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第5章:聖地ラスラッカ編

第114話:暴風のエリカ

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 愛するガルシアの魂を胸に抱いて、エリカは聖地へ飛び立った。

 ハルクルトたちよりも先に聖地へ下り立たなければならない。もしハルクルトが先に足をつけたなら、聖地はハルクルトを大精霊として認め、エリカは半人半精霊になり、ガルシアの命を精霊に変えることはできなくなる。

 そして、キミヨが言った通りハルクルトが大精霊になれば雪崩式に全てが狂っていく。エリカはこの世界で半精霊として生き、有限の命の炎を灯して消えていく。せっかく取り出したガルシアの命はエリカの手を離れ、水の聖地にあるシェリオルの岸辺で洗われるか、アガバの持つ火山、アーラの業火で浄化されるかしかない。そしてエリカに残るのは無だ。

 ああ、恋などしなければよかった。人間など目に入れなければよかったのに。いや…。それでも、ガルシアとの出会いは忘れがたいものであったし、共に過ごした甘い時間は離しがたいものであったはずだ。手に入れてしかるべき感情だったのだ。

 エリカは胸に抱いた小さな光に目をやった。小さな暖かい光が寄り添うようにエリカの手に感じられた。

「ガルシア……すぐよ。精霊にしてあげるから待ってて」

 そうすれば、どこへ行くにも一緒。きっと癒される。楽しめる。永遠に共にいられるのだ。

 エリカは想像に緩んだ顔をキュッと引き締め、一陣の風となって聖地へ向かった。地の大精霊が与えた地酒の効力が切れる前に聖地へ向かわなくては。



 **********



「クルトさん!あそこ!」

 ミヤコが前方に浮かんだ影を目視し、クルトに告げた。

 遠方に見える黒い影は、右へ左へゆらゆらと流れ、一定していない。まるで湖に浮かぶ水草のようだ。

「聖地、か?」
「雲じゃないことは確かよね」

 ミヤコは目を細めてその実態を見極めようとするが霞がかかったようでよく見えなかった。フェリも首をかしげ、昔はあんなじゃなかったのだけど、と呟いている。

「大精霊が穢されているのだとしたら、生気がないのも頷けるけど。それにしても幽霊船みたいでちょっと不気味だね」
「ああ。結界だけは作っておいたほうがいいな」

 ミヤコはひとつだけ気がかりなことがあった。

 モンファルトに攻撃された時から、光の精霊がミヤコの周りから消えた。それまではふわふわと周りを漂っていたのが、今はその気配さえ感じない。クルトは精霊が見えるから、異常があればすぐに気がつくはずだ。だけど、ミヤコから聞くのはなぜか躊躇われた。モンファルトにキスされた事をわざわざぶり返したくもなかったし、今はクルトのほうが精神的に張り詰めているのが目に見えてわかったから。

 ――お母さんの事を考えているんだろうな。あの状態の聖地に精霊がいるとは思えない。もしかしたら、お母さんはすでに…。

 そこまで考えてミヤコは頭を左右に振った。

「きっと大丈夫」

 穢れは払えばいい。光の精霊がいなくても、ミヤコには歌がある。言霊はきっと使えるはずだから。出来る事、見える事をこなしていこう。そう考えてギュッと拳を握るミヤコを、クルトは黙って見つめていた。

 母の事は気になる。だけど、今のクルトにとってそれは些細な事に過ぎなかった。幼い記憶の中の母は、どう思い出そうとしてもミヤコの顔にすり替わってしまう。笑いあった楽しげな記憶も、抱きしめた温かなぬくもりも陽だまりのような匂いも全てミヤコが与えてくれた。何よりも失くしたくない、唯一の存在。ミヤコが望むなら、聖地だろうと、世界の果てだろうと付いていくし、ミラートの世界がどうなろうと知った事ではない。向こう側で生きるというのなら、不自由はあるものの自分も付いていくまでだ。ミヤコがこの世界を救いたいというのなら、一緒に救う。

 なのに、なぜ。

 抱きしめても、体をつなげても、なぜこんな焦燥感にとらわれるのか。どれだけ愛の言葉を紡いでも、愛してると言われても、心にある杯はいっぱいにならず、気がつけばこぼれ落ちていくような感覚があるのはなぜなのか。ミヤコの目に自分の姿が映っていても、その瞳が己の姿を通り抜けて、遥か果てを見ているように見えるのはなぜなのか。

 モンファルトにミヤコを攫われた時に感じた虚無感が背筋を凍らせた。

「やはり、あの時きっちり灰にしておくべきだった…」

 そんなことをクルトが呟いた時だった。ゴッと突風に煽られてフェリがバランスを崩した。

「きゃっ!?」
「うわっと」

 とっさにクルトがミヤコを抱き寄せ、フェリの上でバランスをとった。

「乱気流?」
「違うわ!精霊の仕業よ!」
「精霊?」

 フェリが突風に抗って翼を広げながら何とか高度を保つ。逆風に抗いながら羽ばたくが、なかなか前に進めない自身にフェリは悪態をついた。

「この風!エリカに違いないわ!このアタシを煽るくらいの力を持ってるのは!」
「エリカ……って、クルトさんのお母さん!?」

 クルトもハッと前を向き、目を凝らした。

「軍師もいる…!」
「ええ!?お父さんも?」
「ああ……だけど」

 前方に霞んだようにふわふわと浮かんでいたはずの風の聖地が、突然現れたかのようにはっきりとその姿を現した。だがその姿はまるで空に浮かんだ廃墟のようだ。枯れた木々が、その姿をはっきりと映し出し、霧が漂っている。

「聖地が……!」
「フェリ!近づけるか?」
「大精霊が戻ってきたのよ!迂闊には近づけないわ」
「大精霊って……もしかしてエリカって、大精霊なの?クルトさんのお母さんが?」
「そうよ!じゃなきゃ、人間と交わることなんてできるわけないじゃない!何を今更」
「そんなの知らないよ……」
「……そうか。僕の幼少の記憶の場所は、聖地…」

「ハルクルト…我が息子」

 突然届いた声にクルトもミヤコも顔を上げた。目を凝らせば、聖地にたたずむ一人の姿が目に入った。ミヤコがごくりと喉を鳴らした。

「……母さん?」
「……あなたはここへ来るべきではなかった、ハルクルト。愛し子を連れて、地上へ戻りなさい。すべてが手遅れになる前に」
「手遅れ?僕は…僕たちは、聖地を浄化するためにここへ来た。風の聖地に一体何が起こったんですか!」
「あなたが心を煩わすことは何もない!さあ、帰りなさい!」
「軍師も…父さんもそこにいるんですね?父をどうしたんですか」
「あなたの父は……ガルシアは、私と共に生きます。あなたの父はもういないの。彼は精霊になるのよ。私の力で…!」
「精霊に?親父を、父をどうしたんですか!あの人はミラート神国にいるはず!アイザックたちが必要としているのに、なぜここに親父の気を感じるんだ!?」
「あの人は人としての生を終えました。これからは私と共に生きるのです!」

 クルトの母であるエリカは、あまりクルトに似ていない。ミヤコはその姿を見て首を傾げた。クルトは父親に似ているのだろうか。エリカからは生命力もあまり感じない。大精霊だというのに、儚げで今にも透けて消えてしまうほどだ。

 光の精霊の存在が感じられないだけに、ミヤコの言葉がどこまで通じるかわからない。少し迷った後、ミヤコは思い切ってエリカに声をかけた。

「風の大精霊さま!聖地は大丈夫なのですか!私は精霊王の孫娘です。3つの聖地を瘴気から解放してきました。後は風の聖地が元に戻れば、地上から瘴気が消えるはずなんです!どうか…」
「黙りなさい!人の子よ、あなたの助けは要りません!私たちを放っておいて!それにお前はすでに瘴気に穢されているではないの!」
「え…っ」

 エリカの突き放した物言いに、ミヤコは固まった。

 瘴気に穢されている?

「それは、どういう」
「私に分からないとでも?あなたの中に渦巻く黒い霧。どこで穢されたのか知らないけれど、今浄化の力を使えばあなた自身が消えることになるんじゃなくて?」

 穢された?黒い霧?

 とっさに浮かんだのは、モンファルトに襲われた時の背中の痛み。それから押し付けられたキス。まさか、あの時穢れが…。

「ミヤ…?」

 すっと青ざめていくミヤコに気がついて、クルトがミヤコを覗き込んだ。

「まさか…モンファルトに襲われた時の」
「何か、されたのか?怪我でも負ったのか?」

 クルトがミヤコの体をペタペタと触り、どこかに怪我がないかと慌てた。モンファルトに打たれた背中がずきりと痛む。

 光の精霊が感じられなくなったのは。まさか。

 呼吸が乱れる。

「あの、キス……」

 あのキスは、ただのキスなんかじゃなくて、悪念を吹き込まれたのだとしたら。過去のモンファルトの行動を思い返す。子供の頃に母親を殺され、聖女を憎み反逆罪で廃嫡された。それから水面下で国を乗っ取ろうと画策してきた元王子。

「ルビラの邪念……」

 それほどまでの憎しみをかかえて生きてきた子供なら、ルビラに目をつけられたとしてもおかしくはない。ましてや、ミラートの血を引く子供。

 まさか、あのキスで邪念を送り込んだ?

『お前の思い通り、簡単に諦めるわけがないでしょう』

 ミヤコの頭の中で、ルビラが笑った気がした。
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