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第一章

第四話 魔女との婚約

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 コーエンの婚約者が決まったのは、好色王子としての悪名がゲルプ王国国内で民草の間にまで広まった折のこと。
 これほどまでに悪名高いコーエンに、誰が嫁ごうとするのか、とコーエンは内心首を捻った。それも相手は公爵家の長女だと言う。
 成人前のため、夜会に出席することがまだないとはいえ、公爵家の娘だ。王子であるコーエンがこれまで顔を合わせたこともなかったことに、何かキナ臭いものを感じる。
 聞けば王女エーベルの名で催す茶会でも、その姿を見たことがないという。
 招かなかったのか、というとそうではない。公爵夫人にご令嬢とご一緒にお越しください、と一筆添えているのに、公爵夫人が連れ立ってくるのは、公爵家長女ではなく、公爵家の嫡出子として認められていない筈の娘。
 非嫡出子を王族の茶会に連れてくるなど、公爵夫人のこれはかなりの無作法であり、不敬だと罰せられてもおかしくない。だがエーベルはゲルプ王国に根強く蔓延る私生児や庶子への差別という悪習を厭う王女だった。

 ――こりゃあ、その公爵家長女だとかいうご令嬢。俺んとこに人身御供に出されたな。

 コーエンはゲンナリとする。第二王子という身分から、政略結婚は避けられない。
 だが好色王子として名を馳せれば、他国の王女の婿になることはないだろう。手癖の悪い王子など、女王の王配にすることは出来ない。
 国に混乱を呼ぶだろうし、国家間の友好関係にヒビも入る。
 あとは好色王子を娘婿に取るのは嫌だと、国内貴族から忌避されれば、もしかしたら国内貴族の令嬢との婚姻も避けられるかと目論んでいた。

 王太子のスペアであるコーエンは、万が一リヒャードが国王として即位することが適わなかった場合、自動的に王太子、もしくは国王としての地位を手にすると同時に、宗主国である神聖アース帝国第二皇女バチルダをも譲り受けることになる。
 つまり第二王子コーエンの婚約者となろうとも、王妃になれるわけではないのだ。
 そしてまたゲルプ王国は国王の妃を正妃以外認めないため、コーエンが王として立った場合、それまでの婚約者は婚約を解消し他貴族をあたるか、もしくはコーエンの非公式な愛妾として留まるかのどちらかになるだろう。
 コーエンという伝手を利用して王城に仕える高給女官になってもよいが、国王コーエンの元婚約者を正妃となったバチルダが認めるかどうかは別の話。

 好色王子の婚約者となる旨味は、王族と親しくなれることだが、それとて専制君主制から立法君主制へと、その権力を議会に移すことを本格的に討論、また制度の構築を始めているこの国で、さほど大きな利点とはいえない。

 だからコーエンは楽観視していたのだ。なんとかなるだろうと。
 コーエンの理想は臣籍降下し王弟としてリヒャードを支え、生涯独身でいること。しかしその夢は叶わなそうだ。

 ――まあ。決まっちまったもんは仕方ねえ。仲良くやれればいいな。

 小さく溜息をつくコーエンの脳裏に、幼い双子の姉王女が岩場に立ち、そのまろやかな頬を夕焼けに染められる姿が浮かんで消えた。










「わたくしの名はヘクセ。ヘクセと申しますの」
「そりゃまたヒデェ名をつけられたもんだ」

 家名を名乗らない公爵令嬢は魔女ヘクセと名乗った。コーエンが顔を顰める。
 この国で魔女とは、重罪を犯した女囚人を指す隠語だ。
 ヘクセと名乗った令嬢は気を害す素振りも見せず、コロコロと笑う。

「あら。第二王子殿下は魔女がお嫌いでして?」
「はっ! 好色王子なんつー通り名よりマシじゃねえのか? 少なくとも俺のは事実無根じゃねぇからな」
「確かに」

 コーエンは手にしていたカップをソーサーの上、音もなく静かに置くと眉尻を下げた。

「おいおい。そこは嘘でも『そんなことはございませんわ』とか言ってくれるとこじゃねえの?」

 ヘクセは紅い唇をニンマリと吊り上げると、細く尖った鼻先を、白く華奢な人差し指をトントン、とつついた。

「いいえ。殿下にはこう答えよ、とわたくしのが命じましたの」

 コーエンは息を呑むと、目を凝らした。するとヘクセの鼻先から、初めて目にする虹色の光が、コーエンの目を眩ませるほどの輝度で放たれていた。

「……ってことか」
「ええ。殿下はのですね?」

 コーエンは天を仰ぐと、ヘクセに向き直った。

「初対面で突っ込んでいーのか、わかんねぇって遠慮してたんだけどよ。ヘクセの後ろに控えてるその侍従……」

 コーエンが言い淀むと、ヘクセは頷き、身を捩って後ろへ振り返る。そして「おいでなさい」と侍従を呼んだ。

「ええ。わたくしの最愛の者ですわ」

 すっと歩み寄る侍従。褐色の肌に小麦色の髪を一つに括った異国民へと手を伸ばすと、ヘクセは妖艶に微笑んだ。

「……だよなぁ」

 コーエンはだらしなくテーブルに肘をつき、両手で顔を覆うと、はぁーっと大きく溜息をついた。

「あら。殿下も愛しのエー、」
「おい。それは黙っとけ」

 ゴツゴツと節くれた指の間から、眼光鋭くヘクセを睨みつけるコーエン。ヘクセは脅しに屈することなく、妖艶な笑みを浮かべたまま小首を傾げた。

「それは失礼いたしました?」
「……なんで疑問形なんだよ……」
「だって殿下、わたくしが気がついたことにお喜びでしょう?」

 コーエンは両手を頭にのせ、思いきり掻き毟った。

「っかー!! ヘクセ、お前やりにくっ! でもやりやすっ!」
「お褒めいただき光栄ですわ」

 眉尻を下げ、情けない顔を晒すコーエン。ニコニコと微笑みを絶やさないヘクセに、コーエンはゴホン、と咳払いをした。

「えーと、なんだ。お互いに手の内を曝け出したわけだ。ヘクセのことは信用するよ」
「まぁ。ありがとうございます」

 コーエンが片眉をあげる。

「ヘクセは信用してくれねぇの?」
「この子とのことを認めてくださるのならば」

 ヘクセが艶めかしい手つきで侍従の二の腕をさする。コーエンは嘆息した。

「おーい。ヘクセさん。いくらなんでも俺のことバカにしすぎじゃねえの?」
「でも認めてくださるのでしょう?」

 ヘクセがコテン、とあざとく首を傾げると、侍従は控え目に、しかしはっきりとヘクセに向かって微笑みかけた。
 コーエンは片手で目を覆う。

「認めるよ! 認めるに決まってんだろ!」
「まぁ。ありがとうございます」

 コーエンは手を口元まで下ろすと、ギロッとヘクセを睨み付けた。

「だけど子供は孕むなよ。言っとくけど王家御用達の避妊薬なんて魔法みてえなもんは、この国にはねえからな。墮胎なんつーもんも、ヒッソリすることは出来ねえぞ。妊娠したら、俺の手には負えねぇからな」
「あら残念。避妊薬はないのですね」
「……本気で期待してたのかよ……」
「まさか。ちゃんとれずに済ませますから、ご安心なさって。寸前で抜く、なんてことも致しませんわ。出さずとも妊娠の可能性はゼロではありませんもの」
「…………俺の婚約者は公爵令嬢じゃなかったのか?」

 ご令嬢以前に女性が口にするものとは思えない言葉。
 コーエンが呻くも、全く意に介さないヘクセは朗らかににこやかに続ける。

「ご心配なく。羊の盲腸ひにんぐすら必要ございません」
「いや、そこはつけとけよ!」

 思わず声を荒らげたコーエンに、ヘクセとその侍従は揃ってキョトンと目を丸くし、それから目を見合わせた。

「だって、不必要ですのよ? 挿入しないのですから」

 コーエンは「もうヤダ、こいつら」と項垂れる。
 すると侍従がコーエンの側へ歩み寄り、膝を折った。よく磨かれた黒いブーツのつま先がコーエンの目に入り、コーエンはノロノロと顔を上げた。
 褐色の肌の侍従が、琥珀色の瞳を煌めかせ、コーエンを見つめている。目を凝らさずとも、目の前の侍従がコーエンに感謝と尊敬、また忠誠を捧げているのがわかった。
 コーエンはへニャリと威厳も何もなく侍従に笑いかける。

「名前はなんて言うんだ?」
「はい。私めはニヒトと申します」
「わーお。今度はニヒトなにもないときたか」

 コーエンはチラリとヘクセを見る。

「まさかヘクセが名付けたわけじゃ、」
「お義母様という名のクズが名付けましたのよ」

 コーエンの言葉を遮るヘクセ。コーエンはナルホドと頷いた。

「公爵の妾だったやつな」
「左様にございます。父と母が婚姻前から父との恋人関係にあり、異母姉をもうけ、母が亡くなったのをこれ幸いと公爵家に乗り込んできては、わたくしを排除しようと幾度となく罠に嵌め失敗し、今度こそわたくしを好色王子殿下の元に嫁がせて、庶子の異母姉を公爵家の跡取りにしようと目論んでいるあの義母でございます」
「……なんで説明し始めた?」
「念の為ですわ。殿下が我が家の醜い事情をご存知なかったらと思いまして。殿下が婿入りして公爵になるのは難しいかなと」
「……もともと婿入りしたくなかったけど、今の聞いてますますやる気が失せたわ……」

 げっそりと窶れきった顔でコーエンが力なく呟く。一方で活き活きとしたヘクセの口は留まることを知らない。

「ヤル気ですか? あっニヒトはおりますけど、婚姻後はきちんと夜のお務めも致しますからご安心なさって。殿下がお望みでしたら婚前交渉もよろしくてよ」
「そのやる気じゃねえよ! ていうか、他に男がいるやつなんか無理やり抱かねぇよ! ニヒトだって嫌だろ」

 なあ、とコーエンがニヒトに振り返ると、ニヒトはキョトン、と目を丸くした。

「いえ。殿下がお嬢様を愛されることに否やはございません」

 無垢な顔でコーエンにキラキラとした目を向けるニヒトに、コーエンは面食らう。

「えっ。なんで……?」

 ニヒトはドン引きするコーエンの手を取った。コーエンが戸惑っているうちに、白い手袋に包まれたコーエンの手の甲へとニヒトが額を当てようとする。
 コーエンは慌てて手を引いた。顔をあげたニヒトが捨てられた子犬のような目をしてコーエンに縋る。

「いやいやいやいや! おかしいだろ! 何してんだ!」

 ニヒトは寂しげな表情のまま、地につけた膝をズリっと擦ってコーエンに近づく。コーエンはぐっと上半身を仰け反り、背中が椅子に当たった。

「……大事なお嬢様を大切にしてくださる方は、皆いい方です。ましてや私どもの事情まで汲んでくださり、その上でお嬢様を愛しんでくださるなんて、この上なく僥倖にございます」
「……なかなかブッ飛んでんな……」
「その上殿下は……畏れながら私めの好み……でございます……」

 ポッと頬を染めるニヒト。コーエンは絶句した。
 固まるコーエンの横からヘクセの涼やかな声がする。

「言い忘れておりましたけど、その子、元奴隷ですの。他国の貴族の元で男娼まがいのこともしておりましたわ。もともと御婦人方ではなく、殿方をお相手にされていたとか……」

 がたりと椅子から立ち上がるコーエン。未だにニヒトはコーエンに追い縋るような眼差しを向けている。

「俺は間に合ってるからな!!」

 コーエンはあまりの展開に、相手の真意を読もうと目を凝らすことも忘れていた。
 この第二王子コーエンとその婚約者との初めての顔合わせ。控えていたコーエン側の侍従や護衛騎士に至っては、皆顔を背け、見ざる聞かざる言わざるを心に決めた。ヘクセ側といえばニヒト一人だったため、何の問題もなかったのである。


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