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月のように遠く美しい君へ
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――そう、君は正しく月から来た少年だった。
『月は一人で輝かない』
今日も俺は暗闇の中で目を醒ます。
枕元にあるスマホに触れると、人工的な光が闇を裂いた。浮かび上がる文字はまだ真夜中と言っても差し支えない時間帯だ。何だか損したような気分になって、俺はもう一度目を閉じた。
――ついさっきまで、夢の中で一緒に居た『あいつ』に逢えるんじゃないか。
そう未練がましく願ってみても、そこに広がるのは漠とした漆黒だけで、月の光ひとすじ射し込むことはなかった。
***
初めて望と出逢ったのは、高校二年生の時のことだ。
転校生として紹介された望は、眉を顰めて立っていた。その透き通るような金髪の美しさに、どうしようもなく惹き付けられたのを覚えている。
「長月くんは生まれつきこの髪の色なんだそうだ」と弁解するように先生が言うと、望はいよいよ不機嫌そうに口唇を尖らせた。クラスメート達はそんな彼の様子を固唾を呑んで見守っている。
鼻筋の通った大人びた顔付きも相まって、顔も頭もすべてが平凡な俺には、まるで望が月の光から生まれた別世界の住人のように思えた。
教室中から向けられる好奇に満ちた視線を振り払うように、望は少し乱暴な仕種で指定された席に座る。それが俺の隣だったのは、きっと運命というやつだろう。近くで見る望の横顔は彫刻のように整っていて、俺は少し緊張して、ひとつ咳払いをした。
「――教科書、見る?」
できるだけ平静を装って話しかけると、望は髪と同じく光り輝くその瞳で、ちらと俺を一瞥して――少しだけ驚いたように目を見開く。
「……ありがとう」
ぼそりと呟かれた声は想像していたよりもずっと落ち着いていて、俺はほっと胸を撫で下ろした。
「――夜野って、音楽やるの?」
授業が終わって帰ろうとした時にそう話しかけられ、俺は思わず立ち上がった姿勢のまま望を凝視する。
望は初対面の時よりも随分と穏やかな様子で、俺のことをじっと見つめていた。瞳がきらきらと光を含んで、俺はあぁ綺麗だなと思う。
そして、投げかけられた問いのことを思い出して、はっと我に返った。
「そうだけど、何で知ってるの?」
「朝来た時、音楽室の窓からピアノを弾いているのが見えたから。まさか隣の席の人だと思わなくてびっくりしたけど」
どうせ誰にも文句を言われないだろうと音楽室を我が物顔で使っていた様子を望に見られていたなんて――言いようのない恥ずかしさと共に、何故だか一抹の嬉しさがじわりと胸に宿る。
そのまま話を続けてみると、望は「俺、音楽好きなんだ」と事も無げに言った。好きなロックバンドが同じだったことから盛り上がって、いつの間にか俺達は帰ることも忘れて席で話し込む。友達なんてほぼ居ない俺にとって、こんな風に自分の好きなことを誰かと語り合うのは初めてだった。
「――じゃあ、朔、また明日」
帰り際、望が俺のことを名前で呼んだ。家族以外、誰にも呼ばれることがなかった俺の名前が、望に呼ばれると特別な響きをもって輝くように感じられた。
「うん、望、また」と――俺も初めて友達のことを名前で呼んだ。
それから仲良くなった俺たちは、色々な話をするようになった。
或る日、俺がこそこそと作り溜めていた曲を聴かせると、望はその顔を驚きの色に染めて「これ、朔が作ったの?」と訊いてくる。どういう意味なのか不安に思いながら頷くと、望の表情は驚きから歓喜へと生まれ変わった。
「すごい――俺、朔の曲好き」
零れるような笑顔に照らされて、俺の頬も緩む。その輝きに煽られるように、俺は寝る間も惜しんで曲を書いた。破壊衝動をぶち撒けたハードロック、気分が高揚するような応援歌、時には心を震わせるバラードや、無い経験を絞り出して書いたラブソングまで――そのすべてを望が愛おしそうに聴く姿を見て、俺は誰かが自分の曲を聴いてくれることの歓びを初めて知った。
そして、曲を軽く口ずさむ望の声を聴いている内に――俺の心にそろりと欲望がにじり寄る。
「望、良かったら俺の曲、歌ってくれない?」
望の歌声は、その外見に決して劣らない輝きを放っていた。落ち着いたトーンの話し声とは少し色の違う、鮮烈で艶のある歌声。
俺は必死で曲を作りながらも、実のところその完成度には自信がなかった。だが、そんな自己満足の塊たちですら、望が命を吹き込めば輝くんじゃないか――俺はそんな淡い期待を抱いて、望にそう持ち掛けたのだ。
すると、望は俺の言葉を受け止めるように、静かに瞼を閉じた。色素の薄い長い睫毛が、か細い影を頬に落とす。
そして開かれた瞳は、決意の色に燃えていた。
「――朔、ありがとう。俺、歌うよ」
***
「夜野、先週の会議の議事録まだか? また遅いと営業部からクレーム入るから、適当に仕上げて送っとけよ」
現実感の溢れる言葉たちに冷や水を浴びせかけられて、俺は思わず声の発信源に顔を向ける。
そこに座っていたのは、白髪交じりで生気の無い目をした、俺の直属の上司だった。
昨晩夢の中で見た彼とは似ても似付かない相手に、俺は内心溜め息を吐く。
「何だ? 文句あるのか?」と不機嫌そうに表情を歪める上司に、俺は「すみません、すぐやります」と頭を下げ――似ても似付かないのは自分だってそうだろうと小さく自嘲した。
コミュニケーション力なんてものに恵まれなかった俺が辛うじて新卒で入社できたのは、誰もが知っている大企業――の孫会社だった。世間一般でいうブラック企業がどの程度のものかはわからないが、うちの会社もなかなか良い線いっていると思う。
朝8時前には出社をして、気付けば夜22時を超え、土日のどちらかも仕事をし、残る一日は泥のように眠る――そんな生活を、大学を卒業してからもう10年近くも続けている。
空元気で騒ぐ酔っ払いを横目に見ながら、俺は仕事に疲れ果てた乗客の一員として深夜の電車に乗り込んだ。頭を空っぽにしたくて、吊り革に掴まりながらネットニュースをスワイプしていく。
その画面上で、輝くような金色の光に出逢い、俺は思わず指を止めた。
『長月 望デビュー5周年ライブツアー開幕』
記事に掲載された写真の中で、少し大人になった望がこちらを見つめている。
――そう、昨晩見た夢と同じ、金色に輝く瞳で。
望が俺の曲を歌う動画をインターネットに投稿したのは、少しずつ人々が秋を意識し始めた9月のことだった。
最初は何とも味気ないもので、どの動画も再生回数は1桁止まりだった。
それが、或る日『このひと、すごく綺麗』というコメントが付いてから――じわりじわりと再生されるようになり、気付けば望は街中でも声をかけられるようになっていた。
望は少し戸惑っていたようだが、俺は誇らしげな気持ちだった。
誰にも聴かれることがないと思っていた俺の曲が、逢ったこともない沢山の人に届いている――それは俺の曲が素晴らしいからではなく、ただ望が歌っているからだという事実を知りつつも、俺は密かに悦に入った。
しかし、望の動画が多くの人に見られれば見られる程、時折投稿される芯を喰ったコメントが俺の心を蝕むようになった。
『望くんは格好良いけど、曲は普通じゃない?』
『折角だから、もっと良い曲歌ったら良いのに』
『歌は上手いのに、曲が全然心に響いてこない』
――それは、当然の帰結だった。
俺は自分の実力も弁えず、望という特別な存在を使って、それを自分の手柄だと勘違いしていただけだったのだ。
真っ暗な夜空を明るく照らす月の輝きを自分のものだと勘違いした――愚かな己の姿をまざまざと見せ付けられて、俺の心は、ぱきりと割れた。
「――朔、何で? あんなやつらが言うことなんか気にする必要ないって」
もう曲は書かないと言った俺に、望は悲しみに顔を曇らせながら言った。
「俺は朔の作った曲が好きなんだよ。朔の曲だからこれまで歌ってきたし、これからも歌おうと思える。朔が居なきゃ、意味がないんだ……!」
俺が聞きたかった言葉ばかりを、俺が好きな声で紡ぐ。
どれだけ嬉しかっただろう。その存在に、どれだけ救われてきただろう。
でも――俺はもう、限界だった。
「望――俺は望とは違うんだよ」
俺の放った言葉に、望は愕然と目を見開く。
「顔も頭も良くないし、作る曲だって望のツボには入ったかも知れないけど、一般的に見れば大したものじゃない――そんな凡人なんだ。だから、これ以上望の傍に居ると、俺がつらいんだ。頼むから、もう放っといてほしい」
酷い八つ当たりだと思った。望は何も悪くない。悪かったのは、ただただ凡人の俺だ。
目尻に薄らと涙が浮かぶ――そんな傷付いた表情ですら綺麗だと思ってしまった俺の心の裡を知ったら、「朔は馬鹿だ」と笑ってくれただろうか。
「俺が作った曲は、望に全部あげるよ。好きに使ってくれていいから」
それが、生まれて初めてできた大切な友達への、俺のせめてもの餞だった。
――高校を卒業してから、俺は一度も望と逢っていない。
勿論デビューしたことは知っていた。しかし、今望がどんな曲を歌っているのか聴く勇気がなくて、未だにCDは1枚も持っていない。
それでも、たまに望は俺の夢に現れては、夜空に輝く月のような明るさで俺に笑いかけるのだ。その度に、俺は存在しない未来を未練がましく想像してしまう。
――あの時曲作りを止めなかったなら、俺たちは今頃どうなっていたのか、なんて。
最寄り駅に到着し、食べ飽きたコンビニ弁当を買って帰路に着く。
明日も半日以上画面上の数字と睨み合い、結論の出ない会議を繰り返すのかと思うと、俺は何のために生きているのだろうと疑問が湧いた。
――しかし、それは俺の選択の結果だ。誰にも文句を言うことなどできない。それに、たとえあの時音楽から逃げなかったとしても、それが今に繋がっていたとは到底思えない。
望との別離を選んだのは、俺自身で――俺は特別な人間ではないのだから。
昨日観た望の夢が、亡霊のように俺の心に纏わり付いてくる。
俺は溜め息を吐きながらマンションのポストを開け――そこで、見慣れない封筒を発見した。
***
そして今、俺の目の前には、月から来たと思しき旧友が立っている。
正確には、俺の10m程先の――ステージの上に。
「みなさん、今日は忙しい中、僕のライブに来てくれてありがとう。こうやってみなさんと5周年を迎えられたことが、本当に嬉しいです」
都心の公園内にある屋外のライブ会場は満員御礼だ。こうやって予定のある休日はいつ振りだろう――思い出せないくらい遥か彼方に思える。
あの日、封筒に入れられていた1枚のライブチケットが、俺をこの場所へと誘った。
『朔、元気にしていますか。もし良かったら、聴きに来てください。望』
ステージの上に立つ望は、あの頃と同じ――いや、あの頃よりも輝いて見える。月の雫を浴びたような金髪に、彫刻のように整った顔、そして――あの頃よりも伸びやかに響く美しい歌声。
太陽が姿を消したこの夜の世界で、望の存在は圧倒的な光を放っていた。望が口を開けば会場中がその声に耳を傾け、遠慮がちに笑えば聴衆の心にぱっと花が咲く。
久々に見た望の輝きに、俺は酔いしれ――そして心のどこかで納得していた。
――あぁ、やはり望は、月から来た特別な人間だったのだと。
「それじゃあここで、デビューした時からずっとライブで演っている――僕の大好きな曲を披露したいと思います。月が綺麗なこんな夜にぴったりの曲です」
そう望が言うと、会場中から歓声が湧き起こる。
ファンからすると恒例の流れなのだろうか。俺の隣に居る女性客も嬉しそうな顔をしている。
ステージの上で輝く月に照らされながら、望はスタッフによって運ばれてきたキーボードの前に座り、小さく頭を下げてからこう言った。
「――聴いてください。『A boy from the moon』」
その言葉に、思わず鳥肌が立つ。
望がキーボードを弾きながら、歌い出した――そのメロディーを、俺は知っていた。
「――この曲、良いね」
放課後ふたりきりの教室で、イヤホンを外した望は満足気に呟く。
「何だかメロディーがいつもより繊細で、心にすぅっと入ってくる感じ。俺、朔の曲の中で一番好きかも」
望の言葉に、俺はしてやったりと笑みを浮かべた。
「そりゃあ良かった。これ、自信作だったんだ」
そして、望のことをイメージして作った曲だということは――何だか照れくさくて、そのまま黙っておくことにする。
優しい表情で曲を口ずさむ望の横顔が、俺の瞼に焼き付いた。
――そんな思い出の曲を、望が歌っている。
俺は呆然とその姿を眺めていた。
何故、今更この曲を。
デビューしてから、才能溢れるプロのミュージシャンたちに曲を書いてもらったんじゃないのか。
それなのに――何で俺なんかが書いた曲を、そんな風に優しく、愛おしそうに歌うんだ。
――ぐすりと音がして、隣を見る。
女性客が泣いていた。
そのまま周囲を見回すと、聴衆たちは望が歌う俺の曲に聴き入っている。初めて見る光景に、俺は戸惑いながらも――肚の奥でじわりと熱が湧き上がるのを感じた。
その感覚は随分と久し振りで、それでいて決して嫌なものではなくて。
ずっと長い間逢えなかった友達に逢えたかのような――そんな静かな感動にも似ていた。
そして、視線をステージ上に戻した俺を、穏やかな金色の眼差しが捉える。
瞬間、俺と望の間を遮るものはなくなった。
ステージと客席を隔てる距離も、無遠慮に浴びせかけられる世間の声も、10年以上逢わなかった時間も――すべてを超えて、俺と望は今同じ空間に居る。
望が歌いながら笑った。その顔が、あの日俺の曲を聴いた時の望の表情と重なる。
それがどうしようもなく嬉しくて――俺も思わず、望に笑顔を返した。
望がアウトロを弾き終えると、会場中を割れんばかりの拍手が埋め尽くす。望が穏やかに微笑みながらマイクを手に立ち上がると、拍手の音がフェードアウトしていき、やがて会場中が望の言葉を待つ形となった。
「聴いてくれてありがとうございました。この曲、毎回ライブで演っているけれど、ファンのみなさんから一番人気があるんです。僕はそれがすごく嬉しくて――だって、僕も一番好きな曲だから。CDに収録してほしいという声も沢山頂いていて、本当にそうできたらと思っています」
でも、と望が言葉を継ぐ。
「この曲は、僕の大切な友達がプレゼントしてくれた曲で……いつか、彼が作った曲だけを歌ったCDを出すのが、僕の夢なんです。だから、それまで待っていてください。きっと彼は――この曲よりももっと素晴らしい曲を、沢山作ってくれるから」
望の言葉に、会場中からあたたかい拍手が生まれた。
ステージ上の望がさりげなくこちらを向いて――そして小さく頷く。それに頷きを返しながら、俺は再度火が点いた自分の中の歓びと向き合っていた。
俺は凡人だ。才能なんかない上に、10年以上もブランクがある。
毎日夜遅くや週末まで働かされて、生きている意味がわからなくなる日だってある。
でも――俺の書いた曲を愛して、待ってくれるひとが居る。
それだけで、俺の日々はきっと色を取り戻す。
やってみなきゃわからない。でも、やれることが嬉しい。
だって――俺には夜空で一番に光り輝く、かけがえのない月がついているんだから。
俺は拳を強く握り締めて、夜空に高く突き上げる。
ステージの上で輝く月が、そんな俺を優しく照らしていた。
(了)
『月は一人で輝かない』
今日も俺は暗闇の中で目を醒ます。
枕元にあるスマホに触れると、人工的な光が闇を裂いた。浮かび上がる文字はまだ真夜中と言っても差し支えない時間帯だ。何だか損したような気分になって、俺はもう一度目を閉じた。
――ついさっきまで、夢の中で一緒に居た『あいつ』に逢えるんじゃないか。
そう未練がましく願ってみても、そこに広がるのは漠とした漆黒だけで、月の光ひとすじ射し込むことはなかった。
***
初めて望と出逢ったのは、高校二年生の時のことだ。
転校生として紹介された望は、眉を顰めて立っていた。その透き通るような金髪の美しさに、どうしようもなく惹き付けられたのを覚えている。
「長月くんは生まれつきこの髪の色なんだそうだ」と弁解するように先生が言うと、望はいよいよ不機嫌そうに口唇を尖らせた。クラスメート達はそんな彼の様子を固唾を呑んで見守っている。
鼻筋の通った大人びた顔付きも相まって、顔も頭もすべてが平凡な俺には、まるで望が月の光から生まれた別世界の住人のように思えた。
教室中から向けられる好奇に満ちた視線を振り払うように、望は少し乱暴な仕種で指定された席に座る。それが俺の隣だったのは、きっと運命というやつだろう。近くで見る望の横顔は彫刻のように整っていて、俺は少し緊張して、ひとつ咳払いをした。
「――教科書、見る?」
できるだけ平静を装って話しかけると、望は髪と同じく光り輝くその瞳で、ちらと俺を一瞥して――少しだけ驚いたように目を見開く。
「……ありがとう」
ぼそりと呟かれた声は想像していたよりもずっと落ち着いていて、俺はほっと胸を撫で下ろした。
「――夜野って、音楽やるの?」
授業が終わって帰ろうとした時にそう話しかけられ、俺は思わず立ち上がった姿勢のまま望を凝視する。
望は初対面の時よりも随分と穏やかな様子で、俺のことをじっと見つめていた。瞳がきらきらと光を含んで、俺はあぁ綺麗だなと思う。
そして、投げかけられた問いのことを思い出して、はっと我に返った。
「そうだけど、何で知ってるの?」
「朝来た時、音楽室の窓からピアノを弾いているのが見えたから。まさか隣の席の人だと思わなくてびっくりしたけど」
どうせ誰にも文句を言われないだろうと音楽室を我が物顔で使っていた様子を望に見られていたなんて――言いようのない恥ずかしさと共に、何故だか一抹の嬉しさがじわりと胸に宿る。
そのまま話を続けてみると、望は「俺、音楽好きなんだ」と事も無げに言った。好きなロックバンドが同じだったことから盛り上がって、いつの間にか俺達は帰ることも忘れて席で話し込む。友達なんてほぼ居ない俺にとって、こんな風に自分の好きなことを誰かと語り合うのは初めてだった。
「――じゃあ、朔、また明日」
帰り際、望が俺のことを名前で呼んだ。家族以外、誰にも呼ばれることがなかった俺の名前が、望に呼ばれると特別な響きをもって輝くように感じられた。
「うん、望、また」と――俺も初めて友達のことを名前で呼んだ。
それから仲良くなった俺たちは、色々な話をするようになった。
或る日、俺がこそこそと作り溜めていた曲を聴かせると、望はその顔を驚きの色に染めて「これ、朔が作ったの?」と訊いてくる。どういう意味なのか不安に思いながら頷くと、望の表情は驚きから歓喜へと生まれ変わった。
「すごい――俺、朔の曲好き」
零れるような笑顔に照らされて、俺の頬も緩む。その輝きに煽られるように、俺は寝る間も惜しんで曲を書いた。破壊衝動をぶち撒けたハードロック、気分が高揚するような応援歌、時には心を震わせるバラードや、無い経験を絞り出して書いたラブソングまで――そのすべてを望が愛おしそうに聴く姿を見て、俺は誰かが自分の曲を聴いてくれることの歓びを初めて知った。
そして、曲を軽く口ずさむ望の声を聴いている内に――俺の心にそろりと欲望がにじり寄る。
「望、良かったら俺の曲、歌ってくれない?」
望の歌声は、その外見に決して劣らない輝きを放っていた。落ち着いたトーンの話し声とは少し色の違う、鮮烈で艶のある歌声。
俺は必死で曲を作りながらも、実のところその完成度には自信がなかった。だが、そんな自己満足の塊たちですら、望が命を吹き込めば輝くんじゃないか――俺はそんな淡い期待を抱いて、望にそう持ち掛けたのだ。
すると、望は俺の言葉を受け止めるように、静かに瞼を閉じた。色素の薄い長い睫毛が、か細い影を頬に落とす。
そして開かれた瞳は、決意の色に燃えていた。
「――朔、ありがとう。俺、歌うよ」
***
「夜野、先週の会議の議事録まだか? また遅いと営業部からクレーム入るから、適当に仕上げて送っとけよ」
現実感の溢れる言葉たちに冷や水を浴びせかけられて、俺は思わず声の発信源に顔を向ける。
そこに座っていたのは、白髪交じりで生気の無い目をした、俺の直属の上司だった。
昨晩夢の中で見た彼とは似ても似付かない相手に、俺は内心溜め息を吐く。
「何だ? 文句あるのか?」と不機嫌そうに表情を歪める上司に、俺は「すみません、すぐやります」と頭を下げ――似ても似付かないのは自分だってそうだろうと小さく自嘲した。
コミュニケーション力なんてものに恵まれなかった俺が辛うじて新卒で入社できたのは、誰もが知っている大企業――の孫会社だった。世間一般でいうブラック企業がどの程度のものかはわからないが、うちの会社もなかなか良い線いっていると思う。
朝8時前には出社をして、気付けば夜22時を超え、土日のどちらかも仕事をし、残る一日は泥のように眠る――そんな生活を、大学を卒業してからもう10年近くも続けている。
空元気で騒ぐ酔っ払いを横目に見ながら、俺は仕事に疲れ果てた乗客の一員として深夜の電車に乗り込んだ。頭を空っぽにしたくて、吊り革に掴まりながらネットニュースをスワイプしていく。
その画面上で、輝くような金色の光に出逢い、俺は思わず指を止めた。
『長月 望デビュー5周年ライブツアー開幕』
記事に掲載された写真の中で、少し大人になった望がこちらを見つめている。
――そう、昨晩見た夢と同じ、金色に輝く瞳で。
望が俺の曲を歌う動画をインターネットに投稿したのは、少しずつ人々が秋を意識し始めた9月のことだった。
最初は何とも味気ないもので、どの動画も再生回数は1桁止まりだった。
それが、或る日『このひと、すごく綺麗』というコメントが付いてから――じわりじわりと再生されるようになり、気付けば望は街中でも声をかけられるようになっていた。
望は少し戸惑っていたようだが、俺は誇らしげな気持ちだった。
誰にも聴かれることがないと思っていた俺の曲が、逢ったこともない沢山の人に届いている――それは俺の曲が素晴らしいからではなく、ただ望が歌っているからだという事実を知りつつも、俺は密かに悦に入った。
しかし、望の動画が多くの人に見られれば見られる程、時折投稿される芯を喰ったコメントが俺の心を蝕むようになった。
『望くんは格好良いけど、曲は普通じゃない?』
『折角だから、もっと良い曲歌ったら良いのに』
『歌は上手いのに、曲が全然心に響いてこない』
――それは、当然の帰結だった。
俺は自分の実力も弁えず、望という特別な存在を使って、それを自分の手柄だと勘違いしていただけだったのだ。
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「――朔、何で? あんなやつらが言うことなんか気にする必要ないって」
もう曲は書かないと言った俺に、望は悲しみに顔を曇らせながら言った。
「俺は朔の作った曲が好きなんだよ。朔の曲だからこれまで歌ってきたし、これからも歌おうと思える。朔が居なきゃ、意味がないんだ……!」
俺が聞きたかった言葉ばかりを、俺が好きな声で紡ぐ。
どれだけ嬉しかっただろう。その存在に、どれだけ救われてきただろう。
でも――俺はもう、限界だった。
「望――俺は望とは違うんだよ」
俺の放った言葉に、望は愕然と目を見開く。
「顔も頭も良くないし、作る曲だって望のツボには入ったかも知れないけど、一般的に見れば大したものじゃない――そんな凡人なんだ。だから、これ以上望の傍に居ると、俺がつらいんだ。頼むから、もう放っといてほしい」
酷い八つ当たりだと思った。望は何も悪くない。悪かったのは、ただただ凡人の俺だ。
目尻に薄らと涙が浮かぶ――そんな傷付いた表情ですら綺麗だと思ってしまった俺の心の裡を知ったら、「朔は馬鹿だ」と笑ってくれただろうか。
「俺が作った曲は、望に全部あげるよ。好きに使ってくれていいから」
それが、生まれて初めてできた大切な友達への、俺のせめてもの餞だった。
――高校を卒業してから、俺は一度も望と逢っていない。
勿論デビューしたことは知っていた。しかし、今望がどんな曲を歌っているのか聴く勇気がなくて、未だにCDは1枚も持っていない。
それでも、たまに望は俺の夢に現れては、夜空に輝く月のような明るさで俺に笑いかけるのだ。その度に、俺は存在しない未来を未練がましく想像してしまう。
――あの時曲作りを止めなかったなら、俺たちは今頃どうなっていたのか、なんて。
最寄り駅に到着し、食べ飽きたコンビニ弁当を買って帰路に着く。
明日も半日以上画面上の数字と睨み合い、結論の出ない会議を繰り返すのかと思うと、俺は何のために生きているのだろうと疑問が湧いた。
――しかし、それは俺の選択の結果だ。誰にも文句を言うことなどできない。それに、たとえあの時音楽から逃げなかったとしても、それが今に繋がっていたとは到底思えない。
望との別離を選んだのは、俺自身で――俺は特別な人間ではないのだから。
昨日観た望の夢が、亡霊のように俺の心に纏わり付いてくる。
俺は溜め息を吐きながらマンションのポストを開け――そこで、見慣れない封筒を発見した。
***
そして今、俺の目の前には、月から来たと思しき旧友が立っている。
正確には、俺の10m程先の――ステージの上に。
「みなさん、今日は忙しい中、僕のライブに来てくれてありがとう。こうやってみなさんと5周年を迎えられたことが、本当に嬉しいです」
都心の公園内にある屋外のライブ会場は満員御礼だ。こうやって予定のある休日はいつ振りだろう――思い出せないくらい遥か彼方に思える。
あの日、封筒に入れられていた1枚のライブチケットが、俺をこの場所へと誘った。
『朔、元気にしていますか。もし良かったら、聴きに来てください。望』
ステージの上に立つ望は、あの頃と同じ――いや、あの頃よりも輝いて見える。月の雫を浴びたような金髪に、彫刻のように整った顔、そして――あの頃よりも伸びやかに響く美しい歌声。
太陽が姿を消したこの夜の世界で、望の存在は圧倒的な光を放っていた。望が口を開けば会場中がその声に耳を傾け、遠慮がちに笑えば聴衆の心にぱっと花が咲く。
久々に見た望の輝きに、俺は酔いしれ――そして心のどこかで納得していた。
――あぁ、やはり望は、月から来た特別な人間だったのだと。
「それじゃあここで、デビューした時からずっとライブで演っている――僕の大好きな曲を披露したいと思います。月が綺麗なこんな夜にぴったりの曲です」
そう望が言うと、会場中から歓声が湧き起こる。
ファンからすると恒例の流れなのだろうか。俺の隣に居る女性客も嬉しそうな顔をしている。
ステージの上で輝く月に照らされながら、望はスタッフによって運ばれてきたキーボードの前に座り、小さく頭を下げてからこう言った。
「――聴いてください。『A boy from the moon』」
その言葉に、思わず鳥肌が立つ。
望がキーボードを弾きながら、歌い出した――そのメロディーを、俺は知っていた。
「――この曲、良いね」
放課後ふたりきりの教室で、イヤホンを外した望は満足気に呟く。
「何だかメロディーがいつもより繊細で、心にすぅっと入ってくる感じ。俺、朔の曲の中で一番好きかも」
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「そりゃあ良かった。これ、自信作だったんだ」
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何故、今更この曲を。
デビューしてから、才能溢れるプロのミュージシャンたちに曲を書いてもらったんじゃないのか。
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――ぐすりと音がして、隣を見る。
女性客が泣いていた。
そのまま周囲を見回すと、聴衆たちは望が歌う俺の曲に聴き入っている。初めて見る光景に、俺は戸惑いながらも――肚の奥でじわりと熱が湧き上がるのを感じた。
その感覚は随分と久し振りで、それでいて決して嫌なものではなくて。
ずっと長い間逢えなかった友達に逢えたかのような――そんな静かな感動にも似ていた。
そして、視線をステージ上に戻した俺を、穏やかな金色の眼差しが捉える。
瞬間、俺と望の間を遮るものはなくなった。
ステージと客席を隔てる距離も、無遠慮に浴びせかけられる世間の声も、10年以上逢わなかった時間も――すべてを超えて、俺と望は今同じ空間に居る。
望が歌いながら笑った。その顔が、あの日俺の曲を聴いた時の望の表情と重なる。
それがどうしようもなく嬉しくて――俺も思わず、望に笑顔を返した。
望がアウトロを弾き終えると、会場中を割れんばかりの拍手が埋め尽くす。望が穏やかに微笑みながらマイクを手に立ち上がると、拍手の音がフェードアウトしていき、やがて会場中が望の言葉を待つ形となった。
「聴いてくれてありがとうございました。この曲、毎回ライブで演っているけれど、ファンのみなさんから一番人気があるんです。僕はそれがすごく嬉しくて――だって、僕も一番好きな曲だから。CDに収録してほしいという声も沢山頂いていて、本当にそうできたらと思っています」
でも、と望が言葉を継ぐ。
「この曲は、僕の大切な友達がプレゼントしてくれた曲で……いつか、彼が作った曲だけを歌ったCDを出すのが、僕の夢なんです。だから、それまで待っていてください。きっと彼は――この曲よりももっと素晴らしい曲を、沢山作ってくれるから」
望の言葉に、会場中からあたたかい拍手が生まれた。
ステージ上の望がさりげなくこちらを向いて――そして小さく頷く。それに頷きを返しながら、俺は再度火が点いた自分の中の歓びと向き合っていた。
俺は凡人だ。才能なんかない上に、10年以上もブランクがある。
毎日夜遅くや週末まで働かされて、生きている意味がわからなくなる日だってある。
でも――俺の書いた曲を愛して、待ってくれるひとが居る。
それだけで、俺の日々はきっと色を取り戻す。
やってみなきゃわからない。でも、やれることが嬉しい。
だって――俺には夜空で一番に光り輝く、かけがえのない月がついているんだから。
俺は拳を強く握り締めて、夜空に高く突き上げる。
ステージの上で輝く月が、そんな俺を優しく照らしていた。
(了)
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僕には動物と話せるという特技がある。この特技をいかして、猫カフェをオープンすることにした。というわけで、一緒に働いてくれる猫スタッフを募集すると、噂を聞きつけた猫たちが僕のもとにやってくる。僕はそんな猫たちからここへ来た経緯を聞くのだけれど――
※小説家になろう様にも掲載させて頂いております。
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
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