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第22話 そして悪魔は囁いた(後篇)
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***
「はぁ、やっと終わったー」
雪花は一人、大きく伸びをする。
総務課の室内には誰も残っていない。16時頃に人事課から急ぎの資料を頼まれたのだった。マークが手伝いを申し出てくれたが、個人作業だったので先に帰ってもらった。
晴山と食事したのはもう先々週のことだ。
あれ以降も花菜と話す際にさりげなく探っているが、『火星人』の目撃情報は出てこない。もうあまり気にするのはやめようと雪花は思った。
この週末は、またマークと出掛ける予定になっている。
この前池袋サンシャインのプラネタリウムに二人で行ったが、実は隣にある水族館も気になっていたというので、今度は水族館に行くことになった。といっても同じ池袋ではつまらないので、品川にある水族館に行こうかと話をしている。
マークが地球の文化を学ぶため――それは自分にとって都合の良い言い訳だと、雪花は自覚していた。それでも、マークも楽しみにしている様子を見ると、別にいいじゃないかと思えてくる。
残り時間はあと3ヶ月半。
その先に何が待ち受けていようと、悔いのない時間を過ごそうと雪花は決めていた。
部屋の時計を見ると20時を回っている。
おなかも空いてきたので帰りに夕食を取ろうと考えながら、雪花はPCの電源を落とした。
何を食べようか。
そういえばこの前、マークが鳥飼と鴨せいろを食べたという話をしていた。実は雪花もそんなに食べたことのないメニューで、心惹かれる。
オフィスを出たところで、スマホで近くのそば屋を検索した。
ラストオーダーが終わってしまっている店もあったが、23時まで開いている店が1軒ある。調べてみると居酒屋のようだったが、メニューに鴨せいろもあったので、雪花はその店の方向に歩き出した。
普段使っている駅を通り過ぎ、案内に従って地下に向かう。
店の前に到着すると、中からは賑やかな声が聞こえた。随分と繁盛しているようだ。
週末ではないが、入れるだろうか――少し心配しながらドアを開けたところ、店内は客が多いものの、何とか入れそうだった。
「すみません、少々お掛けになってお待ちください」という店員の声が響き、雪花は入口付近の椅子に腰かける。
良かった、何とか夕食にありつけそうだ。
鴨せいろを食べたら、明日マークさんに報告しよう。
そう考えながら、雪花は人知れず小さく微笑む。
――そんな雪花の思考を遮ったのは、男の声だった。
「――偶然だな、あなたはマークの同僚じゃないか?」
雪花ははっと顔を上げる。
そこに立っていた男の瞳は――金色だった。
ほのかに赤く染まったその顔には見覚えがある。あの納涼祭の夜、マークに話しかけてきた男だ――そう気付いて、雪花の頭の中に疑念が渦巻いた。
『火星人にアルコールを飲ませないように』
それは、NASAおよびJAXAからの通達に記載された一文だ。マーク自身もそれを認識し、規定だからとお酒は一滴も飲んでいない。
しかし、目の前の男は、雪花の目には明らかに酔っているように見えた。
その疑念によって、雪花の反応が遅れる。
気付いた時には、金色の瞳の男――ダニーは雪花の隣の椅子に座っていた。
「――人違いです」
そう言って立ち上がろうとした雪花の手を、ダニーが握る。固まる雪花に、ダニーは言った。
「人違いなわけがない。俺は確かにあなたの顔を覚えている。あのマークと一緒に居たんだ……忘れるものか」
火星人からすると、地球人の顔なんてどれも同じだろう。
それでも、その声は冷静で――確固とした自信に満ちていた。
思わず手を振り解こうとすると、ダニーが「止めた方が良い」と続ける。
「先日からのあなたの様子を見ると、あなたはマークの正体を知っているはずだ。もしそうであれば、この俺の正体も知っているだろう。ここで目立って俺の存在が知られたら、あなたも困るのでは?」
雪花がダニーの方を向くと、彼は不敵な笑みを浮かべていた。
その笑みを見ながら、ふと雪花はSNSの書き込みを思い出す。
『何か隣の席で飲んでるやつ、自分が火星人とか言ってるんだけど』
――もしかして、あれはこの人のこと?
混乱する頭の中を整理しようと努めながら雪花は一人口唇を噛んだ。そんな雪花を見て、ダニーが口を開く。
「丁度良い。ここで逢ったのも何かの縁だ――あなたに話したいことがある。あちらで一緒に飲まないか?」
***
通されたのは奥の個室だった。
ダニーだけかと思いきや、そこにはもう一人男が座っている。
こちらを見上げるその瞳は――マークやダニーとは異なる茶色。冷めた眼差しで暗い雰囲気を纏うその男は、雪花の目にはごく普通の人間に見えた。
「――△△△△△さん、何ですかその女」
――そう、その聞いたことのない音を彼が発するまでは。
「ジョシュ、客人だ。その名前で俺を呼ぶな」
「そういうことですか。わかりました、ダニーさん」
そう言って、ジョシュと呼ばれた男が一つ奥の席に移動した。
机の上に置かれたジョッキには、薄い黄金色の液体が並々と注がれている。ジョシュがそれを一口飲んで、また机の上に置いた。ジョッキのデザインも踏まえて考えると、恐らくハイボールだろう。
ジョシュの向かい側の席にも同じ飲み物が置かれている。これはダニーの飲んでいたものに違いない。
ダニーに促され、雪花は先程までジョシュが座っていた席に着く。
部屋の出口に近いことがせめてもの救いだろう。
店員が入ってきて飲み物を訊かれ、雪花はウーロン茶をオーダーした。
「そういえば、あなたの名前を訊けていなかったな。俺はダニー、こいつはジョシュ。あなたの想像する通り、マークと同じ惑星の者だ」
そうダニーが言うと、ジョシュが「マーク?」とぴくりと反応する。
やはりこのジョシュという男も火星人のようだ。雪花は二人を観察しながら「私の名前は、鈴木です」と名乗った。
ダニーは金色の瞳を細めて、満足そうに笑む。
「スズキさんか。よろしく」
近くで見ると、マークよりも若干幼い顔立ちだが、その顔はやはりフィクションの世界から飛び出してきたかのように整っていた。
一方、向かいに座るジョシュの視線には、苛立ちが含まれているように感じられる。あまり良いとは言えない目付きは鋭く、黒い前髪は目を隠すように伸びていた。
店員がウーロン茶を運んできたところでダニーから乾杯を求められ、雪花は戸惑いながらグラスを合わせる。
ダニーもジョシュも迷うことなくハイボールを飲んだ。
随分と飲み慣れた様子だ。
「――それで、私に話したいことって何ですか?」
店員が去ったことを確認した後で、雪花は淡々と言葉を紡ぐ。
すると、嬉々とした表情のダニーが「そうだそうだ」とジョッキを机に置いた。
――そして彼の口から飛び出した言葉に、雪花は思わず言葉を喪う。
「スズキさん――マークにずっと地球に居てもらう方法があるんだが、知りたくないか?」
戸惑いの色を隠せない雪花を、二人の火星人はそれぞれの瞳でじっと見つめていた。
第22話 そして悪魔は囁いた (了)
「はぁ、やっと終わったー」
雪花は一人、大きく伸びをする。
総務課の室内には誰も残っていない。16時頃に人事課から急ぎの資料を頼まれたのだった。マークが手伝いを申し出てくれたが、個人作業だったので先に帰ってもらった。
晴山と食事したのはもう先々週のことだ。
あれ以降も花菜と話す際にさりげなく探っているが、『火星人』の目撃情報は出てこない。もうあまり気にするのはやめようと雪花は思った。
この週末は、またマークと出掛ける予定になっている。
この前池袋サンシャインのプラネタリウムに二人で行ったが、実は隣にある水族館も気になっていたというので、今度は水族館に行くことになった。といっても同じ池袋ではつまらないので、品川にある水族館に行こうかと話をしている。
マークが地球の文化を学ぶため――それは自分にとって都合の良い言い訳だと、雪花は自覚していた。それでも、マークも楽しみにしている様子を見ると、別にいいじゃないかと思えてくる。
残り時間はあと3ヶ月半。
その先に何が待ち受けていようと、悔いのない時間を過ごそうと雪花は決めていた。
部屋の時計を見ると20時を回っている。
おなかも空いてきたので帰りに夕食を取ろうと考えながら、雪花はPCの電源を落とした。
何を食べようか。
そういえばこの前、マークが鳥飼と鴨せいろを食べたという話をしていた。実は雪花もそんなに食べたことのないメニューで、心惹かれる。
オフィスを出たところで、スマホで近くのそば屋を検索した。
ラストオーダーが終わってしまっている店もあったが、23時まで開いている店が1軒ある。調べてみると居酒屋のようだったが、メニューに鴨せいろもあったので、雪花はその店の方向に歩き出した。
普段使っている駅を通り過ぎ、案内に従って地下に向かう。
店の前に到着すると、中からは賑やかな声が聞こえた。随分と繁盛しているようだ。
週末ではないが、入れるだろうか――少し心配しながらドアを開けたところ、店内は客が多いものの、何とか入れそうだった。
「すみません、少々お掛けになってお待ちください」という店員の声が響き、雪花は入口付近の椅子に腰かける。
良かった、何とか夕食にありつけそうだ。
鴨せいろを食べたら、明日マークさんに報告しよう。
そう考えながら、雪花は人知れず小さく微笑む。
――そんな雪花の思考を遮ったのは、男の声だった。
「――偶然だな、あなたはマークの同僚じゃないか?」
雪花ははっと顔を上げる。
そこに立っていた男の瞳は――金色だった。
ほのかに赤く染まったその顔には見覚えがある。あの納涼祭の夜、マークに話しかけてきた男だ――そう気付いて、雪花の頭の中に疑念が渦巻いた。
『火星人にアルコールを飲ませないように』
それは、NASAおよびJAXAからの通達に記載された一文だ。マーク自身もそれを認識し、規定だからとお酒は一滴も飲んでいない。
しかし、目の前の男は、雪花の目には明らかに酔っているように見えた。
その疑念によって、雪花の反応が遅れる。
気付いた時には、金色の瞳の男――ダニーは雪花の隣の椅子に座っていた。
「――人違いです」
そう言って立ち上がろうとした雪花の手を、ダニーが握る。固まる雪花に、ダニーは言った。
「人違いなわけがない。俺は確かにあなたの顔を覚えている。あのマークと一緒に居たんだ……忘れるものか」
火星人からすると、地球人の顔なんてどれも同じだろう。
それでも、その声は冷静で――確固とした自信に満ちていた。
思わず手を振り解こうとすると、ダニーが「止めた方が良い」と続ける。
「先日からのあなたの様子を見ると、あなたはマークの正体を知っているはずだ。もしそうであれば、この俺の正体も知っているだろう。ここで目立って俺の存在が知られたら、あなたも困るのでは?」
雪花がダニーの方を向くと、彼は不敵な笑みを浮かべていた。
その笑みを見ながら、ふと雪花はSNSの書き込みを思い出す。
『何か隣の席で飲んでるやつ、自分が火星人とか言ってるんだけど』
――もしかして、あれはこの人のこと?
混乱する頭の中を整理しようと努めながら雪花は一人口唇を噛んだ。そんな雪花を見て、ダニーが口を開く。
「丁度良い。ここで逢ったのも何かの縁だ――あなたに話したいことがある。あちらで一緒に飲まないか?」
***
通されたのは奥の個室だった。
ダニーだけかと思いきや、そこにはもう一人男が座っている。
こちらを見上げるその瞳は――マークやダニーとは異なる茶色。冷めた眼差しで暗い雰囲気を纏うその男は、雪花の目にはごく普通の人間に見えた。
「――△△△△△さん、何ですかその女」
――そう、その聞いたことのない音を彼が発するまでは。
「ジョシュ、客人だ。その名前で俺を呼ぶな」
「そういうことですか。わかりました、ダニーさん」
そう言って、ジョシュと呼ばれた男が一つ奥の席に移動した。
机の上に置かれたジョッキには、薄い黄金色の液体が並々と注がれている。ジョシュがそれを一口飲んで、また机の上に置いた。ジョッキのデザインも踏まえて考えると、恐らくハイボールだろう。
ジョシュの向かい側の席にも同じ飲み物が置かれている。これはダニーの飲んでいたものに違いない。
ダニーに促され、雪花は先程までジョシュが座っていた席に着く。
部屋の出口に近いことがせめてもの救いだろう。
店員が入ってきて飲み物を訊かれ、雪花はウーロン茶をオーダーした。
「そういえば、あなたの名前を訊けていなかったな。俺はダニー、こいつはジョシュ。あなたの想像する通り、マークと同じ惑星の者だ」
そうダニーが言うと、ジョシュが「マーク?」とぴくりと反応する。
やはりこのジョシュという男も火星人のようだ。雪花は二人を観察しながら「私の名前は、鈴木です」と名乗った。
ダニーは金色の瞳を細めて、満足そうに笑む。
「スズキさんか。よろしく」
近くで見ると、マークよりも若干幼い顔立ちだが、その顔はやはりフィクションの世界から飛び出してきたかのように整っていた。
一方、向かいに座るジョシュの視線には、苛立ちが含まれているように感じられる。あまり良いとは言えない目付きは鋭く、黒い前髪は目を隠すように伸びていた。
店員がウーロン茶を運んできたところでダニーから乾杯を求められ、雪花は戸惑いながらグラスを合わせる。
ダニーもジョシュも迷うことなくハイボールを飲んだ。
随分と飲み慣れた様子だ。
「――それで、私に話したいことって何ですか?」
店員が去ったことを確認した後で、雪花は淡々と言葉を紡ぐ。
すると、嬉々とした表情のダニーが「そうだそうだ」とジョッキを机に置いた。
――そして彼の口から飛び出した言葉に、雪花は思わず言葉を喪う。
「スズキさん――マークにずっと地球に居てもらう方法があるんだが、知りたくないか?」
戸惑いの色を隠せない雪花を、二人の火星人はそれぞれの瞳でじっと見つめていた。
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