10 / 51
第5話 新米指導員、始動する(後篇)
しおりを挟む
「――鈴木、食い終わったか?」
浦河の声で、雪花ははっと我に返る。気付けば、自分の目の前のミートソーススパゲティは空になっていた。考えながら食べていたので、あまり味を覚えていない。
前の席のマークに目を移すと、彼のオムライスも綺麗になくなっている。スプーンが皿の上で斜め方向にきちんと置かれていた。そういう作法もきちんと勉強してきたのだろうか。
「すみません、お待たせしました」
食器を片付けた後、雪花とマークは総務課への帰路につく。浦河は喫煙所に行ってしまったが、ここまで来ればマークと二人きりでも特に問題はないだろう。
「マークさん、今日のオムライスの味はいかがでしたか?」
雪花が話しかけると、マークは「おいしかったです」と即答した。
「ただ、ウラカワ課長の食べていた『月見そば』にも、とても興味があります。少しずつ箸の練習をして、私もいつか挑戦してみたいです」
大真面目にそう言うマークのことを、雪花は微笑ましく感じる。一つ一つのことをこうやって新鮮に捉えているマークの傍にいると、自分自身も何だか初心に返ったような気持ちになるのだった。
そして、午後の業務を始めたところで――総務課に鳥飼がやってくる。
雪花が電話中であったため、マークが代わりに鳥飼の元へ向かった。電話をしながらそちらの様子を窺うと、二人は二言三言会話をし、そして鳥飼は部屋を出て行く。鳥飼がわざわざ総務課を訪れるなんて珍しい――そう思いながら、雪花は電話を切った。
すると、マークがいつもにも増して真剣な表情で、雪花の所にやってくる。
「セツカさん、申し訳ございません。私では対応しきれませんでした」
え、と雪花は思わず声を出した。
「マークさん、部長に何を言われたんですか?」
すると、マークがはっと目を見開く。
「……もしかすると、今の方は昨日私を助けてくれた方でしょうか」
「はい、鳥飼部長ですが――もしかして、マークさん」
どうやら、鳥飼の顔を覚えていなかったらしい。目の前でマークが大きな溜め息を吐いた。
「申し訳ございません。どなたかわからず……何の御用かお伺いしたところ、『君の様子を見に来ただけだ。地球での生活には慣れたか?』と言われましたので――火星人とバレてはまずいと、つい」
「……つい?」
マークは心から申し訳なさそうに呟く。
「『スミマセン、ニホンゴワカリマセン』と言ってしまいました……」
それは、昨日浦河も交えて決めたルールの中の一つだった。回答に困ることを訊かれたら、とにかく『ニホンゴワカリマセン』で切り抜けること――こんなに早く役立つことになるとは。
ひとまず、鳥飼がマークの様子を見に来ただけなのであれば問題はない。あとで浦河から「念には念を入れて、どんな相手にもそう回答させてます」とでも言っておいてもらえればいいだろう。
しかし、目の前のマークの顔は浮かないままだ。それが居たたまれず、思わず雪花は口を開いた。
「マークさん、そんなに落ち込まないでください。まだ来たばかりなんですから、人の顔を覚えられないのは当たり前ですよ」
「いいえセツカさん、『来たばかりだから』ではなく――恐らくこれは解決が難しい問題です」
一度言葉を切り、少し逡巡するように沈黙を挟んでから――漸くマークは続く言葉を口にする。
「私にとって地球人の顔を判別することは、かなり困難と言えます。大変失礼な言い方になってしまいますが――私からすると、みなさんの顔の細かい違いがわからないのです。しかも、私にとっての上位上長で、お世話になった方の顔すら覚えられないとすれば……これは由々しき事態です」
そしてまた、申し訳なさそうに口を噤んだ。
――成る程。ここに惑星を隔てた種族間の壁があった。
例えば同じ日本人同士ではAさんとBさんの見分けがついたとしても、外国人からするとAさんもBさんも同じような顔に――いや、火星人と地球人ということを踏まえれば、雪花がそれこそイカのAさんと別のイカのBさんを見分けることができないように、マークにとっても地球人の顔を判別するのは難しいということだろう。
そう理解したところで、ふと雪花の心に疑問が浮かぶ。
「あれ、でもマークさん、私と浦河課長のことはわかりますよね。それは何故ですか?」
「セツカさんとウラカワ課長の顔写真は事前に渡されていたので、ここに来るまでに何度も何度も見て覚えることができたのです。さすがにお二人の顔もわからないというのは、大変失礼ですから」
それでも、かなりの努力を要したことは想像に難くない。どれだけ頑張ったところで、雪花はイカの顔を判別できる自信はなかった。
ひとまずその日の残り時間、マークは自席でできる作業を中心に仕事をこなし、定時になると「お先に失礼いたします」と丁寧に挨拶をして帰っていった。
しかし、その後ろ姿は――少しだけ、元気がないように雪花には見える。
「『部長、別に気にしてなかったぞ』って言ったんだけどなー」
浦河が帰り支度をしながら言った。結局、鳥飼には上手く浦河が説明をしてくれたようだ。こういう時は頼りになる。
鞄を担いだ浦河が、ちらりと雪花に視線を向けた。
「……何かいいアイデア、思い付いた?」
「そうですね――」
雪花はディスプレイに向き直り、カチカチと作業を再開する。机の上には、先程残業に備えて1階のコンビニで買ってきたサンドイッチと、カップスープと、そして――気合いを入れる時専用、ブルーベリー味の飲むヨーグルト。
「――正直、地道な方法しか思い付かなかったですけど……やってみます」
雪花は飲むヨーグルトにストローを挿した。一口飲むと口の中に甘酸っぱさが広がって、脳がリセットされたような気持ちになる。
足音と共に浦河が近付いてきて、雪花の机の上に柿の種を置いた。唐突なお裾分けに雪花が驚いている間にも「お先ー」と浦河は部屋の出口まで歩を進めていく。ドアを開けたところで浦河がこちらを振り返り、ニッと笑みを浮かべた。
「期待してるぜ、指導員」
バタンと音を立てて閉じられるドア。
静寂が広がった部屋の中で、雪花は小さく「……頑張ります」と呟く。
その決意の声は誰に聞かれることもなく、無音の空間に溶け込んでいった。
第5話 新米指導員、始動する (了)
浦河の声で、雪花ははっと我に返る。気付けば、自分の目の前のミートソーススパゲティは空になっていた。考えながら食べていたので、あまり味を覚えていない。
前の席のマークに目を移すと、彼のオムライスも綺麗になくなっている。スプーンが皿の上で斜め方向にきちんと置かれていた。そういう作法もきちんと勉強してきたのだろうか。
「すみません、お待たせしました」
食器を片付けた後、雪花とマークは総務課への帰路につく。浦河は喫煙所に行ってしまったが、ここまで来ればマークと二人きりでも特に問題はないだろう。
「マークさん、今日のオムライスの味はいかがでしたか?」
雪花が話しかけると、マークは「おいしかったです」と即答した。
「ただ、ウラカワ課長の食べていた『月見そば』にも、とても興味があります。少しずつ箸の練習をして、私もいつか挑戦してみたいです」
大真面目にそう言うマークのことを、雪花は微笑ましく感じる。一つ一つのことをこうやって新鮮に捉えているマークの傍にいると、自分自身も何だか初心に返ったような気持ちになるのだった。
そして、午後の業務を始めたところで――総務課に鳥飼がやってくる。
雪花が電話中であったため、マークが代わりに鳥飼の元へ向かった。電話をしながらそちらの様子を窺うと、二人は二言三言会話をし、そして鳥飼は部屋を出て行く。鳥飼がわざわざ総務課を訪れるなんて珍しい――そう思いながら、雪花は電話を切った。
すると、マークがいつもにも増して真剣な表情で、雪花の所にやってくる。
「セツカさん、申し訳ございません。私では対応しきれませんでした」
え、と雪花は思わず声を出した。
「マークさん、部長に何を言われたんですか?」
すると、マークがはっと目を見開く。
「……もしかすると、今の方は昨日私を助けてくれた方でしょうか」
「はい、鳥飼部長ですが――もしかして、マークさん」
どうやら、鳥飼の顔を覚えていなかったらしい。目の前でマークが大きな溜め息を吐いた。
「申し訳ございません。どなたかわからず……何の御用かお伺いしたところ、『君の様子を見に来ただけだ。地球での生活には慣れたか?』と言われましたので――火星人とバレてはまずいと、つい」
「……つい?」
マークは心から申し訳なさそうに呟く。
「『スミマセン、ニホンゴワカリマセン』と言ってしまいました……」
それは、昨日浦河も交えて決めたルールの中の一つだった。回答に困ることを訊かれたら、とにかく『ニホンゴワカリマセン』で切り抜けること――こんなに早く役立つことになるとは。
ひとまず、鳥飼がマークの様子を見に来ただけなのであれば問題はない。あとで浦河から「念には念を入れて、どんな相手にもそう回答させてます」とでも言っておいてもらえればいいだろう。
しかし、目の前のマークの顔は浮かないままだ。それが居たたまれず、思わず雪花は口を開いた。
「マークさん、そんなに落ち込まないでください。まだ来たばかりなんですから、人の顔を覚えられないのは当たり前ですよ」
「いいえセツカさん、『来たばかりだから』ではなく――恐らくこれは解決が難しい問題です」
一度言葉を切り、少し逡巡するように沈黙を挟んでから――漸くマークは続く言葉を口にする。
「私にとって地球人の顔を判別することは、かなり困難と言えます。大変失礼な言い方になってしまいますが――私からすると、みなさんの顔の細かい違いがわからないのです。しかも、私にとっての上位上長で、お世話になった方の顔すら覚えられないとすれば……これは由々しき事態です」
そしてまた、申し訳なさそうに口を噤んだ。
――成る程。ここに惑星を隔てた種族間の壁があった。
例えば同じ日本人同士ではAさんとBさんの見分けがついたとしても、外国人からするとAさんもBさんも同じような顔に――いや、火星人と地球人ということを踏まえれば、雪花がそれこそイカのAさんと別のイカのBさんを見分けることができないように、マークにとっても地球人の顔を判別するのは難しいということだろう。
そう理解したところで、ふと雪花の心に疑問が浮かぶ。
「あれ、でもマークさん、私と浦河課長のことはわかりますよね。それは何故ですか?」
「セツカさんとウラカワ課長の顔写真は事前に渡されていたので、ここに来るまでに何度も何度も見て覚えることができたのです。さすがにお二人の顔もわからないというのは、大変失礼ですから」
それでも、かなりの努力を要したことは想像に難くない。どれだけ頑張ったところで、雪花はイカの顔を判別できる自信はなかった。
ひとまずその日の残り時間、マークは自席でできる作業を中心に仕事をこなし、定時になると「お先に失礼いたします」と丁寧に挨拶をして帰っていった。
しかし、その後ろ姿は――少しだけ、元気がないように雪花には見える。
「『部長、別に気にしてなかったぞ』って言ったんだけどなー」
浦河が帰り支度をしながら言った。結局、鳥飼には上手く浦河が説明をしてくれたようだ。こういう時は頼りになる。
鞄を担いだ浦河が、ちらりと雪花に視線を向けた。
「……何かいいアイデア、思い付いた?」
「そうですね――」
雪花はディスプレイに向き直り、カチカチと作業を再開する。机の上には、先程残業に備えて1階のコンビニで買ってきたサンドイッチと、カップスープと、そして――気合いを入れる時専用、ブルーベリー味の飲むヨーグルト。
「――正直、地道な方法しか思い付かなかったですけど……やってみます」
雪花は飲むヨーグルトにストローを挿した。一口飲むと口の中に甘酸っぱさが広がって、脳がリセットされたような気持ちになる。
足音と共に浦河が近付いてきて、雪花の机の上に柿の種を置いた。唐突なお裾分けに雪花が驚いている間にも「お先ー」と浦河は部屋の出口まで歩を進めていく。ドアを開けたところで浦河がこちらを振り返り、ニッと笑みを浮かべた。
「期待してるぜ、指導員」
バタンと音を立てて閉じられるドア。
静寂が広がった部屋の中で、雪花は小さく「……頑張ります」と呟く。
その決意の声は誰に聞かれることもなく、無音の空間に溶け込んでいった。
第5話 新米指導員、始動する (了)
1
お気に入りに追加
15
あなたにおすすめの小説
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

包んで、重ねて ~歳の差夫婦の極甘新婚生活~
吉沢 月見
恋愛
ひたすら妻を溺愛する夫は50歳の仕事人間の服飾デザイナー、新妻は23歳元モデル。
結婚をして、毎日一緒にいるから、君を愛して君に愛されることが本当に嬉しい。
何もできない妻に料理を教え、君からは愛を教わる。

社長室の蜜月
ゆる
恋愛
内容紹介:
若き社長・西園寺蓮の秘書に抜擢された相沢結衣は、突然の異動に戸惑いながらも、彼の完璧主義に応えるため懸命に働く日々を送る。冷徹で近寄りがたい蓮のもとで奮闘する中、結衣は彼の意外な一面や、秘められた孤独を知り、次第に特別な絆を築いていく。
一方で、同期の嫉妬や社内の噂、さらには会社を揺るがす陰謀に巻き込まれる結衣。それでも、蓮との信頼関係を深めながら、二人は困難を乗り越えようとする。
仕事のパートナーから始まる二人の関係は、やがて揺るぎない愛情へと発展していく――。オフィスラブならではの緊張感と温かさ、そして心揺さぶるロマンティックな展開が詰まった、大人の純愛ストーリー。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~
菱沼あゆ
キャラ文芸
突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。
洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。
天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。
洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。
中華後宮ラブコメディ。
シンデレラは王子様と離婚することになりました。
及川 桜
恋愛
シンデレラは王子様と結婚して幸せになり・・・
なりませんでした!!
【現代版 シンデレラストーリー】
貧乏OLは、ひょんなことから会社の社長と出会い結婚することになりました。
はたから見れば、王子様に見初められたシンデレラストーリー。
しかしながら、その実態は?
離婚前提の結婚生活。
果たして、シンデレラは無事に王子様と離婚できるのでしょうか。
狂愛的ロマンス〜孤高の若頭の狂気めいた執着愛〜
羽村美海
恋愛
古式ゆかしき華道の家元のお嬢様である美桜は、ある事情から、家をもりたてる駒となれるよう厳しく育てられてきた。
とうとうその日を迎え、見合いのため格式高い高級料亭の一室に赴いていた美桜は貞操の危機に見舞われる。
そこに現れた男により救われた美桜だったが、それがきっかけで思いがけない展開にーー
住む世界が違い、交わることのなかったはずの尊の不器用な優しさに触れ惹かれていく美桜の行き着く先は……?
✦・━・✦・━・✦・━・✦・━・✦・━・✦・━・✦
✧天澤美桜•20歳✧
古式ゆかしき華道の家元の世間知らずな鳥籠のお嬢様
✧九條 尊•30歳✧
誰もが知るIT企業の経営者だが、実は裏社会の皇帝として畏れられている日本最大の極道組織泣く子も黙る極心会の若頭
✦・━・✦・━・✦・━・✦・━・✦・━・✦・━・✦
*西雲ササメ様より素敵な表紙をご提供頂きました✨
※TL小説です。設定上強引な展開もあるので閲覧にはご注意ください。
※設定や登場する人物、団体、グループの名称等全てフィクションです。
※随時概要含め本文の改稿や修正等をしています。
✧
✧連載期間22.4.29〜22.7.7 ✧
✧22.3.14 エブリスタ様にて先行公開✧
【第15回らぶドロップス恋愛小説コンテスト一次選考通過作品です。コンテストの結果が出たので再公開しました。※エブリスタ様限定でヤス視点のSS公開中】
腹黒上司が実は激甘だった件について。
あさの紅茶
恋愛
私の上司、坪内さん。
彼はヤバいです。
サラサラヘアに甘いマスクで笑った顔はまさに王子様。
まわりからキャーキャー言われてるけど、仕事中の彼は腹黒悪魔だよ。
本当に厳しいんだから。
ことごとく女子を振って泣かせてきたくせに、ここにきて何故か私のことを好きだと言う。
マジで?
意味不明なんだけど。
めっちゃ意地悪なのに、かいま見える優しさにいつしか胸がぎゅっとなってしまうようになった。
素直に甘えたいとさえ思った。
だけど、私はその想いに応えられないよ。
どうしたらいいかわからない…。
**********
この作品は、他のサイトにも掲載しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる