩から力が抜けた。強張っていたのを解すように首をぐるりと回す。ヘクセも膝を折って揃えていたのを崩す。
 白いガウンが分かたれてチラリとふくらはぎの肌色が見えて、コーエンは目を反らした。

「緊張していらっしゃるのですか?」
「いや、こりゃしねえほうが難しいっていうか。え? ヘクセは緊張してねえの?」
「緊張。しております。ものすごく。ニヒトがいればいいのにって」
「ああ~。ニヒト呼んでこようか?」
「ごめんなさい。失言でしたわ」
「いや。気にすんな」

 はあ~っと大きく息を吐いてコーエンは一度落ち着こうとした。
 額に手を当て、どう出るべきか考える。

 初夜だ。
 間違いない。今は初夜だ。
 だが身代わりには抱きたくないと数年前に宣言し、そこから二人の距離は縮まったようで縮まっていない。コーエンにはまだヘクセの決意はわからない。
 大事にしたい。恋でなくていい。家族になれたらいい。ヘクセにとっての兄でも父親でも。コーエンという人間を通してそれらを見るのならば、構わない。コーエンに公爵を重ねるのでなければ。

「コーエン?」

 はっとする。
 震えるようなか細い声に意識を戻され、コーエンが顔を上げると、ヘクセは真っ青な顔で小刻みに震えていた。
 しまったと思う。
 コーエンは慌てて震えるヘクセの手を取る。我ながら勇気がないと思うが手で精一杯だ。肩を抱くのは止まれなくなりそうで怖い。

「わたくしが不用意なことを口にしたせいで……」
「ちげえ。ヘクセは何を口にしたっていいんだ。言っちゃ悪いことなんざ一つもねえ」

 震えて冷たくなった頼りない手をさする。
 ヘクセはずっと否定されて生きてきた。公爵や義母、異母姉がいなくなってもヘクセを蝕み続けている。そんな悪夢はもう終わりにしなければ。

「では……抱いてくれますか?」

 さすっていた手が止まる。戦慄くヘクセの唇が哀れで、コーエンは泣きたくなった。目を凝らして察してやればいいのだろうか。だけど、この離宮でそれはもうしないと決めていた。

「なあ、ヘクセ」
「はい」
「俺は前に言っただろう。身代わりで抱くのは嫌だと」
「はい」
「俺はもう、準備も覚悟もできた」
「はい」
「ヘクセはどうだ? 俺に抱かれる覚悟はあんのか?」
「はい」
「……本気か?」

 じっと覗き込むとヘクセの黒曜石の瞳が揺れた。薄暗い部屋をさらに天蓋が遮っているものだから見えにくくて仕方がない。寝台の端に置いたサイドテーブルに燭台があり、ヘクセの白い頬をちろちろと舐めるように炎の影が揺らめく。
 あまりじっと見つめていると、何もかもが艶めかしく見えてきてしまう。
 コーエンが目をそらすとヘクセはふっと吐息を漏らした。

「『見て』くださればわかりますのに」
「ヤだよ。そういう関係の築き方は、ここではしねえんだ」
「真っ当な関係を、ですか?」
「ヘクセに強要はしねえよ。俺自身がしたくねえだけだ」
「わたくしはこの鼻を頼りにしておりますから」
「それでいい」
「ですから、わたくしはコーエンに抱かれとうございます」
「そうかい」

 小さな手を握ったままゆっくりとヘクセへ近づく。頭を撫でるようにして後頭部に手を置き、コーエンはヘクセと鼻が触れるくらいまで近づいた。
 目と目が合い、どちらともなく瞼を下ろし唇が触れ合う。指を絡ませて軽く握ると、ヘクセは反対の手でコーエンの頬を撫でた。

「ヘクセに言わせちまったな。二度も」
「あら? 二度ではございませんよ」
「え?」
「以前も申したではないですか。わたくしを抱いてほしいと」
「あー。あれも勘定するのか……」
「当然です。わたくし、傷つきましたのよ」
「ごめんって」

 鼻先を突き合わせて二人で笑う。
 絡ませた手をぎゅっと握ったり緩めたり。何度も繰り返しながら。

「そんな奥手のコーエンにはわたくしが手取り足取り指南してさしあげなくては」
「お手柔らかに頼むよ」

 情けなく眉尻を下げるコーエンに、ヘクセがにんまりと薄闇でも赤い唇を吊り上げ弧を描く。

「まさか。わたくしの独断場でしてよ」
「ニヒトに言いつけるぞー」
「あらっ。どうぞお好きになさって。でもコーエンよりよっぽどニヒトの方がわたくしの体を知っておりますけど」
「……自分で言い出したことに、傷ついちまった」

 ほとんど隙間なく寄り添っていた体の間で手を動かし、コーエンは自分の胸に手を当てる。ヘクセは少し身を離して、コーエンの大きな手の甲にそっと手を重ねた。

「ではわたくしが癒してさしあげますわ」

 そうして笑い合いながら二人は寝台に沈んでいく。


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