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後篇

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 ――その花は、目覚めの瞬間ときを待っていた。


 講義の時間になり、教室に入る。
 私の存在に気付いた学生達が、一人また一人と会話を止め、そそくさと講義を受ける準備を始めた。教卓の上に荷物を置きながら教室内に目を走らせるが、今日も彼女の姿はない。
 ――私を避けているのか。いや、そんな子どもではないだろう。私と会話をしたくないのであれば、講義の後に研究室に来なければ良いだけの話だ。それとも顔も見たくないと思う程、嫌われてしまったのか――そう思いを巡らせながら、マイクのスイッチを入れた。

 私が彼女を知ったのは、大学入学試験の採点の時だった。二月の下旬――永い冬の終焉おわりを待ち、花々が芽吹こうというその時に、私は今井未咲という名の受験生が書いた小論文を読んでいた。

「良い『生』とはなにか。良い『生』を送る為に、あなたが考える必要な要素について述べなさい」

 今年の小論文は私が作問を担当していた。採点自体は他の教員達と分担して行うが、超有名大学に比べれば受験生が少ないとはいえ、自身に割り当てられた数百の文章を読み解くのはなかなかに骨が折れる。その中で、私は彼女に出逢った。

「良い『生』を送る為には、なにかを『生み出す』ことが必要だ」

 彼女は限られた文字数の中で、繰り返しそれを訴えていた。自身にとってはそれが絵を描くことであると主張していた。
 決して表現技巧が優れているわけではない。しかし、彼女の書いた文章からは、ものを生み出すことのよろこびが溢れていた。絵を描くことが彼女の『生』に直結していることが、読んでいるこちら側に切々と伝わってきた。

 ――そして、それは私の琴線を揺らした。
 私は『生み出す者』になることを諦めた人間だった。

 幼い頃から文章を読むことが好きだった。親からは「本を食べて生きているようだ」と言われていた。様々なものを読み解き、消費しながら生きてきたが、最終的に私が惹かれたのは詩作の世界であった。
 決して多くない文字数で、森羅万象をうたい、人々の心に消えることのない色を残す。詩の魅力に囚われた私は先人の作品を貪るように読み、気付けばその研究で生計を立てるようになっていた。その中で、自身も人の心を打つような詩作家になりたいと望み、作品を書いては知り合いの出版社や編集者に読んでもらった。

 ――しかし、私の作品が日の目を見ることはなかった。
 書くことそのものが意味を持っていたはずなのに、誰からも認められないその作業を徒労と感じてしまったのはいつのことだろう。それも思い出せない程時が経ち、いつしか私は生み出すことをやめた。
 心に溜まっていくおりの総量が増えることはなくなったが、当然消えることもない。しかしそれに目を向けなければ、日々の生活を送ることに何ら支障はなかった。

 そんな私の目に、今井未咲の書いた文章はたまらなく眩しく映った。たとえ彼女が合格したからといって入学するとは限らない。また、入学したからといって私の講義を履修するとは限らない。
 しかし、もし彼女が私の前に現れる時があれば――その時には、訊いてみたい。

 『生み出す者』よ――あなたには、一体どんな世界がえるのか。


 講義が終わった。学生達は手早く荷物を片付けて教室を我先にと出て行く。春先、新しい世界の扉を開き、希望に満ち溢れていた彼らの表情は、既に現実を生きるものへと様変わりしている。まどっている者はほとんど居ない。
 皆、何かしらの折り合いを付けて、大地に根を下ろしているのだ。それが是か非かは別として。

 ふと彼女の最後に見た顔を思い出す。彼女は私に視線を向けず、机の上のマグカップに「バーミリオン」とだけ言って、去って行った。その眼差しに、初対面のあの日に見せた意志の強さを宿しながら。
 私の放った言葉が、彼女の中の何かに触れたのは確かだ。それが良い方向に転じることだけが私の願いだった。私は他人を変えられるような人間ではない。しかし、他人が何かに気付く手助けくらいはできたって良い。
 若いということは、それそのものがひとつの才能だ。私には二度と得られないそれが、行き先をうしなったままぐずぐずと死に絶えていくのを、指を咥えて見ていたくはなかった。

 誰も居なくなった教室には、静寂が満ちている。収束しない思索を放棄し、私は教卓の上の荷物をまとめた。今日この教室を使うのは、私が最後だ。暖房を止めてマイクの電源を落とし、学生達の忘れ物がないかチェックを行う。問題は特にない。
 全ての工程を終えた私は、教室の前方に戻って消灯した。途端に教室は薄暗闇に沈む。冬は夜の訪れが早い。今日は残務もないので、早々に帰宅することとしよう。

 そして廊下に続く扉を開けた時――電灯の明かりと共に視界に飛び込んできたのは、二週間振りにこちらを見つめる、別世界の住人だった。

 ***

 私にとっては珈琲ではないその飲み物を淹れることが、随分と懐かしく感じる。いつものマグカップに注いで彼女の前に置くと、彼女はそれに手を伸ばさず、口を開いた。

「このマグカップ、藤代先生には何色に視えますか」

 唐突な問いだ。目の前の彼女の求めている正解がわからない。「赤……いや、オレンジか」と私が言い淀むと、彼女はそれには答えず、先日貸した傘を入口の傘立てに挿してこちらを見た。

「この傘は?」
「……緑色、だが」

 すると、彼女は――少しだけ眉を上げる。まるで悪戯が成功した子どものように。

「この傘の色は、ビリジアンです。そして、このマグカップの色は、バーミリオン」
「――何が言いたいのかな」
「つまり、こういうことです。先生に私が視えない『時雨しぐれ』が視えるように、私には先生が視えない『ビリジアン』と『バーミリオン』が視える――それだけのことだったんです」

 そう言うと、彼女は机の上のマグカップを端に寄せ、持参した大きな紙袋の中から布に包まれた四角い板状のものを取り出した。そのなにものかを机の上に立てると、彼女は手早く布を取り去る。
 隠されていたものが露わになった瞬間、私は思わず言葉を喪った。

「――これが、私の視ている世界です」

 そこには、窓の中から雨を見つめる私の姿があった。
 いや――正確に言えば、私を描いた絵だ。
 美術の造詣が深い訳ではないが、その写実性の高さが一般人のえがくものと格が違うことくらいは理解できる。私がまじまじと絵に見入っていると、その後ろから彼女が顔を出した。

「――あなたが描いたのか」

 私の問いに、彼女は小さく頷く。
「久し振りに描こうと思ったらなかなか上手くいかなくて――何度も描き直していたら、随分と時間がかかってしまいました」
 でも、と続ける彼女の頬は、熱で上気しているようだった。そのほのかな赤みは、彼女には何色に視えるのだろうか。
「不思議ですね。描き始めたら、どんどん止まらなくなって。思い出したんです。私は息を吸うように絵を描いてきたんだって。そして、たとえ一度呼吸を忘れてしまっても――またこうやって、やり直せるんだって気付きました」
 彼女の眼差しが私をまっすぐに射抜く。眩しくて直視できないと思っていたその瞳は――穏やかな光をたたえて、ただそこに在った。

「視える世界が違っても、それを伝える術が私にはあるとわかったので……最初に藤代先生に伝えたいと、そう思いました――あなたが私に、それを気付かせてくれたから」

 その瞳から感じられたのは、正に『生』の輝きであった。
 目の前の彼女からはアンバランスさが消え失せ、彼女も現実という名の大地に根を下ろしたのだと、私は気付く。
 彼女がこれからどうやって絵と付き合っていくのか、私にはわからない。それでも、彼女の中に何らかの答えが生まれたことは、確実に前進する一歩となるであろう。

 何とか務めを果たせたことに、私は胸を撫で下ろし――そして、ふと自らを省みる。『生み出す者』の輝きが強い程、自身の影は色濃く伸びていくばかりだ。
 彼女は自分を取り戻した。一方、私はどうだ。己のコンプレックスを彼女に投影し、その彼女が輝くのを見て、勝手に悦に入っているだけではないのか。自分自身の問題は何一つ解決していない癖に――澱みがじわじわと心を侵食していく。
 思わず浮かびそうになった自嘲的な笑みを慌てて消すと、彼女の声が耳に飛び込んできた。

「――ところで、先生はご自身を『何も生み出すことはない愚者』だと言いましたね」

 その言葉は、確かな重みを持って室内に響く。
 私は逃げるように彼女から視線を外し、手元の珈琲を啜った。苦い漆黒が私の内臓を黒く染めていく。それはまるで私の中に広がる澱みのようだった。
 何も答えない私に、「『社会に出て世の役に立ちなさい』『生み出す者になりなさい』と私達に言いました」と彼女は続ける。
 よく覚えていることだ。
 自分で言った台詞ながら、この状況で投げかけられると、少々耳が痛い。返す言葉もなく、私はただ頷く。
 そして、室内に訪れた静寂を裂いたのも――また彼女であった。


「だとすれば、先生は愚者ではありませんね。だって、今の私を生み出したのは、間違いなく藤代先生――あなただから」


 想像し得なかった言葉に、私は思わず彼女を見つめ返す。彼女は小首を傾げてこちらを見ていた。何を驚いているのかとでも言いたげな、純粋な眼差しで。

 彼女はマグカップを取って中身を啜り、「うん、美味しい」と頷いた。
「あなたにとって珈琲ではないこの飲み物も、私にとってはきちんと珈琲だと思います」
 そう言って絵の傍らに戻されたマグカップの中身は、私の飲んでいるものとは似ても似つかない柔らかい色をしている。

「――この色は、何という色かな」
「キャメルです」
「キャメルか」

 聞き慣れない名前のその暖かい色に救われたような思いがして、私は小さく息を吐いた。


「確かに。あなたの言う通りだ――私は決して、愚者ではないな」


 口にした瞬間、ふっと心が軽くなる。
 顔を上げると、目の前の花は小さな笑顔を咲かせていた。


(了)
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