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第24話 言葉はなくとも(後篇)
しおりを挟む「――マーク!!」
どのくらいの間、そうしていただろうか――焦ったような足音と高い声が静寂に沈む深夜の空間を裂く。
二人が顔を上げると、そこにはJAXA職員の古内が荒い呼吸で立っていた。
家を飛び出してきたのだろうか――普段は綺麗に整えられている髪は風に乱れ、化粧も最低限だ。しかし、薄紫色のレンズを嵌めたその眼鏡は、雪花のそれよりも女性らしさを感じさせるものだった。
「マーク……あぁ、何てこと……!」
いつもは冷静な彼女も、さすがにこの状況は想定していなかったようだ。整った顔を歪ませ、悲嘆に暮れる古内を前に、雪花はマークを支えながら立ち上がった。
「――古内さん、夜分遅くにご連絡をしてしまい、申し訳ございませんでした。先程お電話でお伝えした通りの状況です。あとは、お願いしてもよろしいでしょうか?」
雪花の言葉に、古内ははっと我に返り――そして一つ深呼吸をした後に、「お見苦しい様子を見せて、失礼しました」と頭を下げる。
顔を上げた彼女は、既に落ち着きを取り戻していた。
「鈴木さん、諸々のご対応ありがとうございました。鈴木さんのお蔭で最悪の事態を防げました。ダニーとジョシュについても、情報のご提供ありがとうございます。あとは我々の方で対処します」
そして、古内はマークの方を向き、手でこちらに来るようにと促す。
マークはこくりと頷き、古内の方に歩いていった。
古内の肩を借り、自分の元から離れていくその背中を見て――雪花はいつか見た夢を思い出す。
夢の中で倒れ込むマークを支える古内。二人は見つめ合い、そして――
「――マーク?」
古内の声で、雪花は現実世界に引き戻される。
目の前に居るマークは、古内の隣でその足を止めていた。
どうしたのだろう――そう雪花が不思議に思った刹那、マークが振り返る。その金色の瞳は、まっすぐに雪花の姿を捉えていた。
マークはそのまま無言で雪花に歩み寄り、そして――
「マークさ――」
雪花の言葉が、マークの胸の中に吸い込まれる。
戻ってきたマークは、力強く――それでいて優しく、雪花を抱き締めた。
「えっ!?」
思いがけないマークの行動に、一瞬で頬が熱くなる。驚いた古内の顔を肩越しに見ながら、雪花は固まった。男性に抱き締められるなんて、初めてのことだ。
どうしたら良いか戸惑っていたその時――雪花は気付く。
自身を抱き締めるマークの身体は――わずかではあったが、震えていた。
その理由を雪花が知る術はない。
それでも――大切なひとが懸命に伝えようとするその想いに、ただただ応えたいと思った。
雪花は自身を包むその熱の心地良さに身を委ね、そっと彼の背中に手を回す。
――ふと、マークの震えが止まったような、そんな気がした。
「――それでは、鈴木さん。私達はここで失礼いたします」
雪花から離れたマークは、いつも通り真面目な表情で古内の隣に立っている。
彼は雪花に向かって、深々と礼をした。つられて、雪花もマークに礼を返す。
顔を上げた雪花の目に映ったのは、優しく微笑むマークの笑顔で、そして――
――それが、私が見たマークさんの最後の姿だった。
***
「――そんなことがあったのか……鈴木、大変だったな」
翌朝、雪花は部長の鳥飼と課長の浦河に声をかけ、総務課の会議室で二人に状況を報告した。
「それにしても、とんでもない奴らだ……! マークくんと同じ火星人とはとても思えん。コンプライアンスの欠片もない」
憮然とした表情の鳥飼が吐き捨てる。その隣で、浦河が溜め息を吐いた。
「まぁ、今の俺達にできることは、古内さんに余すことなくマークの功績をレポートするくらいか」
「奴らを引き摺り下ろす告発文も書いてやりたいところだが」
「そりゃ俺達がやらなくても、JAXAがちゃんとやるでしょ。とにかくマークが不利益を被らないように、俺達はやるべきことをやりましょ」
鳥飼の携帯電話が鳴る。次の会議に呼ばれたようだ――謝る仕種をしながら、鳥飼は会議室を出て行った。
扉が閉まったところで、浦河が雪花の方を向く。
「――ところで鈴木、大丈夫か?」
思いがけない言葉に、雪花は「えっ」と声を洩らした。
「はい、えっと――仕事量は今より増えるので、ちょっと大変ですけど。元々一人でしたし、大丈夫です」
そう答えると、浦河が「仕事量もまぁ、あれだが……」と顔を曇らせる。
「その、何だ――きっとあいつは、大丈夫だ。マークがすごいやつなのは、俺達が一番知ってるだろ。だから、俺達はできる限りのことをしてあいつを送り出してやろう。心配しなくても良い――ちゃんと神様は見てるよ」
浦河の言葉が、心の奥の――張り詰めていた糸を、小さく震わせた。
思いがけず目頭が熱くなって、雪花はぐっと口唇を噛み締める。
「――さて、煙草でも吸ってくるか」
そう言って、浦河が席を立った。
――そして、定時のチャイムが社内に鳴り響く。
浦河は雪花の様子を気にしていたが、「あおいちゃんも待っていますし、帰ってあげてください」と送り出した。
雪花は片付けたマークの席を、改めてチェックする。
18時に古内がマークの私物を取りに来る約束になっていたが、特に渡すようなものは見当たらなかった。仕事関係の書類は共通のファイルにきちんと綴じられており、お願いしていたデータも全てフォルダに格納されている。
――まるで、いつか自分が突然居なくなることを、予期していたかのように。
誰も居なくなった部屋で、雪花は一人、マークのことを思い出す。
目を閉じれば、自分を優しく抱き締めたあの感触がよみがえるようだった。
つい感傷に浸りそうになってしまい、溜め息を吐いたところでスマホが鳴る。古内が到着した知らせだ。
総務課を出てエレベーターホールに向かうと、既に古内はそこに立っていた。
昨日とは異なり、長い髪はゆるやかに巻かれ、整った顔に明るい色のジャケットが映えている。その顔に眼鏡はない――きっと普段はコンタクトを付けているのだろう。
「こんばんは。昨日はありがとうございました」
「いえ、こちらこそわざわざお越し頂いて――私物は特にありませんでした。ご足労頂いたのに、申し訳ございません」
本来であれば、私物がないことがわかった時点で連絡を入れるところだろう。
しかし、雪花はどうしても、古内に逢って訊きたいことがあった。
「そうですか、特に問題ございません。いずれにせよ、お伝えすることもありましたので――マークですが、明日火星に発つことになりました。」
想定外の台詞に、雪花は思わず目を見開く。
「……あ、明日ですか!?」
「はい。意思疎通ができない状態では、地球に滞在することも難しいので。そして、本来であればお世話になった皆様にご挨拶に伺うところですが、状況が状況ですので今回は控えさせて頂きます。また改めて浦河さん達には私からご挨拶に伺いますので、その旨お伝えください」
先手を打たれたような形になり、雪花は言葉を喪った。
『――もう一度、マークに逢うことができないか』
それを正に訊こうと思っていたのだ。
「そう……ですか――」
声の震えを抑えながら、雪花が辛うじてそう答える。
すると、古内が申し訳なさそうに眉を寄せた。
「ごめんなさいね……鈴木さんには本当にお世話になったので、何とかしたかったのですが、どうしても規則で決められているのです。ですが――その代わりに、お渡ししたいものがあります」
「――私に、ですか?」
古内が頷いて、肩にかけた鞄から何かを取り出し――そしてこちらに差し出す。
雪花がおずおずと受け取ると、それは一通の封筒だった。
「――マークから預かってきました。あなた宛ての手紙です。火星語から日本語に翻訳してありますので、ご安心ください」
思いがけない言葉に、雪花が顔を上げる。目の前の古内は、優しい笑みを浮かべていた。
「あなたのお蔭で、マークは貴重な日々を地球で過ごすことができました。終わり方こそ悔いが残るものでしたが――鈴木さんには心から感謝しております。マークがお世話になり、本当にありがとうございました」
そして、彼女は深々と頭を下げる。
「そんな――こちらこそ、マークさんに何度も助けて頂きました。古内さん、ありがとうございました……!」
雪花の言葉に、古内はその整った表情を明るい笑みに染めた。
「それでは失礼いたします」と、彼女は軽やかな足取りで到着したエレベーターに乗る。
そして、振り返りざまに、口を開いた。
「鈴木さん――ありがとうございました。私もあなたに出逢えて、良かった」
エレベーターのドアが閉じる。
その後も、雪花はなかなかその場を離れられなかった。
第24話 言葉はなくとも (了)
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