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後篇
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――そしてその15分後、僕たちはまだ明るい秋葉原の街を歩いていた。
本当に定時と同時の出発だ。いつ振りか、二人で乗った世界と隔絶された箱の中も、僕たちの貸し切りだった。
「部長、良いんですか。今日は課長も主任も居なかったので、問合せが他部署からあるかも――」
「多少問合せの回答が遅れたくらいで死にはしないよ。月曜日に対応すれば十分」
そうきっぱりと断言する部長に、僕は何も言い返すことができない。観念した僕は、あいかわらず歩くのが速い部長の背中にすごすごと付いていった。
無言のままひたすら歩いていると、明るい春の陽射しが少しずつオレンジ色に移り変わり、万世橋から見える神田川はきらきらと光を含んで流れている。
――この街とも、あと2週間でお別れか。
そう思うと、これまで何とも思わなかった通勤風景が、とてつもなく愛おしく感じられてくる。
朝に立ち寄ったいつものコンビニ、昼に時計と睨めっこをしながら並んだラーメン屋、夜にビルの明かりを見上げながら歩いた道のり――どれもが今の僕を創り上げるものたちだ。
わけもわからず仕事に追われ、色のない世界で眠るあの日々がなければ、自分の仕事の先に息衝く人たちの存在を知り、その意義に勇気付けられることもなかった。
そんな風に感傷に浸った僕を連れて、部長は迷いなく道を進み、やがて橋の袂にそびえ立つ煉瓦色のビルの前で足を止めた。
顔を上げた僕の瞳に映るのは――肉、肉、肉。
鉄板の上で肉汁を滴らせるハンバーグ、皿一面に蠱惑的な色で輝くしゃぶしゃぶ、パンに挟まれながらもその存在を強く主張するトンカツ――そんな様々な表情をした肉たちの写真が、見た者の食欲を刺激する。
「――前、食べ損なったでしょう。リベンジも悪くないと思って」
隣に立つ部長はいつもの仏頂面でそう言って、小さく口元を緩めてみせた。
***
そして今、僕の目の前では肉が焼かれている。
金曜日とは言えど早い時間帯だからか周囲に客はおらず、一通りオーダーしたものを運んできた店員が去ってから、その空間は鴫原部長と僕だけのものになった。
石造りを基調とした店内がぼやりとしたランプで照らされ、黒いレザーで彩られた座席の存在もあいまって高級感に溢れている。
窓の外には秋葉原の街が広がっていて、今部長と一緒にここに居る状況が、何だかとても不思議に思えた。
「はい、どうぞ」
焼けた肉を部長が僕の皿に載せる。
部長に焼かせるのもどうかと思ったが、「私が来たくて来たんだから気にしなくて良いよ」と言われ、僕は言われるがままだった。
自分が人生で巡り会った中で、最も分厚いタン塩だ。豪奢な雰囲気に気が引けながらも口に入れた瞬間、がつんとした肉の味わいが僕の舌を刺激した。そのまま噛み締めると、肉汁が口の中いっぱいに広がる。昼食を食べ損ない、すっかり元気をなくしていたはずの胃袋にあっという間に火が点いた。
「――おいしい……」
僕の口から零れた言葉に、目の前の部長が頷く。
「肉と言えば『万世』だからね。おいしさは保証されている」
そして机の上に置かれた厚切りの肉たちを、几帳面に網の上に載せた。その焼ける音ですら、何だか上品に感じられる。
「存在は知っていましたが、初めて来ました……高そうですし」
「この焼肉のフロアは多少良い値段がするけれど、他のフロアにはリーズナブルなメニューもあるよ。何より雰囲気が落ち着いているから、誰かとゆっくり話をするには最適の場所だ」
部長が生ビールを煽った。僕のグラスよりも減りが早い。
思い返せば、部長とこうやって酒を飲むのは部長の歓迎会以来だ。
「転勤の準備は順調?」
アルコールのお蔭か、部長の口がいつもより滑らかになっているように感じる。負けじと僕もビールで喉を潤わせてから、口を開いた。
「順調かはわかりませんが、取り敢えず進めているという感じです。初めての転勤なので、正直不安しかないですけど」
「まぁ、転勤というのは不安なものだよ。何度しても、なかなか慣れない。少なくとも私はそうだった」
普段あまり感情を見せない部長の思いがけない言葉に、僕は思わずその顔をまじまじと見つめてしまう。
僕の視線に気付いた部長は、小さく笑った。
「――意外だった?」
「いえ……あ、はい。その――部長はいつも、落ち着いて見えるので。不安や緊張とは無縁だと思っていました」
「そんなことはないよ。周囲にそういう姿を見せないようにしているだけで、1年前この職場に来る時だって内心ドキドキしていた。いつもより早く目が覚めたので出社したら、早過ぎて誰も居なかったし」
僕の瞼に、1年前の部長の姿がよみがえる。
あの堂々とした佇まいの裏でそんな心境だったとは、思いも寄らなかった。目の前で肉をゆっくりと味わう上司に、何だか親近感が湧いてくる。
「あの日、お昼に和泉くんが定食屋さんに連れて行ってくれたよね」
「そんなこと、よく覚えていますね」
「勿論覚えているよ」
目の前の部長はビールを一口飲んで、瞳を伏せた。
「着任したばかりで誰も知らないし、お昼どうしようかなと思った時に、和泉くんが声をかけてくれて。あとで他のメンバーから、君があまり昼ごはんを食べる習慣がないんだと聞いて、驚いたんだよ。そんな君が私を誘ってくれた――その気遣いが、とても嬉しかった」
僕はあの日のことを思い出そうと努める――霞みがかった記憶の中で、僕は部長と二人でエレベーターに乗っていた。
気遣いという程のつもりはなく、ただ来たばかりの部長を一人にしてしまうのが申し訳なくて――そうそう、後先考えずに連れ出したんだった。
今思えば社員食堂でも良かったのに。外に出たは良いもののあまりお店を知らないから、必死に考えて、結局すぐ隣のビルにある定食屋に落ち着いたんだっけ――。
そんな、僕ですら忘れてしまっているようなことを、部長が覚えていたなんて。
胸の奥がじんと熱くなったような気がした。
それから僕たちは、これまでにないくらい色々な話をした。
学生時代のこと、他部署の人たちのこと、少しだけ仕事の話をしてから、週末にどんな風に過ごしているかなんていうことまで――ほとんど話さなかったこの1年近くの時間を、ゆっくりと取り戻すかのように。
「そういえば、徹夜明けに部長にそば屋に連れて行って頂きましたね。あの時は本当に救われましたよ。懐かしいなぁ」
僕の話をハイボールを片手に聞いていた部長が、小さく笑った。
「『まつや』か。あの頃の君は、きつそうだったね。まるで――昔の私のようだった」
「――え」
意外な言葉に、僕は思わず声を洩らす。
店員が新しいハイボールを持ってきた。僅かに残っていた黄金色の雫を飲み干し、空になったグラスを部長が店員に渡す。氷の音がカランと鳴った。
席を離れていく店員を見送りながら、部長は静かに口を開く。
「以前も話したかも知れないけれど、私は出来が悪くてね。大量の仕事はいつまで経っても終わらないし、上司との折り合いも悪くて、毎日が苦痛でたまらなかった。何をやっても上手く行かなくて、何度も辞めようかと思ったけれど辞める勇気もない。先輩や周りの同期に助けてもらったお蔭で、その内人並みの仕事ができるようになったけれど――あの朝、机で眠る君を見て、何故か久し振りにその頃のことを思い出したんだ。残念ながら私と君は歳も職位も離れているから、仕事で直接助けられることは少ないけれど――それでも何かせずにはいられなかった」
生まれたてのハイボールを一口飲んでから、部長がおもむろにこちらを向いた。
顔色はいつもと変わらないが――その眼差しは、優しさに満ちている。
「だから、あの日君がおいしそうにそばを食べて、笑う姿を見て――何だかすごくほっとしたんだ。変な話だけど、もしかしたら私は君の中にかつての自分を見ていたのかも知れない」
そして、鴫原部長はあたたかな微笑みを浮かべた。
「だから、和泉くん――君は先刻『私に救われた』と言ったけれど、私の方こそ君に救われていたんだよ。私は君を通して、かつての自分を救うことができたんだから」
***
――その懐かしい声を最後に、僕の微睡みが終わっていく。
後ろ髪を引かれながら、僕は過去の思い出に満ちた夢にさよならを告げた。
時刻は朝5時40分。二度寝を諦めた僕は、ベッドから起き上がる。
人も疎らな電車に乗って、僕は勤務地の最寄り駅に降り立った。
開店を目前にしたカフェの前には、二人程サラリーマンが並んでいる。最近流行りの朝活というやつだろうか。
朝の街は静けさに包まれつつも、1日が始まろうとするエネルギーに満ち溢れている。そんな涼しさの残る空気の中を、僕はゆっくりと歩いて新しいオフィスに向かった。
そう――この街で働くのは、もう18年振りになる。
万世橋の横を通り過ぎる時に、高くそびえる煉瓦色のビルを見上げた。
ビルの上に飾られた牛の看板は、今日も笑顔で秋葉原の街を見つめている。
勤務地は、18年前に僕が勤めていたビルの斜向かいにあった。随分と立派なオフィスだ。
かつて僕が所属していた部署もこの新オフィスに移転したという。
午前7時の鉄の箱は、僕一人の貸し切りだった。
思った以上にスムーズにフロアーには着いたものの、当然の如く誰も居ない。
仕方なく、誰にも迷惑のかからなさそうな打合せスペースの席に腰掛けて――ふと、『あのひと』のことを思い出す。
――そうだ。あのひとも、こうやって朝早くに来ていた。
あの凛とした声の持ち主は、今頃何をしているだろう。
現地時間はもうすぐ18時。
同僚たちとビールでも飲みに行っているのかも知れない。
アメリカのグループ会社に取締役として赴任したと聞いた時は驚いたが、あのひとだったらきっと――いや、絶対に大丈夫だ。
もう何年も逢っていないはずなのに、夢のお蔭で随分とその存在を近くに感じることができた。
そのまま記憶を辿ろうとした、その時――
「おはようございます。もしかして――和泉部長、ですか」
無人のはずだったフロアーに、少し高めの声が響く。
振り返った僕の目に映ったのは、緊張感に満ちた表情の、初めて見る女性社員だった。
『変な話だけど、もしかしたら私は君の中にかつての自分を見ていたのかも知れない』
一瞬その姿にいつかの僕の面影が重なり――ようやくあのひとの言っていた言葉の意味を理解する。
――さぁ、僕に何ができるだろう。
かつての僕に似た、目の前の君のために。
僕は心の中で深呼吸をして、ゆっくりと立ち上がった。
――そう、つい先程まで夢の中で共に過ごしたあのひととの思い出を辿るように。
「おはようございます。今日からお世話になる和泉です――よろしく」
脳裏には、いつもの仏頂面に微笑を滲ませたあのひとの姿が浮かんでいた。
(了)
本当に定時と同時の出発だ。いつ振りか、二人で乗った世界と隔絶された箱の中も、僕たちの貸し切りだった。
「部長、良いんですか。今日は課長も主任も居なかったので、問合せが他部署からあるかも――」
「多少問合せの回答が遅れたくらいで死にはしないよ。月曜日に対応すれば十分」
そうきっぱりと断言する部長に、僕は何も言い返すことができない。観念した僕は、あいかわらず歩くのが速い部長の背中にすごすごと付いていった。
無言のままひたすら歩いていると、明るい春の陽射しが少しずつオレンジ色に移り変わり、万世橋から見える神田川はきらきらと光を含んで流れている。
――この街とも、あと2週間でお別れか。
そう思うと、これまで何とも思わなかった通勤風景が、とてつもなく愛おしく感じられてくる。
朝に立ち寄ったいつものコンビニ、昼に時計と睨めっこをしながら並んだラーメン屋、夜にビルの明かりを見上げながら歩いた道のり――どれもが今の僕を創り上げるものたちだ。
わけもわからず仕事に追われ、色のない世界で眠るあの日々がなければ、自分の仕事の先に息衝く人たちの存在を知り、その意義に勇気付けられることもなかった。
そんな風に感傷に浸った僕を連れて、部長は迷いなく道を進み、やがて橋の袂にそびえ立つ煉瓦色のビルの前で足を止めた。
顔を上げた僕の瞳に映るのは――肉、肉、肉。
鉄板の上で肉汁を滴らせるハンバーグ、皿一面に蠱惑的な色で輝くしゃぶしゃぶ、パンに挟まれながらもその存在を強く主張するトンカツ――そんな様々な表情をした肉たちの写真が、見た者の食欲を刺激する。
「――前、食べ損なったでしょう。リベンジも悪くないと思って」
隣に立つ部長はいつもの仏頂面でそう言って、小さく口元を緩めてみせた。
***
そして今、僕の目の前では肉が焼かれている。
金曜日とは言えど早い時間帯だからか周囲に客はおらず、一通りオーダーしたものを運んできた店員が去ってから、その空間は鴫原部長と僕だけのものになった。
石造りを基調とした店内がぼやりとしたランプで照らされ、黒いレザーで彩られた座席の存在もあいまって高級感に溢れている。
窓の外には秋葉原の街が広がっていて、今部長と一緒にここに居る状況が、何だかとても不思議に思えた。
「はい、どうぞ」
焼けた肉を部長が僕の皿に載せる。
部長に焼かせるのもどうかと思ったが、「私が来たくて来たんだから気にしなくて良いよ」と言われ、僕は言われるがままだった。
自分が人生で巡り会った中で、最も分厚いタン塩だ。豪奢な雰囲気に気が引けながらも口に入れた瞬間、がつんとした肉の味わいが僕の舌を刺激した。そのまま噛み締めると、肉汁が口の中いっぱいに広がる。昼食を食べ損ない、すっかり元気をなくしていたはずの胃袋にあっという間に火が点いた。
「――おいしい……」
僕の口から零れた言葉に、目の前の部長が頷く。
「肉と言えば『万世』だからね。おいしさは保証されている」
そして机の上に置かれた厚切りの肉たちを、几帳面に網の上に載せた。その焼ける音ですら、何だか上品に感じられる。
「存在は知っていましたが、初めて来ました……高そうですし」
「この焼肉のフロアは多少良い値段がするけれど、他のフロアにはリーズナブルなメニューもあるよ。何より雰囲気が落ち着いているから、誰かとゆっくり話をするには最適の場所だ」
部長が生ビールを煽った。僕のグラスよりも減りが早い。
思い返せば、部長とこうやって酒を飲むのは部長の歓迎会以来だ。
「転勤の準備は順調?」
アルコールのお蔭か、部長の口がいつもより滑らかになっているように感じる。負けじと僕もビールで喉を潤わせてから、口を開いた。
「順調かはわかりませんが、取り敢えず進めているという感じです。初めての転勤なので、正直不安しかないですけど」
「まぁ、転勤というのは不安なものだよ。何度しても、なかなか慣れない。少なくとも私はそうだった」
普段あまり感情を見せない部長の思いがけない言葉に、僕は思わずその顔をまじまじと見つめてしまう。
僕の視線に気付いた部長は、小さく笑った。
「――意外だった?」
「いえ……あ、はい。その――部長はいつも、落ち着いて見えるので。不安や緊張とは無縁だと思っていました」
「そんなことはないよ。周囲にそういう姿を見せないようにしているだけで、1年前この職場に来る時だって内心ドキドキしていた。いつもより早く目が覚めたので出社したら、早過ぎて誰も居なかったし」
僕の瞼に、1年前の部長の姿がよみがえる。
あの堂々とした佇まいの裏でそんな心境だったとは、思いも寄らなかった。目の前で肉をゆっくりと味わう上司に、何だか親近感が湧いてくる。
「あの日、お昼に和泉くんが定食屋さんに連れて行ってくれたよね」
「そんなこと、よく覚えていますね」
「勿論覚えているよ」
目の前の部長はビールを一口飲んで、瞳を伏せた。
「着任したばかりで誰も知らないし、お昼どうしようかなと思った時に、和泉くんが声をかけてくれて。あとで他のメンバーから、君があまり昼ごはんを食べる習慣がないんだと聞いて、驚いたんだよ。そんな君が私を誘ってくれた――その気遣いが、とても嬉しかった」
僕はあの日のことを思い出そうと努める――霞みがかった記憶の中で、僕は部長と二人でエレベーターに乗っていた。
気遣いという程のつもりはなく、ただ来たばかりの部長を一人にしてしまうのが申し訳なくて――そうそう、後先考えずに連れ出したんだった。
今思えば社員食堂でも良かったのに。外に出たは良いもののあまりお店を知らないから、必死に考えて、結局すぐ隣のビルにある定食屋に落ち着いたんだっけ――。
そんな、僕ですら忘れてしまっているようなことを、部長が覚えていたなんて。
胸の奥がじんと熱くなったような気がした。
それから僕たちは、これまでにないくらい色々な話をした。
学生時代のこと、他部署の人たちのこと、少しだけ仕事の話をしてから、週末にどんな風に過ごしているかなんていうことまで――ほとんど話さなかったこの1年近くの時間を、ゆっくりと取り戻すかのように。
「そういえば、徹夜明けに部長にそば屋に連れて行って頂きましたね。あの時は本当に救われましたよ。懐かしいなぁ」
僕の話をハイボールを片手に聞いていた部長が、小さく笑った。
「『まつや』か。あの頃の君は、きつそうだったね。まるで――昔の私のようだった」
「――え」
意外な言葉に、僕は思わず声を洩らす。
店員が新しいハイボールを持ってきた。僅かに残っていた黄金色の雫を飲み干し、空になったグラスを部長が店員に渡す。氷の音がカランと鳴った。
席を離れていく店員を見送りながら、部長は静かに口を開く。
「以前も話したかも知れないけれど、私は出来が悪くてね。大量の仕事はいつまで経っても終わらないし、上司との折り合いも悪くて、毎日が苦痛でたまらなかった。何をやっても上手く行かなくて、何度も辞めようかと思ったけれど辞める勇気もない。先輩や周りの同期に助けてもらったお蔭で、その内人並みの仕事ができるようになったけれど――あの朝、机で眠る君を見て、何故か久し振りにその頃のことを思い出したんだ。残念ながら私と君は歳も職位も離れているから、仕事で直接助けられることは少ないけれど――それでも何かせずにはいられなかった」
生まれたてのハイボールを一口飲んでから、部長がおもむろにこちらを向いた。
顔色はいつもと変わらないが――その眼差しは、優しさに満ちている。
「だから、あの日君がおいしそうにそばを食べて、笑う姿を見て――何だかすごくほっとしたんだ。変な話だけど、もしかしたら私は君の中にかつての自分を見ていたのかも知れない」
そして、鴫原部長はあたたかな微笑みを浮かべた。
「だから、和泉くん――君は先刻『私に救われた』と言ったけれど、私の方こそ君に救われていたんだよ。私は君を通して、かつての自分を救うことができたんだから」
***
――その懐かしい声を最後に、僕の微睡みが終わっていく。
後ろ髪を引かれながら、僕は過去の思い出に満ちた夢にさよならを告げた。
時刻は朝5時40分。二度寝を諦めた僕は、ベッドから起き上がる。
人も疎らな電車に乗って、僕は勤務地の最寄り駅に降り立った。
開店を目前にしたカフェの前には、二人程サラリーマンが並んでいる。最近流行りの朝活というやつだろうか。
朝の街は静けさに包まれつつも、1日が始まろうとするエネルギーに満ち溢れている。そんな涼しさの残る空気の中を、僕はゆっくりと歩いて新しいオフィスに向かった。
そう――この街で働くのは、もう18年振りになる。
万世橋の横を通り過ぎる時に、高くそびえる煉瓦色のビルを見上げた。
ビルの上に飾られた牛の看板は、今日も笑顔で秋葉原の街を見つめている。
勤務地は、18年前に僕が勤めていたビルの斜向かいにあった。随分と立派なオフィスだ。
かつて僕が所属していた部署もこの新オフィスに移転したという。
午前7時の鉄の箱は、僕一人の貸し切りだった。
思った以上にスムーズにフロアーには着いたものの、当然の如く誰も居ない。
仕方なく、誰にも迷惑のかからなさそうな打合せスペースの席に腰掛けて――ふと、『あのひと』のことを思い出す。
――そうだ。あのひとも、こうやって朝早くに来ていた。
あの凛とした声の持ち主は、今頃何をしているだろう。
現地時間はもうすぐ18時。
同僚たちとビールでも飲みに行っているのかも知れない。
アメリカのグループ会社に取締役として赴任したと聞いた時は驚いたが、あのひとだったらきっと――いや、絶対に大丈夫だ。
もう何年も逢っていないはずなのに、夢のお蔭で随分とその存在を近くに感じることができた。
そのまま記憶を辿ろうとした、その時――
「おはようございます。もしかして――和泉部長、ですか」
無人のはずだったフロアーに、少し高めの声が響く。
振り返った僕の目に映ったのは、緊張感に満ちた表情の、初めて見る女性社員だった。
『変な話だけど、もしかしたら私は君の中にかつての自分を見ていたのかも知れない』
一瞬その姿にいつかの僕の面影が重なり――ようやくあのひとの言っていた言葉の意味を理解する。
――さぁ、僕に何ができるだろう。
かつての僕に似た、目の前の君のために。
僕は心の中で深呼吸をして、ゆっくりと立ち上がった。
――そう、つい先程まで夢の中で共に過ごしたあのひととの思い出を辿るように。
「おはようございます。今日からお世話になる和泉です――よろしく」
脳裏には、いつもの仏頂面に微笑を滲ませたあのひとの姿が浮かんでいた。
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