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1 ふんぞりかえる令息と、お優しい元庶民の令嬢
しおりを挟む「どうします?」
少年は半歩後ろに佇む少女に物憂げに問いかけた。
オールバックにぴしっと決まった前髪に手を遣ると、わずかにほつれている毛が指先に触れた。心の内で小さく舌打ちして、器用に毛の先を押し込める。
「ハロルド様こそ」
少年の長く優雅な指がいつも通り、いささか芝居がかったように貴族的な調子で振る舞い、前髪を整えるという仕事を満足に終えるのを眺めながら、少女は抑揚のない口振りで答えた。
少年はくっと短く笑った。まったくバカらしい。二人は互いに相手に対してなんの必要性も感じていないこと、それどころか少しばかりの嫌悪さえ抱いていることを知っている。どれほど小さな取り繕いも要らない。
「追いかけてくればいいじゃない? ほら、まだあんなに近くにいる」
少女が細く白い、短い指で青い空を指した。
大きく白い雲が濃い群青色の空にぽっかりと浮かび、同じくぽっかりと豊かな黒髪を風にたなびかせる少女が浮かんでいた。
晴れ渡った空に不釣り合いの落雹に、少年は不機嫌そうに顔をしかめた。そして白い砂浜を走り回る猿のような少年を指さした。
「ええ。リナさんこそ、追いかけてきたらどうです?あなたが抱きつけば、血に飢えた狼のように女性を口説き回る徒労に貴重な青春を費やしているあのバカは……」
「やめて」
少女は少し瞳を揺らして、強い口調で少年を遮った。
少年はその台詞にようやく少女を振り返った。少年の顔には勝ち誇った優越感の表情がありありと浮かんでいた。少女は下唇を噛んだ。
「つまりはそうやって、ごく自然にナタリーの気を自分に向けたいんでしょ。私がジャックを追いかければ……」
「リナさんが先に言い出したことでしょう」
少年は意地悪く笑った。
大粒の雹から逃げ惑ってはボロボロの態を見せる猿は実際、少女が大きな瞳を潤ませ可愛らしく甘えた声でしなをつくれば、すぐさま少女に襲いかかるだろう。そしてすぐさま離れるのだ。
少女はキッと少年を睨め上げた。
「いいえ。ハロルド様からよ」
少年はいかにも心外だ、と目を見開いた。追いかけろなどという屈辱的な提案をしたのは少女のはずだ。
少女は苛々とした様子を抑え込んで静かな口振りで言った。
「あなたが先に、口を開いたんだわ」
少年は小さく唸った。
そうだ。お互いによくわかっている。少年と少女が二人きりに残された状態で口を開けば、結局会話の帰するところは常に同じだ。
「それは」
悪かったですね、と皮肉な視線で投げやりに言い捨てると、少女が忍び笑いを漏らした。
「今度ジャックに謝り方を教わったらいかが?」
少年はむっつりと少女を見た。少女は小さく薄い身体を丸めておかしそうにクスクス笑っている。身体が揺れるたびに、真っ直ぐで固そうな黒髪も豊かに揺れる。
少女の胸は、この年頃の女性としては薄すぎるし、細いウェストはくびれというより栄養失調の子供のようだ。
白い砂浜を所狭しと駆け回る猿に雹を雨霰と落としている、ナタリーの魅惑的なふとももを口元を緩めて眺めたあと、ちらりと棒きれのような足を見やった。女性らしい丸みはそこにはない。少年は在るか無きかの微かな同情と盛大な軽蔑を瞳に込めた。
少女はその視線の意味に気づき、顔を赤く染めると、辛辣に言い放った。
「お偉いキャンベル家のおぼっちゃまは、鼻息荒く胸を反らしてふんぞり返るのがお得意ですものね!」
少年はそれのどこが悪い、と気にもかけない様子で「ええ、その通りです」と答えた。少年の視線の先には、キラキラと光を跳ね返す不思議な塩梅の黒髪が青い空に弧を描いていた。
少女は少し眉をひそめると嘆息し、寂しそうな瞳で少年を見た。少年は少女を振り返らず関心のないように振る舞っていたが、左の頬に感じる少女の視線に苛立ちを感じた。そこには心の底からの、純粋な憐れみがあるようだった。自分が誇りに思っている信念と振る舞いに、度々少女がそのような視線を向けることに、少年は我慢ならなかった。
少年は遂にうめき声を漏らした。
「お優しい元庶民のリナさんが、誰彼構わず同情して理解を示そうとするのがお得意なようにね」
少女を振り返ると、少女は大きな瞳をこれ以上ないほどに見開いていた。理性的なオニキスのようにキラキラとした瞳は今やこぼれ落ちんばかりで、少年の嗜虐心を誘った。とろけるほど暑い太陽の下、少女の顔は完全に血の気を失い蒼白だった。
少年はうめき声を改め、強く傲慢な自信を苦労して抑え込み、穏やかで極上の微笑みを少女に向けた。
「リナさんは本当にお優しい、素敵な女性だ」
ジャックのやつも、そんな素晴らしく心根の優しい幼馴染みの涙が何より心を動かすようですね。
少年の頬は緩み、端正な顔の夢のような微笑みはますます魅惑的になる。
「ハロルド様、あなたっていう人は……!」
少女はきつく両手を握りしめ、シャーベットピンクの塗られた爪が手の甲にくいこんで震えていた。青白い顔の中、そこだけ不自然に赤い唇がわななく。
「お得意の誘惑法でしょう。ああでもぼくに仕掛けるのは賢明ではありませんよ。ぼくはジャックほど愚かではありませんし、きみの魅力はぼくを愚かにするには少しばかり足りないようだ」
リナは青く震えていた顔にさっとシャッターを下ろすと、冷たく目を細めた。
「いいえ。あなたほど愚かな人は見たことがないわ」
少年は品性に欠けることを自覚しながら鼻で笑った。
少女の侮蔑は、人形のように冷たい表情の割りに負け惜しみの度合いが濃く滲みすぎていて、あまり気の利いた切り返しとはいえない、と少年は心地よい優越感に浸った。
少女は一度下ろしたシャッターをあげて瞳を揺らしたかと思うと、僅かな溜息を漏らし、くるりと背を向けて盛り場から遠く離れ人影もない小さな小屋へと向かっていった。小屋は、リナにナタリー、ジャックと同じ孤児院出身の娘が営む寂れた宿屋だ。
宿屋を営む娘は腕っぷしが強く、並大抵の男には負けなかったが、客に舐められないように、要らぬ諍いが起きぬようにと男装をしていて、リナはその男装の娘と誰より仲がいい。
ハロルドは、リナが男に相手にされぬからと男装の麗人とお慰みの擬似恋愛でもするつもりだろうと思い、リナがますますみじめったらしい貧相な小娘に見えた。
ハロルドが満足げに口の端を歪めると、少し前からちらちらと視線を投げかけてきていた、頭の軽そうな少女二人連れが声を掛けてきた。ハロルドは白い歯を胡散臭いほど爽やかに光らせて微笑み返した。少女達が黄色い悲鳴を上げた。
連日の海通いによる日焼けでボロボロの肌と、薬品で金に染めたパサパサの乾ききった髪。顔のつくりは塗り込められた化粧でもはや判別がつかない。気味の悪いほど同じような面構えの少女達の手にひかれて、ハロルドは浅瀬に入っていった。
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