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第一章
第一話 第二王子コーエン
しおりを挟むコーエンは物心がついた頃から、なんとなく『望まれるもの』と『望まれないもの』が見えた。
目を凝らすと差し出されたいくつものカードのうち、一つが微かに発光している。一つはゆらゆらと靄を纏わせている。そんな感覚だ。
なんとなく。
導かれるままにソレを選ぶと、周囲の人間はこぞってコーエンを天才だと褒め称えた。
それはとても楽で心地が良く、一方とても苦しく心地の悪いものだった。
ある日、一つ上の兄リヒャードが教師に与えられた算術の課題を解いていたとき。リヒャードは珍しく問題の解を出すのに苦戦しているようだった。
コーエンは兄と早く遊びたかった。双子の姉エーベルはレース編みを習っている最中で、コーエンだけ手持ち無沙汰だったのだ。
コーエンは後ろからリヒャードの手元を覗き込む。
眉根を寄せて目を細め、よく目を凝らす。リヒャードの左手にある教本の中で、存在を主張する公式があった。
「それ、こっちの公式にこの数字を入れたらいいんじゃねぇ?」
リヒャードの手が止まる。
コーエンはリヒャードが問題について、コーエンのアドバイスを当てはめ、考えを巡らせているのだと思った。だからコーエンはリヒャードの机に立てかけてあった羽根ペンを一つ手に取り、リヒャードの手元すぐ近くに、解を書き記してみせた。
「ほら。これで解けただろ?」
コーエンは胸を張った。
――これで兄貴と遊べる。
コーエンはリヒャードと何をして遊ぶか、それだけを考えて羽根ペンを机に放った。
「なぁ、兄貴。今日は中庭に行こうぜ。噴水近くの並木の一本にリスの親子が住んでんだって。エーベルが見つけたって言って……」
リヒャードが何も返事をしない。コーエンは「あれ?」と不思議に思ってリヒャードを見た。リヒャードはコーエンに背を向けたまま、固まっていた。
「……兄貴?」
コーエンの頭の中でじんわりと違和感が広がっていく。目を凝らしてみると、リヒャードから青い靄がユラユラと漂っているように感じた。どことなく物悲しさを感じる青。
リヒャードは肩を上下するほど深く深呼吸すると、コーエンに振り返った。
「コーエンのおかげで、躓いた理由がわかった。感謝する」
兄らしく誇り高い微笑み。いつものリヒャードらしく、誠実で公平で威厳に満ちている。
だけどコーエンは見てしまった。リヒャードに漂う、青い何か。コーエンが失敗してしまったことを示す何かが、そこにある。
「あ……俺……。エーベルもリス見たいって……」
心臓がバクバクする。喉がカラカラに乾く。リヒャードの不遜な笑みがいつもと同じなのに、いつもと違う気がする。目を凝らすのが怖い。兄から漂う青い靄を見たくない。
「だ……から、エーベル呼んでくる……」
コーエンはそう言うや否や、逃げ出すように廊下へと駆け出して行った。後ろからリヒャードの「廊下を走るな!」と叱責する声が聞こえた。
コーエンは走った。
喉がひゅうひゅうと苦しそうな音を出して咳き込んでも、足がもつれそうになっても、とにかく走った。コーエンの頭の中に、リヒャードの固まった背中とあの不吉な青い靄が蘇ってくる。
嫌だ、とコーエンは先ほど見えてしまった光景を振り落とすかのように頭をぶんぶんと振る。
――イヤだイヤだイヤだ! 俺は間違ってない! 兄貴は俺を……。
コーエンはハッハッと短い呼気を繰り返す。汗は額から垂れるだけでなく、首も背中も腹も、不快な纏わりをもってコーエンの身体を濡らし垂れている。
足りない酸素を取り込もうと、貪欲に吸い込もうとするのと、不要な二酸化炭素を排出しようとするのと。どちらもがせめぎ合って、その機会を貪り奪い合う。ゼイゼイと聞き苦しい音が、胸から伝って、頭の中で響く。
胸元が焼けるように熱い。ひりひりする痛みは増していく。
頬を通り過ぎていく風が、コーエンの髪を後ろへ撫でつけている。
――嫌いになんかなっちゃいない。そうだろ!
バンッとけたたましい音を立てて扉を開け放つ。
コーエンのすぐ後ろで、扉に控えていた護衛騎士が慌てている。部屋からは妙齢の女性の鋭い悲鳴と叱責の声。
コーエンは左手をドアノブにかけ、ダラダラと流れて止まらない汗を手の甲でグイッと拭う。真鍮のドアノブはコーエンの汗でぬるりと滑る。
コーエンは真っ直ぐ一点を見つめた。
「あんた、また何したの?」
呆れたような声を出して、肩を竦ませる少女。灰青色の瞳に赤みがかった金髪は緩やかに巻かれ、水色のリボンでハーフアップにまとめている。リボンと同じ水色のドレスをに纏っていることを別にすれば、コーエンにとてもよく似た顔の少女。双子の姉王女エーベル。
コーエンはエーベルに目を凝らす。エーベルはいつも通り、ふんわりと温かな橙色の光を身に纏っている。
コーエンはホッとして息をついた。
「……兄貴に、嫌われちゃったかも……」
「は? ありえないんだけど」
しょぼん、と肩を落とすコーエンにエーベルはバッサリと切り捨て、手にしていた編みかけのレースをテーブルに置いた。
レース編みの教師が銀縁眼鏡のブリッジを指で押し上げ、溜息をつく。
「……エーベル様。本日はここまでに致しましょうか」
「はい。先生。コーエンが失礼しました」
諦めた様子の教師にエーベルはぺこりと頭を下げる。教師は苦笑した。
コーエンの学業における卓越した能力は聞き及んでいる。だがその一方で、粗野で少年らしい悪戯な挙動に見え隠れする危うさ。繊細で精神的に幼く弱く、少々不安定な王子だとも噂されていた。
そのコーエンが心の拠り所としているのが、兄王子リヒャードと姉王女エーベル。
たまに登城する貴族達の目はうまく誤魔化しているようだが、コーエンに近しい使用人や教師の目からは、幼いコーエンの小さな世界が兄と姉に依存しているように見えた。
「先生、エーベル連れてくな!」
「はい。いってらっしゃいませ」
教師がにっこりと微笑むと、コーエンはぱあっと明るく顔を綻ばせ、エーベルの手をぐいぐいと引いた。
「ちょっと! いきなり引っ張らないでよ!」
「だって兄貴が待ってる! エーベル、一緒に来て!」
コーエンに強く腕を引っ張られ、引きずられていくエーベル。その目は吊り上がっている。
だがしかし、わくわくと期待しているように、口元は緩んでいた。
「兄貴が怒ってたら怖いから、後ろからびっくりさせてやろうぜ!」
「なんで怒ってるかもしれないのに、もっと怒らせるようなことするわけ?」
「だって兄貴優しいもん。イタズラくらいだったら本気で怒らねえよ」
「まあ、それはそうだけどさあ」
ワイワイと騒がしく部屋を出ていく双子の王子と王女。
建国神話や天使を描いた美麗な壁画や天井画。圧巻のクリスタルシャンデリア。
それから壁に並べられた美しい装飾机には、東方の国の珍しい陶磁の壺。豪奢で大きな花瓶には、芳香を漂わせて咲き乱れる色とりどりの切り花。等間隔に扉の前で立つ護衛騎士。
それらを通り過ぎ、手を繋ぎながら軽やかな足取りで廊下を進んでいく。小さな二つの背中が揺れている。
大きな窓からはたっぷりと陽の光が差し込んで、磨き上げられた廊下が、眩しいくらいに白く照り返していた。
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