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本編

第二話  囚われの姫君を救い出すのは

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 シャロンの変化を受け入れながらも、静かに苦悩するシャロンの家族。
 その一方で、諸悪の根源たるエドワードは、シャロンの変化を愉快がった。

 ある日、エドワードと剣の稽古をしていた日のこと。
 ついにシャロンはエドワードに打ち勝った。
 シャロンによってすっ飛ばされた木剣は、エドワードの右手からだいぶ離れたところで、地面に転がっている。
 尻もちをついたエドワードは、シャロンに突き付けられた木剣の切っ先を指でつまんだ。
 剣術稽古に通常用いる、剣先を潰した模造剣は、エドワードとシャロン、二人きりのの稽古では、使用を許されていない。ゆえにここにあるのは、サーベルを模した木製の剣。
 エドワードが手袋も嵌めていない、ふくふくとした手で遠慮なく掴もうと、何の問題もない。


「ははは! いいね、シャロン! まるで君は、囚われのお姫様を救い出す、男気溢れる、腕っぷしの強い、正義の荒くれ者みたいだ!」


 そこは王子様、せめて騎士が順当ではないだろうか、とシャロンは思ったが、エドワードにそれを言うのは憚られた。


「その調子で、どうかボクのことも、いつか救い出しておくれよ。魑魅魍魎どものごった返す、この伏魔殿からさ」


 シャロンの木剣をぐいと引っ張って立ち上がると、エドワードはスラックスについた土埃をぱんぱんと叩き落とした。
 その様子を尻目に、地に転がったエドワードの木剣を拾おうとシャロンが腰をかがめる。するとエドワードの揶揄うような、それでいてピリピリと警戒し、神経質そうな感嘆の声があがった。


「おや」


 口の端を歪めて、目を細めたエドワード。
 そのエメラルドの瞳が映し出すのは、遠く先。くすんだ金と、輝くばかりの濃い黄金色の髪。その頭二つ。
 一人は琥珀色の瞳で、もう一人はエドワードと同じ、エメラルドの瞳。
 濃い黄金色の髪の持ち主がエドワードに振り返り、エドワードと同じエメラルドの瞳が、凍えるように冷たく眇められ、エドワードとシャロンの足を地に縫い止めた。

 慌ててシャロンが頭を下げ、臣下の礼をとる。
 シャロンが頭を上げたときには、異なる色の金髪二人の姿は、とっくに消えていた。

 ふうっとエドワードが大きく息を吐き出す。


「相変わらず、アルフレッド兄上は、ボクのことが大嫌いみたいだ。彼のあの目。シャロンも見た? 深夜、ベッドにネズミが潜り込んできたときでさえ、彼はもう少し慈愛を示すだろうに」


 肩をすくめるエドワードに、シャロンはどんな言葉をかけていいのか、いつもわからない。
 戸惑うシャロンに、エドワードは笑う。


「気にしないで。ああ見えて、ユーフラテス兄上はお人好しなんだ。ボクがこうしてシャロンと剣の稽古をしていられるのは、彼が便宜をはかってくれたからさ。感謝しているよ」


 たおやかで中性的な美貌のアルフレッド。鋭利硬質な美貌のユーフラテス。
 エドワードの異腹の兄二人。
 彼等は纏う空気こそ異なるが、よくよく見れば、顔立ちは似ている。エドワードとは違って。


「人の噂は当てにならねぇな」


 ぶっきらぼうにシャロンが言い捨てると、エドワードは腹を抱えて笑った。


「ああ! あれ? ユーフラテス兄上が婚約者のご令嬢に、さんざん暴言を吐いてるってやつ?」


 エドワードの二番目の兄、ユーフラテスには婚約者がいる。
 この国一番の武を誇る、辺境伯の令嬢。だがその令嬢の評判はあまり芳しくない。
 というのも、かの令嬢は、あまりに無気力で、あまりに無能だ、というのが大方の見解だ。
 シャロンがまだ令嬢らしく振る舞っていた頃、一度だけその辺境伯令嬢とお茶会で席を共にしたことがある。
 率直な感想として、世間の評判は妥当であるように思った。
 悪い心根の持ち主ではないのだろうが、とても貴族の令嬢としてやっていけそうではなく、また何を考えているのか、常にボンヤリ死んだ目をした薄水色の瞳は不気味だった。

 令嬢らしくない。何を考えているのかわからない。

 まるで自分と同じだ。ここにきて、初めてシャロンは、かの令嬢に親近感を抱く。


「あれはさ、ユーフラテス兄上がご令嬢を意識し過ぎているだけさ! 笑っちゃうんだよ。あんなにもいつも、自分を律して、求められる姿をしっかり振る舞う方なのにさ!」


 ユーフラテスが婚約者を茶会の度に蔑み、こき下ろしているという話については、ほとんどの者の知るところで、それによってますます、ご令嬢は他の令嬢方から嘲笑されている。
 聞くところによると、身分の下の者達からもあまりよい扱いを受けていないという。
 そのためか、辺境伯令嬢は自領に引きこもり、王都には久しく戻っていない。

 それについて、当然ユーフラテスは事態を把握しているのだろうとシャロンは考えていた。だがエドワードの言い分では、ユーフラテスは婚約者を悪く思っていないらしい。
 もしかすると気がついていないのだろうか。

 シャロンの顔に当惑が浮かぶのを、エドワードは見て取り、辺りを見渡した。
 そして薄い唇に人さし指を当て、「しいっ」と示す。


「……数年前のことさ。ご令嬢がユーフラテス兄上との茶会で倒れてね。国王陛下と辺境伯しか知らないはずの――ううん。アルフレッド兄上と、その側近候補の一部は、もしかすると知っていたかもね」


 エドワードはシャロンの耳元に手を当て、くちびるの動きを見せないようにしながら囁く。
 空気の振動は微かで、だがエドワードの手で囲われたシャロンの耳は、エドワードの吐息で湿り、ムンムンとこもる。


「それで、キャンベル辺境伯ご令嬢とはいえ、知るはずのない、決して漏洩してはならない極秘事項を茶会で口走った――そこまではシャロンも、きっと知っているね?」


 シャロンは素早く頷く。
 即座に箝口令は敷かれたものの、茶会は衆人環視のもと催される。人の口に戸は立てられない。
 またたく間に、王都に居を構える高位貴族間に広がり、恐慌状態に陥ったものだ。


「なぜご令嬢が、そんなとんでもない爆弾発言をしたかというとね――なんでも未来視なる、とやらを、思い出したそうなんだ」


 シャロンは思い切り眉をひそめ、エドワードを見た。
 鋭く振り返ったために、顎先で短く揃えたシャロンの髪が、エドワードの頬をなぶる。
 エドワードは慌てた。シャロンの耳元に手を当て直す。


「ダメだよ、シャロン。ここには人の目があるんだから。ボクの口の動きで、誰が密告するかわからない。ユーフラテス兄上ならともかく、アルフレッド兄上に知れたら、ボクなんかどうなることやら」


 焦りを滲ませつつも、エドワードの口調はいつも通り軽薄だ。


「これからボクの言うことは、シャロン。いつかの日まで、忘れておいてね」


 そう言うと、エドワードはシャロンに軽々しく国家機密を打ち明けた。
 人の目があるのではなかったのか、とシャロンは聞き終えてすぐ、舌打ちした。
 エドワードはシャロンの苦虫を噛み潰したような渋面に、悪びれなくヘラリと笑った。


「だからさ、シャロン。もし魔女が一つだけ願いを叶えてくれるなら、ボクはただのエドワードになりたい。シャロンに打ち負ける、へっぴり腰の軟弱エドさ!」


 エドワードのおどけた声色に、切実な色が疑いようもなく混じり、シャロンは悪態をつく他に術がない。


「魔女なんざ、大昔に消えちまった。いまさらどこを探したっているもんか」

「シャロンは夢がないなぁ。二人でおとぎ話に夢中になったこと、もう忘れちゃった?」


 シャロンは無言でエドワードを睨んだ。
 覚えているに決まっている。


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