散りばめられた星たちは、まるで

未来屋 環

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桜の季節の終わりに、捧ぐ。

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 ――散ってしまったその花びらに、一体何の意味があるというのだろう。


 『散りばめられた星たちは、まるで』


『お買い上げありがとうございます。今日もおつかれさまでした』

 ゴトンという落下音に続いて流れる自動音声。
 取り出し口から缶コーヒーを拾いながら、俺は自嘲するように小さく笑った。今の俺に優しい言葉をかけてくれるのは、こいつくらいのものだ。

 22時までの残業を終えたあと、オフィス裏の自販機でコーヒーを買い、駅に向かう途中の公園で一服してから帰るのが俺の最近のルーティーンだ。
 仕事は終わらないが、22時を過ぎれば深夜残業扱いになるからその前に帰れと上司がうるさい。ただでさえ低い評価をこれ以上落としたくない俺は、言い付けを守っておとなしく会社を出る。

 目の前でチラシを配る女性を無視して公園まで向かう道中、俺の頭の中にはここ1ヶ月の出来事が走馬灯のように流れていた。
 この4月で入社してから10年、同期と比べても出世は早く、周囲からの評判も良い方だったと思う。

 ――それが、或る日突然地にちた。

 単純な話だ。去年入った新人が、或る得意先の機密情報が含まれた資料を別の得意先に送り付けてしまった。
 普段だったらそんなミスは絶対に起きない。決められた通り、複数の目でダブルチェックさえ行っていれば。
 しかし、あの日はとてつもなく忙しく、彼から確認を頼まれた俺は「ごめん、今手が離せないからそれで送っといて」とスルーしてしまった。

 結果、激怒した得意先への対応は勿論もちろんのこと、本事案に伴い失注した売上のカバー、加えて社内の関連部署への報告等の後始末に追われ、このザマだ。
 これまでの平穏な会社生活はどこへやら、上司や同僚たちが俺を見る目も一変し、毎日針のむしろに座らされている。

 鬱々うつうつとした気分を振り払うように速足で歩いていると、目的地が見えてきた。誰もいない深夜の公園で、俺は定位置となったベンチに腰を下ろす。
 缶コーヒーを開けて一口。苦い味が口から食道をつたって胃に落ちていった。俺は自分を痛め付けるように、ただただ体内に黒い液体を流し込む。

 ――あぁ、あの1回、たった1回だ。
 たった1回で、俺がこれまで築き上げてきた10年間は砂の城よりももろく崩れ去った。

 減りゆくコーヒーを一気に仕留めようと缶をあおった瞬間、顔を上げた俺の視界に、咲き乱れる桜の花が入り込む。
 いつしか季節は春本番を迎えていたらしい。
 俺はからになった缶を口から離し、そのままその情景を無感動に見つめていた。

 ――不意に風が吹き、ひらり、と桜の花びらが落ちる。
 1枚、また1枚と。

 桜は花が満開でいる間は持てはやされる。
 沢山の人々が集まって写真を撮られ、その美しさに羨望の眼差しを向けられて。
 ――それがどうだ。
 ひとたび散ってしまえば人々の興味の対象から外れ、地面を転々と汚していくだけの存在となり果てる。

 真っ暗な夜空をバックに散っていく様子が、俺には桜が泣いているように見えた。

 ***

 翌日、俺は直行先での営業活動を終え、会社に向かう。
 あの事件以来、くだんの新人から謝罪はあったものの、それ以上の会話はしていない。既に俺から別の主任のもとに配置換えとなった彼は、しおらしさをまとっているからか、周囲からは割と同情的な目で見られているようだ。
 勿論彼だけが悪いわけじゃないと頭ではわかっているが、巻き込まれた俺としては正直釈然しゃくぜんとしない思いもある。もやもやした気持ちをいだきながら歩いていると、俺の前にすっとチラシが差し出された。

「ヘアサロンCherryです。お願いします」

 職場の女性たちと比べると随分とハスキーな声で、物腰の硬さも感じられる。あまり接客業には向かないタイプだな、と直感的に思った。
 俺は進行方向を変えてそのチラシからのがれる。チラシのぬしは深追いしてこなかった。

 コンビニでおにぎりを安い順に2個購入し、店を出る。
 オフィスまで戻る動線上にチラシの彼女がいたので、俺は自販機がある裏口方面に足を向けた。
 先程はろくに顔を見ていなかったが、ショートに切り揃えられた髪は金色に染まっていて、いかにも美容師然とした風貌だ。いずれにせよ、毎月1,000円カットのお世話になっている身としては、縁遠い存在に変わりない。
 俺はそのまま遠回りして、オフィスの中に入って行った。


『この度は大変ご迷惑をおかけし、誠に申し訳ございませんでした』

 何度書き直したかわからない情報漏洩の再発防止報告書を上司に送り付け、大きく伸びをする。
 壁の時計を見ると、もう20時になっていた。
 さすがに腹が減った俺は、夜食を買いに行こうと席を立つ。

 正面玄関を出てそのままコンビニに行こうとして――俺は一瞬、目を疑った。
 視線の先には、昼見かけた彼女が立っている。かたわらを通り過ぎる人々にチラシを渡そうとするが、なかなか受け取ってもらえない。夜に沈む街をバックに彼女の金髪は輝いていたが、その表情は冴えなかった。

 俺は思わず彼女に向かって一直線に歩き出す。

「――あの」

 俺の声に、彼女は驚いたように顔を上げた。
 化粧はシンプルだが目力が強く、一瞬声をかけた俺の方がひるんでしまいそうになる。俺は気を取り直して、そのまま言葉を続けた。

「そのチラシ、1枚もらえますか」
「――え……」

 きょとんとしていた彼女の表情が、わずかにやわらかくほころぶ。控えめな笑みを浮かべたまま、彼女はおずおずとチラシを差し出してきた。

「……ありがとうございます」

 俺は「どうも」とチラシを受け取り、そのまま足早にコンビニへと向かう。

 ――何故俺は、行きもしない美容院のチラシを受け取ってしまったのだろう。

 あれは、衝動的なものだった。
 不慣れであろうチラシ配りを懸命にしている姿が、何故だか俺の心に深く刺さったのだ。
 手早く惣菜パンを買って店を出ると、彼女は変わらず定位置にいる。
 気恥ずかしくなった俺は、昼と同じくオフィスの裏口へと歩き出した。


 ――そして、22時。
 俺はルーティーンを果たすべく、オフィスの裏口を出る。
 ひとまず明日からの週末は何とか休めそうだ。俺は安堵あんどの息を吐き、唯一の理解者の元に向かう。

 しかし、自販機の前には思いがけない先客がいた。

『お買い上げありがとうございます。今日もおつかれさまでした』

 聞き慣れた音声が流れ、缶を拾ってこちらを振り向いた彼女の動きが止まる。
 自販機の光に照らされた金髪がきらきらときらめいて、俺はそれを綺麗だなと思った。

 ***

「……あの自販機、いいですよね。何だか励まされるっていうか」
「わかります。毎晩癒されてますよ。優しくしてくれるの、もうあいつしかいなくて」

 俺の告白に、彼女はその大きな目をまるくして「そうなんですか」とつぶやいた。
 俺たちはふたり並んで公園のベンチに座っている。驚いた表情のまま、彼女はこくりとミルクティーを飲んだ。

「それは、何でまた」
「……ちょっと仕事でミスっちゃいまして」

 あぁ……と彼女はうなずき、そして口を開く。

「実は、私もです」
「そうなんですか」
「はい……お客さん、怒らせちゃって」

 話を聞いてみると、彼女はやはり美容師だった。
 リクエスト通りに髪を切り、笑顔で帰っていったはずの客から店にクレームが入った。どうやら、同棲している彼氏に新しい髪型が似合わないと言われたらしい。
 そこで再来店の上、改めて要望を踏まえ施術したものの、あれこれ文句を付けられた挙句、返金する羽目になったそうだ。

「――え、それ、クレーマーじゃないですか」

 率直そっちょくに思ったことを告げると、彼女は小さく首を横に振る。
 
「いや、私も少し思い上がってたなって。今の店に来てから結構経つんですけど、技術には自信あったし、指名も店長の次くらいにはもらえていたので」

 ――でも、と彼女は続けた。

「私、お客さんとの会話や気持ちに寄り添うことが苦手で――心のどこかで、接客ができなくてもカットが上手ければいいって思っていたんです。そういう傲慢ごうまんな気持ちが伝わってしまったのかなって……だから、少しでも克服するために、最近チラシ配りをやらせてもらってるんです」

 ミルクティーをもう一口飲み、「まぁ、全然受け取ってもらえないんですけど……」と恥ずかしげに俯く――そんな彼女の横顔が、俺にはたまらなく眩しく見えた。

 このひとが傲慢だなんてとんでもない。それはまさしく、俺のことじゃないか。
 自らの不手際ふてぎわで起こった事案にも関わらず、どこまでも被害者気分で不貞腐ふてくされて――周囲の人間が俺に冷たいのも、そういう思いがけて見えたからだろう。

 何も言えなくなった俺は、いつもより苦く感じるコーヒーを喉の奥に流し込む。
 しばらく無言の時が流れ、気まずくなった俺がうつむくと、無残にも踏み潰された桜の花びらが視界に入った。
 何故だか無性に悲しくなって、俺は「桜、もう散り始めてますね」と呟く。隣で彼女が頷く気配がした。

「そうですね。でも私、散ったあとの桜も好きですよ」
「……変わってますね」
「だって、地面にパールをばらいたみたいで、綺麗じゃないですか」

 予想だにしなかった言葉に、俺は思わず顔を上げる。
 隣を向くと、彼女がこちらを真剣な眼差しで見つめていた。

「ほら――もう一度ちゃんと見て」

 彼女にうながされて、再度視線を下に落とす。
 その瞬間、薄汚れていたはずの数多あまた欠片かけらたちが、ふわりと浮かび上がって見えた。
 真っ黒なアスファルトをバックに白くまたたく、その光たちはまるで――

「――星みたいだな……」

 思わずぽつりと呟いて、はっと我に返る。
 もう一度隣を向くと、そこには驚いた表情の彼女がいた。
 慌てて取りつくろおうとした瞬間、彼女が「そうですね」と、その顔を綻ばせる。
 そう――俺にチラシを差し出してきた時のような、やわらかい笑顔で。

「本当――星空みたいで、素敵」

 ハスキーな声が、夜の空気に溶けていく。
 俺たちは見つめ合い、そして小さく笑った。

 ――そうだ、週が明けたらあいつに「俺の方こそ悪かった」と、きちんと謝ろう。
 そしてまたひとつずつ、やるべきことを積み重ねていけばいい。
 大丈夫、10年かけてやってきた――俺の築き上げてきたものは、きっとそう簡単に壊れはしない。

 ひとしきり笑ったあとで、俺たちは夜空を見上げる。
 散りばめられた星たちは、まるで、日々を懸命に生きる人々の光のようだった。


(了)
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