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第3話 偉大なる一匙(後篇)
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――あ、もしかして……
そう思った時には、もう遅い。彼女達は興味津々でマークに話しかけている。
「Hello, can you speak Japanese?」
マークが固まった。英語対応はしていないのだろう。さすがにそのまま放置はできないので「マークさん、日本語話せますよ」と雪花が言うと、彼女達は「あ、そうなの?」と楽しそうに笑い声を上げた。
「こんにちは、日本出張ですか?」
「いえ、私は鈴木・マーク・太郎、総務課の実習生です」
「「「実習生!?」」」
先輩達が声を揃えて驚く。
雪花は残り少ないカレーを口に運びながらも、内心気が気でない。何しろ、雪花とマークの間で、マークの他部署の人達への接し方や、何か質問された際にどう回答するかのすり合わせが簡単にしかできていないのだ。各部署への挨拶回りは夕方頃を予定していたため、その前に設定を詰めようと考えていた。
それが、まさか昼休みにこんな事態になるとは……。
目の前では先輩達が、マークに次々と話しかけている。マークは今のところ冷静に回答しているが、このままではボロが出てしまうかも知れない。
浦河がいれば強引にこの場を切り上げることもできたかも知れないが、彼女だけでこの火の点いた先輩達を御する自信はなかった。
しかし、そんな泣き言を言っている場合ではない。もしマークの正体がバレたら――具体的にどうなるか浦河から聞いてはいないが、少なくとも問題になってしまうであろうことは予想が付く。
何よりも、表情には表れていないものの、目の前のマークが明らかに戸惑っているように雪花には見えた。実習生を困らせてしまっては、指導員失格だ。
「ごちそうさまでした!」
ようやくカレーを食べ終えた雪花が、意を決して立ち上がる。マークと先輩達の視線が雪花に集まった。雪花が口を開く。
「マークさん、次の打合せがあるので、そろそろ行きましょう」
「えー、まだ昼休み終わらないからいいじゃない」
「もっとマークと話したいんだけど」
先輩達もなかなか引き下がらない。
膠着状態に入りそうになったその瞬間――
「――鈴木さん、そろそろ時間じゃないか」
背後から響いた低い声が、雪花の鼓膜を震わせた。それと同時に、雪花の前の先輩達の表情が固まる。彼女達はそそくさと席を立ち、「じゃあマーク、またね」と言い残して、その場を離れて行った。
つかつかと近付いてくる足音と、マークの視線の動きで、その人物がこちらに向かっていることがわかる。
雪花もまた、マークの視線の先に顔を向けると――そこには、厳かな空気を纏った厳しい表情の男性が立っていた。
***
「――全く、営業部の連中にも困ったものだ。会社を合コン会場と勘違いしているんじゃないか? 浦河も浦河だ。初日から『実習生』を若手に任せて席を外すなんて、ガードが甘すぎる」
社員食堂から職場に戻るまでの道のりを、雪花とマークは先程の男性に付いて歩く。ぶつぶつと小言を言いながら歩を進める男性に、雪花は歩く速度を上げて横に並び、口を開いた。
「すみません、鳥飼部長。助けて頂いて、ありがとうございました」
そう、彼――鳥飼は、浦河と雪花が所属する総務課の上位組織、人事総務部の部長だった。雪花にとっては上位上長にあたるが、ほとんど業務上接点がないため、正直雪花も鳥飼とそこまで話したことがない。
しかし、そのポジションの性質に加え、常に厳しい表情をしていることから、社内でも恐れられている存在であることは雪花も重々知っていた。
鳥飼がちらりと雪花を横目で見る。
「別に君のためにやったわけじゃない。とにかく、くれぐれも『彼』の扱いには気を付けてくれ。もし正体がバレたりでもしたら、減給では済まんぞ」
そして、鳥飼は廊下を曲がろうとして――不意に足を止め、振り返った。その鋭い視線はマークに向けられる。マークは表情を変えず、鳥飼を見つめ返していたが――
「――以後、気を付けます。今回は助けて頂いて、ありがとうございました」
そう言って、深々と頭を下げる。
鳥飼は何も言わずに、そのまま立ち去っていった。
姿が見えなくなったところで、雪花が大きく息を吐くと、マークが顔を上げる。その表情は変わらず冷静なままだった。雪花はもやもやとした気持ちを消化できず、口を開く。
「マークさんすみません、上手く庇うことができなくて」
雪花がそう言うと、マークがこちらを向いた。
「いえ、セツカさんは助けようとしてくれました。こちらこそすみません。私が彼女達の勢いに気圧されてしまって――」
少しバツの悪そうな顔で、マークが続ける。
「地球の女性は積極的ですね。とても勝てる気がしない」
その凛々しい顔付きには似合わない弱気な台詞に、雪花は思わず吹き出した。二人はゆっくりと総務課に向かって歩き出す。
「――そういえば、カレー、気に入って頂けましたか?」
「はい、とても。実は少し食事については心配だったのですが、全く問題ありませんでした。寧ろ火星の食事よりも、おいしいです」
「それは良かったです。カレーは大体どこでも食べられますから、困ったらカレーを選べば大丈夫ですよ」
「どこでも食べられるんですか……地球に来て良かったです」
思わず雪花はマークの方を見る。彼は大真面目な顔でこちらを見ていた。どうやら本気のようだ。
カレーって本当に偉大だなぁ。
雪花は呑気にそんなことを思う。いつの間にか胸の中のもやもやは姿を消していた。
第3話 偉大なる一匙 (了)
そう思った時には、もう遅い。彼女達は興味津々でマークに話しかけている。
「Hello, can you speak Japanese?」
マークが固まった。英語対応はしていないのだろう。さすがにそのまま放置はできないので「マークさん、日本語話せますよ」と雪花が言うと、彼女達は「あ、そうなの?」と楽しそうに笑い声を上げた。
「こんにちは、日本出張ですか?」
「いえ、私は鈴木・マーク・太郎、総務課の実習生です」
「「「実習生!?」」」
先輩達が声を揃えて驚く。
雪花は残り少ないカレーを口に運びながらも、内心気が気でない。何しろ、雪花とマークの間で、マークの他部署の人達への接し方や、何か質問された際にどう回答するかのすり合わせが簡単にしかできていないのだ。各部署への挨拶回りは夕方頃を予定していたため、その前に設定を詰めようと考えていた。
それが、まさか昼休みにこんな事態になるとは……。
目の前では先輩達が、マークに次々と話しかけている。マークは今のところ冷静に回答しているが、このままではボロが出てしまうかも知れない。
浦河がいれば強引にこの場を切り上げることもできたかも知れないが、彼女だけでこの火の点いた先輩達を御する自信はなかった。
しかし、そんな泣き言を言っている場合ではない。もしマークの正体がバレたら――具体的にどうなるか浦河から聞いてはいないが、少なくとも問題になってしまうであろうことは予想が付く。
何よりも、表情には表れていないものの、目の前のマークが明らかに戸惑っているように雪花には見えた。実習生を困らせてしまっては、指導員失格だ。
「ごちそうさまでした!」
ようやくカレーを食べ終えた雪花が、意を決して立ち上がる。マークと先輩達の視線が雪花に集まった。雪花が口を開く。
「マークさん、次の打合せがあるので、そろそろ行きましょう」
「えー、まだ昼休み終わらないからいいじゃない」
「もっとマークと話したいんだけど」
先輩達もなかなか引き下がらない。
膠着状態に入りそうになったその瞬間――
「――鈴木さん、そろそろ時間じゃないか」
背後から響いた低い声が、雪花の鼓膜を震わせた。それと同時に、雪花の前の先輩達の表情が固まる。彼女達はそそくさと席を立ち、「じゃあマーク、またね」と言い残して、その場を離れて行った。
つかつかと近付いてくる足音と、マークの視線の動きで、その人物がこちらに向かっていることがわかる。
雪花もまた、マークの視線の先に顔を向けると――そこには、厳かな空気を纏った厳しい表情の男性が立っていた。
***
「――全く、営業部の連中にも困ったものだ。会社を合コン会場と勘違いしているんじゃないか? 浦河も浦河だ。初日から『実習生』を若手に任せて席を外すなんて、ガードが甘すぎる」
社員食堂から職場に戻るまでの道のりを、雪花とマークは先程の男性に付いて歩く。ぶつぶつと小言を言いながら歩を進める男性に、雪花は歩く速度を上げて横に並び、口を開いた。
「すみません、鳥飼部長。助けて頂いて、ありがとうございました」
そう、彼――鳥飼は、浦河と雪花が所属する総務課の上位組織、人事総務部の部長だった。雪花にとっては上位上長にあたるが、ほとんど業務上接点がないため、正直雪花も鳥飼とそこまで話したことがない。
しかし、そのポジションの性質に加え、常に厳しい表情をしていることから、社内でも恐れられている存在であることは雪花も重々知っていた。
鳥飼がちらりと雪花を横目で見る。
「別に君のためにやったわけじゃない。とにかく、くれぐれも『彼』の扱いには気を付けてくれ。もし正体がバレたりでもしたら、減給では済まんぞ」
そして、鳥飼は廊下を曲がろうとして――不意に足を止め、振り返った。その鋭い視線はマークに向けられる。マークは表情を変えず、鳥飼を見つめ返していたが――
「――以後、気を付けます。今回は助けて頂いて、ありがとうございました」
そう言って、深々と頭を下げる。
鳥飼は何も言わずに、そのまま立ち去っていった。
姿が見えなくなったところで、雪花が大きく息を吐くと、マークが顔を上げる。その表情は変わらず冷静なままだった。雪花はもやもやとした気持ちを消化できず、口を開く。
「マークさんすみません、上手く庇うことができなくて」
雪花がそう言うと、マークがこちらを向いた。
「いえ、セツカさんは助けようとしてくれました。こちらこそすみません。私が彼女達の勢いに気圧されてしまって――」
少しバツの悪そうな顔で、マークが続ける。
「地球の女性は積極的ですね。とても勝てる気がしない」
その凛々しい顔付きには似合わない弱気な台詞に、雪花は思わず吹き出した。二人はゆっくりと総務課に向かって歩き出す。
「――そういえば、カレー、気に入って頂けましたか?」
「はい、とても。実は少し食事については心配だったのですが、全く問題ありませんでした。寧ろ火星の食事よりも、おいしいです」
「それは良かったです。カレーは大体どこでも食べられますから、困ったらカレーを選べば大丈夫ですよ」
「どこでも食べられるんですか……地球に来て良かったです」
思わず雪花はマークの方を見る。彼は大真面目な顔でこちらを見ていた。どうやら本気のようだ。
カレーって本当に偉大だなぁ。
雪花は呑気にそんなことを思う。いつの間にか胸の中のもやもやは姿を消していた。
第3話 偉大なる一匙 (了)
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