7 / 45
第一章
第六話 離宮での茶会
しおりを挟む「殿下。抱いてくださいませ」
「は?」
コーエンは指で摘まんでいた焼き菓子をぽとりと落とした。金縁の波打つ白い陶器の菓子皿の上で、ぼろっと菓子が崩れる。
落ちて崩れた菓子の欠片を拾い上げ、ぽいっと口に放ると、コーエンは紅茶を口に含んだ。鼻腔をくすぐる瑞々しい春摘みの新茶。ファーストフラッシュ。コーエンの好きな茶葉だ。爽やかだし、口直しにも丁度いいし、飲むと頭がすっきりする。
「うん。今日の紅茶も美味いなあ。ニヒトの淹れる紅茶、俺も好きだぜ」
「お褒めに与り、光栄にございます」
ウットリとどこか熱のこもった眼差しを向けてくるヘクセの侍従ニヒトに、コーエンは頬を引きつらせる。
しかし以前、目を凝らしてみたところ、ニヒトからコーエンに向けられる光は親愛を示す暖かな橙色と忠誠を示す紫色が淡く光っていた。
この色が何を示す、なんていう解答はないが、これまでコーエンに向けられてきた光とその人物の傾向によって、ある程度のことはわかる。
兄王子リヒャードが婚約者バチルダに向けるような。神聖アース帝国第二皇女バチルダがゲルプ王国王太子リヒャードに向けるような。そんな艶めかしい薔薇色の光はニヒトから向けられていない。
だからこのニヒトの眼差しはコーエンへの忠誠と、ほんの少しの演技なのだろう。
「ニヒト、もう一杯注いでくれ」
「かしこまりました」
ニヒトが新たに紅茶を淹れるため、トレイにティーポットを載せて部屋を辞する。その背中を見送ったヘクセが再び口を開いた。
「殿下、わたくしを抱いてくださいませ」
「……聞き間違いじゃなかったかー」
コーエンが額に手を当て眉根を寄せる。ヘクセは眦を吊り上げ、憤然と立ち上がった。
「聞き間違いではございませんの! わたくし、殿下の婚約者として抱かれようと思ったのですわ!」
「えーと、間に合ってるから、それはいいかな?」
「娼婦でも抱くのですか? それともその場限りの未亡人と火遊びを?」
「ちげえよ! なんで俺が猿みてえに盛ってることになってんだ!」
「だって殿下の香りが、」
「おい。それは反則じゃねえのか?」
コーエンが凄むとヘクセは椅子に座り直し、口を閉じた。コーエンはグシャグシャと乱雑に頭を掻き毟る。
「くそっ!」
掻きむしっていた手でそのまま頭を抱え、肘をテーブルにつく。俯いたまま視線をちらりと上に上げてヘクセを見やると、ヘクセは泣く寸前のような顔で唇を噛みしめていた。
コーエンはゆっくりと静かに息を吐きだす。ヘクセがビクリと身体を揺らした気配はした。
「……悪い。八つ当たりだ」
ふにゃりと笑ってヘクセを見ると、ヘクセもまた強張った頬をふにゃりと緩めた。
「反則じゃねえよ。そんなもん、俺だってしょっちゅう『見て』る。それなのにいざ自分が図星突かれたら、すげえ……焦ったんだ」
はは、と乾いた笑いを漏らすコーエンの手にヘクセがそっと自分の手を重ねる。
「……勝手に嗅ぎ分けて申し訳ございません。ですが殿下が苦しんでいらっしゃるのは、それがなくてもわかります」
コーエンは手を裏返してヘクセの手を握る。ぎゅっと握り返してくれる、ヘクセの華奢な手が心地よい。
「……でもやっぱり抱きたくねえんだよ。俺はヘクセのこと、大事に思ってる。アイツに対するのとは違う想いかもしんねえけど。でもヘクセを身代わりにするつもりなんてねえんだ。ヘクセが俺でいいって言うんなら、ニヒトが許すってえことなら。一発ぶん殴られたあとにでもさあ」
ヘクセの薄い絹の手袋に包まれた手を寄せ、その指先に口づけを落とした。ヘクセが目を見開く。震えそうな手に気がつかれたくなくて、コーエンは握っていた手をそっと離す。
「婚姻を交わしたら、夫として抱くよ」
コーエンの灰青色の瞳が揺れる。情けなく縋る男の顔がヘクセの黒曜石のような漆黒の瞳に映り込む。
「……だから、俺はもしヘクセを抱くなら。ヘクセとして抱きたい。ヘクセも俺を俺として抱かれてほしい。誰かの身代わりで抱いたり抱かれたりするのは嫌だ。そんなのは空しい。その覚悟が持てねえってんなら、俺達は白い結婚でいいじゃねえか」
俯いたヘクセは紅茶の水面がわずかに波打つ様を見つめる。波紋は緩やかに穏やかに、だけど確実に円の中心から外へと広がっていく。
何かが起こり、何かが変わり。ぽたりと落ちた雫から、水の輪が広がって。そうして水面にはいつか波紋が重なり合うのかもしれない。
ヘクセは目を閉じた。コーエンによってテーブルに置き去りにされた手を軽く握る。
「殿下はそれでよろしいので?」
「構わねえよ。一生童貞でも問題ねえ」
「それは剛毅ですこと」
「はは。見栄を張らにゃ王子なんてやってらんねえんだぜ?」
ヘクセが顔を上げ、コーエンがニヤリと笑ったところで、紅茶を淹れ直したニヒトが戻ってきた。
「お待たせいたしました」
「おう。待ってたぜ」
にこりと微笑むニヒトの眼差しはやはりウットリと熱っぽい。褐色の肌にとろけた蜂蜜のようなアンバーの瞳。垂れ目がちな目が細められ、薄い唇が弧を描く様はどうにも色っぽく、かつてニヒトに情欲をぶつけた者がいたというのは、性欲を持て余していたというだけでなく、ニヒトの存在によってもまた掻き立てられたのだろうと察する。
――これはまあ、仕方ねえよなあ。
ニヒトの淹れ直してくれた紅茶の香りを嗅ぎ、ヘクセにはこの香りがどんなふうに感じられるのかと思う。ただ紅茶の香りだな、で終わるのだろうか。それとも何か他の意味を見出すのだろうか。
コーエンは目が利く。ヘクセは鼻が利く。
似ているようで全く違う。
きっとお互いにわかっているようで、わかっていない。
「ではまた、次のお茶会でお会いしましょう」
「おう。次もまた、この離宮でいいか?」
「はい。わたくし此処が好きですわ」
「そうかい。そいつは嬉しいね」
「ええ。わたくしの終の棲家となるのですもの」
「……そうだな」
コーエンが立ち上がり、ヘクセに手を差し出す。ヘクセは手をのせてそっと椅子から立ち上がる。コーエンの肘に手をかけたヘクセは、いつもより少しだけコーエンに寄り添うように歩いた。
ニヒトは二人のすぐ後ろを歩き、三人の後ろをまたコーエンの侍従と護衛騎士がつく。
コーエンの譲り受けたばかりの離宮は、かつての王族が使用していたときのまま。
延々と続く鮮やかな赤いカーペット。白い壁には様々な文様の金のレリーフ。続く窓には繊細なレースと深い緑に金の刺繍が施されたドレープのカーテンがそれぞれかけられ、ドレープカーテンは金のタッセルで窓枠に寄せられている。
天井には金のリリーフで取り囲まれた青空と天使が描かれ、天井画のないとことから豪奢なシャンデリアが吊り下がっている。壁側に並ぶ飾り机の上には等間隔で燭台が置かれ、ところどころに贅を凝らした宝石箱のような美しい箱がある。
玄関ホールに辿り着くと、そこには陽の光の全てが集束されているかのように、眩くコーエンの目を射した。
コーエンの侍従が馬車停めへと向かう。
コーエンが最低限の人数しか離宮に通さないため、ヘクセが席を立ってすぐ馭者に連絡をする者がおらず、御者の用意ができるまでしばらく待つことになる。ヘクセはぼんやりと離宮の庭園を眺めていた。
庭園へと一歩踏み出したヘクセのあとを追おうとコーエンが身を乗り出したとき、後ろから小さな声で引き留められた。
「殿下」
振り返るとニヒトが例の色っぽい微笑みでコーエンを見ていた。
「……どうした?」
コーエンも小声で返す。
「あと二年。殿下が成人されるまでです」
「俺に残された時間制限か?」
「いいえ。お嬢様が愛玩人形を卒業するまでのことです」
コーエンはニヒトの顔をまじまじと見た。
「……『見て』いいか?」
「どうぞ。私めになど断る必要はございません」
「そう言われてもなあ」
コーエンは苦笑し、それから目を凝らす。ニヒトはヘクセを見つめていた。
「……身代わりはお嫌などと。あのお嬢様には堪えたことでしょう」
「そうだな。それはわかってる」
だからこそ、敢えて口にしたことだ。
「殿下におかれても、ということでしょうか?」
「……ニヒト、お前言うなあ……」
じっとコーエンを見つめる琥珀色の瞳。
――ああ、そうか。兄貴と似てんのか。
この目に射抜かれると弱い。婚約者だと紹介されたばかりのヘクセの側にいた情夫の侍従。コーエンがニヒトのことを最初から気に入ったのは、この目があったのかもしれない。
「そうだ。ニヒトの言う通り、俺にも堪える話だ。だが俺はお前の守ってきたお嬢様を貰い受けるからな」
身代わりのままでは互いに先がない。
「うまくいくかはわかりませんよ」
「まあ、すんなりとは……いかねえだろうなあ……」
コーエンの侍従が厩舎から戻ってくる。
王宮の自然を模した大庭園より幾分か狭い、緑と噴水までの道が幾何学的に配置された離宮の庭園を眩い白い陽の光が照らしている。白い光は侍従の肩や頭の先も弾き、ときどき風で揺らぐ光。
コーエンがふと隣に並ぶニヒトを見れば、ニヒトの褐色の肌と小麦色の髪は陽の光でその色素を飛ばし、淡い金に輝いている。
房事で、他人の望む癒しや愛を与える能力を持つ男。
ヘクセに出会い囲われるまで、これまでどのような人生を歩んできたのか。他者に癒しや愛を与え、ニヒトに与えられたものは何か。奪われたものは何か。
赤の縁取りの施されたアイボリーのフリルが幾重にも揺れる日傘が、コーエンとニヒトの立つ階段下で揺れる。日傘からちらりと覗く豊かな黒髪。日傘の影から外れたところだけ、陽の光を浴びて焦げ茶色に見える。
「二年なんて無理だろ。うまくいかなくたって庇護者で構いやしねぇよ。投げ出したりしねえから」
「そうは参りません。私とて、お嬢様には真っ当に幸せになっていただきたいのです」
「……突然去ったりするなよ。ニヒトのことも、俺は大事なんだ」
「まさか。殿下は私めの好みだと、以前申しましたでしょう?」
こてん、と小首を傾げるニヒトにコーエンは「違いねえ」と苦笑した。
0
お気に入りに追加
42
あなたにおすすめの小説

蔑ろにされた王妃と見限られた国王
奏千歌
恋愛
※最初に公開したプロット版はカクヨムで公開しています
国王陛下には愛する女性がいた。
彼女は陛下の初恋の相手で、陛下はずっと彼女を想い続けて、そして大切にしていた。
私は、そんな陛下と結婚した。
国と王家のために、私達は結婚しなければならなかったから、結婚すれば陛下も少しは変わるのではと期待していた。
でも結果は……私の理想を打ち砕くものだった。
そしてもう一つ。
私も陛下も知らないことがあった。
彼女のことを。彼女の正体を。

愛する貴方の心から消えた私は…
矢野りと
恋愛
愛する夫が事故に巻き込まれ隣国で行方不明となったのは一年以上前のこと。
周りが諦めの言葉を口にしても、私は決して諦めなかった。
…彼は絶対に生きている。
そう信じて待ち続けていると、願いが天に通じたのか奇跡的に彼は戻って来た。
だが彼は妻である私のことを忘れてしまっていた。
「すまない、君を愛せない」
そう言った彼の目からは私に対する愛情はなくなっていて…。
*設定はゆるいです。
悪役令嬢のビフォーアフター
すけさん
恋愛
婚約者に断罪され修道院に行く途中に山賊に襲われた悪役令嬢だが、何故か死ぬことはなく、気がつくと断罪から3年前の自分に逆行していた。
腹黒ヒロインと戦う逆行の転生悪役令嬢カナ!
とりあえずダイエットしなきゃ!
そんな中、
あれ?婚約者も何か昔と態度が違う気がするんだけど・・・
そんな私に新たに出会いが!!
婚約者さん何気に嫉妬してない?

アルバートの屈辱
プラネットプラント
恋愛
妻の姉に恋をして妻を蔑ろにするアルバートとそんな夫を愛するのを諦めてしまった妻の話。
『詰んでる不憫系悪役令嬢はチャラ男騎士として生活しています』の10年ほど前の話ですが、ほぼ無関係なので単体で読めます。

【完結】公爵家の妾腹の子ですが、義母となった公爵夫人が優しすぎます!
ましゅぺちーの
恋愛
リデルはヴォルシュタイン王国の名門貴族ベルクォーツ公爵の血を引いている。
しかし彼女は正妻の子ではなく愛人の子だった。
父は自分に無関心で母は父の寵愛を失ったことで荒れていた。
そんな中、母が亡くなりリデルは父公爵に引き取られ本邸へと行くことになる
そこで出会ったのが父公爵の正妻であり、義母となった公爵夫人シルフィーラだった。
彼女は愛人の子だというのにリデルを冷遇することなく、母の愛というものを教えてくれた。
リデルは虐げられているシルフィーラを守り抜き、幸せにすることを決意する。
しかし本邸にはリデルの他にも父公爵の愛人の子がいて――?
「愛するお義母様を幸せにします!」
愛する義母を守るために奮闘するリデル。そうしているうちに腹違いの兄弟たちの、公爵の愛人だった実母の、そして父公爵の知られざる秘密が次々と明らかになって――!?
ヒロインが愛する義母のために強く逞しい女となり、結果的には皆に愛されるようになる物語です!
完結まで執筆済みです!
小説家になろう様にも投稿しています。
断る――――前にもそう言ったはずだ
鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」
結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。
周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?

この度、皆さんの予想通り婚約者候補から外れることになりました。ですが、すぐに結婚することになりました。
鶯埜 餡
恋愛
ある事件のせいでいろいろ言われながらも国王夫妻の働きかけで王太子の婚約者候補となったシャルロッテ。
しかし当の王太子ルドウィックはアリアナという男爵令嬢にべったり。噂好きな貴族たちはシャルロッテに婚約者候補から外れるのではないかと言っていたが

【完結】悪役令嬢の反撃の日々
くも
恋愛
「ロゼリア、お茶会の準備はできていますか?」侍女のクラリスが部屋に入ってくる。
「ええ、ありがとう。今日も大勢の方々がいらっしゃるわね。」ロゼリアは微笑みながら答える。その微笑みは氷のように冷たく見えたが、心の中では別の計画を巡らせていた。
お茶会の席で、ロゼリアはいつものように優雅に振る舞い、貴族たちの陰口に耳を傾けた。その時、一人の男性が現れた。彼は王国の第一王子であり、ロゼリアの婚約者でもあるレオンハルトだった。
「ロゼリア、君の美しさは今日も輝いているね。」レオンハルトは優雅に頭を下げる。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる