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第一章

第六話 離宮での茶会

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「殿下。抱いてくださいませ」
「は?」

 コーエンは指で摘まんでいた焼き菓子をぽとりと落とした。金縁の波打つ白い陶器の菓子皿の上で、ぼろっと菓子が崩れる。
 落ちて崩れた菓子の欠片を拾い上げ、ぽいっと口に放ると、コーエンは紅茶を口に含んだ。鼻腔をくすぐる瑞々しい春摘みの新茶。ファーストフラッシュ。コーエンの好きな茶葉だ。爽やかだし、口直しにも丁度いいし、飲むと頭がすっきりする。

「うん。今日の紅茶も美味いなあ。ニヒトの淹れる紅茶、俺も好きだぜ」
「お褒めに与り、光栄にございます」

 ウットリとどこか熱のこもった眼差しを向けてくるヘクセの侍従ニヒトに、コーエンは頬を引きつらせる。
 しかし以前、目を凝らしてみたところ、ニヒトからコーエンに向けられる光は親愛を示す暖かな橙色と忠誠を示す紫色が淡く光っていた。
 この色が何を示す、なんていう解答はないが、これまでコーエンに向けられてきた光とその人物の傾向によって、ある程度のことはわかる。
 兄王子リヒャードが婚約者バチルダに向けるような。神聖アース帝国第二皇女バチルダがゲルプ王国王太子リヒャードに向けるような。そんな艶めかしい薔薇色の光はニヒトから向けられていない。
 だからこのニヒトの眼差しはコーエンへの忠誠と、ほんの少しの演技ウソなのだろう。

「ニヒト、もう一杯注いでくれ」
「かしこまりました」

 ニヒトが新たに紅茶を淹れるため、トレイにティーポットを載せて部屋を辞する。その背中を見送ったヘクセが再び口を開いた。

「殿下、わたくしを抱いてくださいませ」
「……聞き間違いじゃなかったかー」

 コーエンが額に手を当て眉根を寄せる。ヘクセは眦を吊り上げ、憤然と立ち上がった。

「聞き間違いではございませんの! わたくし、殿下の婚約者として抱かれようと思ったのですわ!」
「えーと、間に合ってるから、それはいいかな?」
「娼婦でも抱くのですか? それともその場限りの未亡人と火遊びを?」
「ちげえよ! なんで俺が猿みてえに盛ってることになってんだ!」
「だって殿下の香りが、」
「おい。それは反則じゃねえのか?」

 コーエンが凄むとヘクセは椅子に座り直し、口を閉じた。コーエンはグシャグシャと乱雑に頭を掻き毟る。

「くそっ!」

 掻きむしっていた手でそのまま頭を抱え、肘をテーブルにつく。俯いたまま視線をちらりと上に上げてヘクセを見やると、ヘクセは泣く寸前のような顔で唇を噛みしめていた。
 コーエンはゆっくりと静かに息を吐きだす。ヘクセがビクリと身体を揺らした気配はした。

「……悪い。八つ当たりだ」

 ふにゃりと笑ってヘクセを見ると、ヘクセもまた強張った頬をふにゃりと緩めた。

「反則じゃねえよ。そんなもん、俺だってしょっちゅう『見て』る。それなのにいざ自分が図星突かれたら、すげえ……焦ったんだ」

 はは、と乾いた笑いを漏らすコーエンの手にヘクセがそっと自分の手を重ねる。

「……勝手に嗅ぎ分けて申し訳ございません。ですが殿下が苦しんでいらっしゃるのは、がなくてもわかります」

 コーエンは手を裏返してヘクセの手を握る。ぎゅっと握り返してくれる、ヘクセの華奢な手が心地よい。

「……でもやっぱり抱きたくねえんだよ。俺はヘクセのこと、大事に思ってる。に対するのとは違う想いかもしんねえけど。でもヘクセを身代わりにするつもりなんてねえんだ。ヘクセが俺でいいって言うんなら、ニヒトが許すってえことなら。一発ぶん殴られたあとにでもさあ」

 ヘクセの薄い絹の手袋に包まれた手を寄せ、その指先に口づけを落とした。ヘクセが目を見開く。震えそうな手に気がつかれたくなくて、コーエンは握っていた手をそっと離す。

「婚姻を交わしたら、夫として抱くよ」

 コーエンの灰青色の瞳が揺れる。情けなく縋る男の顔がヘクセの黒曜石のような漆黒の瞳に映り込む。

「……だから、俺はもしヘクセを抱くなら。ヘクセとして抱きたい。ヘクセも俺を俺として抱かれてほしい。誰かの身代わりで抱いたり抱かれたりするのは嫌だ。そんなのは空しい。その覚悟が持てねえってんなら、俺達は白い結婚でいいじゃねえか」

 俯いたヘクセは紅茶の水面がわずかに波打つ様を見つめる。波紋は緩やかに穏やかに、だけど確実に円の中心から外へと広がっていく。
 何かが起こり、何かが変わり。ぽたりと落ちた雫から、水の輪が広がって。そうして水面にはいつか波紋が重なり合うのかもしれない。
 ヘクセは目を閉じた。コーエンによってテーブルに置き去りにされた手を軽く握る。

「殿下はそれでよろしいので?」
「構わねえよ。一生童貞でも問題ねえ」
「それは剛毅ですこと」
「はは。見栄を張らにゃ王子なんてやってらんねえんだぜ?」

 ヘクセが顔を上げ、コーエンがニヤリと笑ったところで、紅茶を淹れ直したニヒトが戻ってきた。

「お待たせいたしました」
「おう。待ってたぜ」

 にこりと微笑むニヒトの眼差しはやはりウットリと熱っぽい。褐色の肌にとろけた蜂蜜のようなアンバーの瞳。垂れ目がちな目が細められ、薄い唇が弧を描く様はどうにも色っぽく、かつてニヒトに情欲をぶつけた者がいたというのは、性欲を持て余していたというだけでなく、ニヒトの存在によってもまた掻き立てられたのだろうと察する。

 ――これはまあ、仕方ねえよなあ。

 ニヒトの淹れ直してくれた紅茶の香りを嗅ぎ、ヘクセにはこの香りがどんなふうに感じられるのかと思う。ただ紅茶の香りだな、で終わるのだろうか。それとも何か他の意味を見出すのだろうか。
 コーエンは目が利く。ヘクセは鼻が利く。
 似ているようで全く違う。
 きっとお互いにわかっているようで、わかっていない。

「ではまた、次のお茶会でお会いしましょう」
「おう。次もまた、この離宮でいいか?」
「はい。わたくし此処が好きですわ」
「そうかい。そいつは嬉しいね」
「ええ。わたくしの終の棲家となるのですもの」
「……そうだな」

 コーエンが立ち上がり、ヘクセに手を差し出す。ヘクセは手をのせてそっと椅子から立ち上がる。コーエンの肘に手をかけたヘクセは、いつもより少しだけコーエンに寄り添うように歩いた。
 ニヒトは二人のすぐ後ろを歩き、三人の後ろをまたコーエンの侍従と護衛騎士がつく。

 コーエンの譲り受けたばかりの離宮は、かつての王族が使用していたときのまま。
 延々と続く鮮やかな赤いカーペット。白い壁には様々な文様の金のレリーフ。続く窓には繊細なレースと深い緑に金の刺繍が施されたドレープのカーテンがそれぞれかけられ、ドレープカーテンは金のタッセルで窓枠に寄せられている。
 天井には金のリリーフで取り囲まれた青空と天使が描かれ、天井画のないとことから豪奢なシャンデリアが吊り下がっている。壁側に並ぶ飾り机の上には等間隔で燭台が置かれ、ところどころに贅を凝らした宝石箱のような美しい箱がある。
 玄関ホールに辿り着くと、そこには陽の光の全てが集束されているかのように、眩くコーエンの目を射した。
 コーエンの侍従が馬車停めへと向かう。

 コーエンが最低限の人数しか離宮に通さないため、ヘクセが席を立ってすぐ馭者に連絡をする者がおらず、御者の用意ができるまでしばらく待つことになる。ヘクセはぼんやりと離宮の庭園を眺めていた。
 庭園へと一歩踏み出したヘクセのあとを追おうとコーエンが身を乗り出したとき、後ろから小さな声で引き留められた。

「殿下」

 振り返るとニヒトが例の色っぽい微笑みでコーエンを見ていた。

「……どうした?」

 コーエンも小声で返す。

「あと二年。殿下が成人されるまでです」
「俺に残された時間制限タイムリミットか?」
「いいえ。お嬢様が愛玩人形を卒業するまでのことです」

 コーエンはニヒトの顔をまじまじと見た。

「……『見て』いいか?」
「どうぞ。私めになど断る必要はございません」
「そう言われてもなあ」

 コーエンは苦笑し、それから目を凝らす。ニヒトはヘクセを見つめていた。

「……身代わりはお嫌などと。あのお嬢様には堪えたことでしょう」
「そうだな。それはわかってる」

 だからこそ、敢えて口にしたことだ。

「殿下におかれても、ということでしょうか?」
「……ニヒト、お前言うなあ……」

 じっとコーエンを見つめる琥珀色の瞳。

 ――ああ、そうか。兄貴と似てんのか。

 この目に射抜かれると弱い。婚約者だと紹介されたばかりのヘクセの側にいた情夫の侍従。コーエンがニヒトのことを最初から気に入ったのは、この目があったのかもしれない。

「そうだ。ニヒトの言う通り、俺にも堪える話だ。だが俺はお前の守ってきたお嬢様を貰い受けるからな」

 身代わりのままでは互いに先がない。

「うまくいくかはわかりませんよ」
「まあ、すんなりとは……いかねえだろうなあ……」

 コーエンの侍従が厩舎から戻ってくる。
 王宮の自然を模した大庭園より幾分か狭い、緑と噴水までの道が幾何学的に配置された離宮の庭園を眩い白い陽の光が照らしている。白い光は侍従の肩や頭の先も弾き、ときどき風で揺らぐ光。
 コーエンがふと隣に並ぶニヒトを見れば、ニヒトの褐色の肌と小麦色の髪は陽の光でその色素を飛ばし、淡い金に輝いている。
 房事で、他人の望む癒しや愛を与える能力を持つ男。

 ヘクセに出会い囲われるまで、これまでどのような人生を歩んできたのか。他者に癒しや愛を与え、ニヒトに与えられたものは何か。奪われたものは何か。
 赤の縁取りの施されたアイボリーのフリルが幾重にも揺れる日傘が、コーエンとニヒトの立つ階段下で揺れる。日傘からちらりと覗く豊かな黒髪。日傘の影から外れたところだけ、陽の光を浴びて焦げ茶色に見える。

「二年なんて無理だろ。うまくいかなくたって庇護者で構いやしねぇよ。投げ出したりしねえから」
「そうは参りません。私とて、お嬢様には真っ当に幸せになっていただきたいのです」
「……突然去ったりするなよ。ニヒトのことも、俺は大事なんだ」
「まさか。殿下は私めの好みだと、以前申しましたでしょう?」

 こてん、と小首を傾げるニヒトにコーエンは「違いねえ」と苦笑した。


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