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track09. 春は夏と共に歌う-I'm Singing with You-(3)

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「――春原はるはらくん?」

 自身を呼ぶ声に、隆志は記憶の底から意識を引き揚げた。声の方向を振り返ると、亜季がこちらを見ている。
「はい、どうしました?」
「ううん、特に用事はないんだけど。お茶でも飲む?」
 そう言って彼女はペットボトルのお茶を差し出した。

 二年前に受けた手術は成功し、病院へ通う頻度は格段に減ったが、それでも隆志は今も体調にはかなり気を遣っていた。特に食事については、頭の中でその成分や栄養素を考えながら、体調に差し支えないようメニューを選んでいる。そこまで考えすぎなくても良いと頭ではわかっていても、いつかあの時の状態に逆戻りしてしまうのではないかという不安感が未だに拭えない。
 当然、それを他人に話したことはない。しかし、亜季がたまに練習の時に買ってくる差し入れには、必ずお茶や水のペットボトルが含まれていた。夏野や冬島はいつもジュースや炭酸飲料を選ぶので、亜季はわざわざ隆志の為に用意してくれていたのだろう。

「――いつもありがとうございます」
 隆志は亜季の心遣いに感謝し、ペットボトルを受け取る。「どういたしまして」と亜季がにっこりと笑顔を見せた。

 お茶を飲みながら周囲を見回す。控室の端では、冬島が椅子に座ったまま昼寝をしていた。本番前だというのに、呑気なものだ。それ以外の部員達の姿はない。ペリドットのライブを観に行ったのだろうか。いつの間にか、メイクを済ませた坂本の姿もなかった。
「もうすぐ本番だね。緊張してる?」
「どうでしょう。まぁあの人よりは緊張しているかも知れません」
 そう言って冬島を指さすと、亜季は「さすがだよね」と笑う。そして――隆志の方に改めて向き直った。

「――春原くん、ありがとうね」
 唐突な亜季の言葉に、隆志はペットボトルを口から離す。彼女は真剣な眼差しでこちらを見ていた。
「最近のなっちゃん、本当に楽しそうなの。昔色々あって音楽から離れてしまっていたけれど――なっちゃんがまた歌えるようになったのは、春原くんのお蔭だから。本当に感謝してる」
 滔々とうとうと告げられる亜季の言葉に、隆志は思わず口を開く。

「何言ってるんですか。夏野さんがまた歌えるようになったのは、高梨さんがいたからですよ」
 亜季の目がはっと見開かれた。
「確かに、俺がバンドに誘ったから、夏野さんは音楽をまた始めたのかも知れない――でも、夏野さんが今も元気でいられるのは、高梨さんがずっと傍にいたからだと思います」
 それは隆志の正直な思いだった。自分が夏野に逢いに行くまでに、彼が完全に心を閉ざしてしまう可能性だってあったのだ。そんな彼を支えたのは間違いなく亜季の存在だったろう。夏野との会話の端々からも、亜季への感謝の思いは感じ取ることができた。

「――高梨さん、あのひとのことを守ってくれて、本当にありがとうございました」

 亜季の瞳が熱を持って、潤む。しかし、それは決壊することなく、穏やかな笑みに変わった。
「……私達、なっちゃんにいつか恩返ししてもらわないとね」
 おどけたような彼女の言葉に、隆志も笑う。以前は夏野以外の人間に感情を見せるのは苦手だったが、軽音楽部での生活は少しずつ隆志の心の頑なさも溶かしてくれたようだった。

「そういえば、なっちゃんまだビラ配りかな。そろそろスタンバイしないと」
 確かに、壁の時計を見ると既に時刻は十六時を過ぎている。ペリドットの公演も残り僅かだ。夏野を呼びに行こうと隆志が立ち上がろうとしたその時――控室のドアがけたたましく開いて、御堂みどうが入ってきた。
「……何だ? うるせぇな」
 その音の大きさに、眠っていた冬島が身体を起こす。しかし、彼も御堂の表情に浮かんだ緊迫感に気付いたのか、その口をつぐんだ。
「――おい、ちょっとやばいかも知れない」


 隆志が視聴覚室に入ると、観客席は喧騒に満ちていた。
 前方では楽器を持ったままのペリドットの面々が「困ったねぇ、諸君」「こればかりは、『彼』に機嫌を直してもらうしかないな」などとMCで場を繋いでいる。すぐにステージまでの階段を降りていき、近くに立つ繭子に声をかけると、彼女は小声で隆志に答えた。

「(――アンプからいきなり音が出なくなっちゃって)」

 アンプの前では坂本が電源やボリュームをいじっている。しかし、どうにも事態が好転しそうにないのは、彼の普段以上に顰められた表情からも明らかだった。隆志は繭子に視線を戻す。
「スタジオから他のアンプを持ってくるのは?」
「――いや、持ってくるにしても、別館のスタジオからこの視聴覚室まで運ぶだけで、かなりの時間がかかる」
 いつの間にか追い付いてきていた御堂が会話に入ってくる。
「吉永さん達だってまだ数曲残ってるし、そんなことやってたらお前らのバンドの演奏時間、ほとんど取れないんじゃないか?」

 ――こんなこと、あって良いのか。

 隆志は目の前から光が失われるのを感じた。様々なトラブルを何とか潜り抜けてここまで辿り着いたのに、最後の最後に機材トラブルが起こるとは。余程運命の神様の機嫌を損ねてしまったのだろうか。
 過去に幾度となく経験した、暗闇に引き摺り込まれるような感覚を覚えた時――ふと、脳裏に一片のよぎる。
 それは、二年前のあの日、孤立無援の状態で最後まで笑顔で歌いきった夏野の姿だった。隆志は口唇を噛んで、踏みとどまる。

 ――いや、諦めるな。まだできることがあるはずだ。
 ――諦めるな!

 その時、視聴覚室の一番後ろのドアが開いた。そこには、部長の三条さんじょうと見慣れない男子学生が立っている。その学生の右腕には文化祭実行委員の腕章が着いていた。彼らはステージの様子を見て、二言三言会話を交わすと、すぐに会場を出ていく。

 それを見送ったところで、胸ポケットに入れていた携帯電話が鳴った。電話の主は亜季だ。
『春原くん、ちょっと良い? 会場にいる皆に伝えてくれるかな。ペリドットの皆と繭子ちゃん、お客さんはそのまま一旦待機。で、他の軽音楽部のメンバーは、スタジオに集合』
「――スタジオに?」
『うん、私と冬島さんももうスタジオに向かっているから。あ、春原くんと坂本先生は楽器も忘れないでね。よろしく!』
 そして、電話は切れた。

 ――何が起こっているかはわからない。しかし、皆この状況で、諦めてはいない。

 隆志は軽音楽部のメンバーを集めて、亜季からの指令を伝える。彼らは一様に真剣な表情で頷いた。すぐに坂本と御堂を連れて、隆志は視聴覚室を出る。
 一階まで降りたところで、廊下の先に夏野の姿を見付けた。先に坂本達をスタジオに向かわせ、隆志は夏野の元へと走っていく。

「――夏野さん!」

 声をかけると、夏野が驚いた顔でこちらを振り返った。その顔色に違和感を感じ、そこで初めて、隆志は夏野の傍に他の人間がいることに気付く。
 ――それは、Cloudy then Sunnyのボーカル杉下香織と、彼女と共に視聴覚室の近くにいた男だった。しかし、その場の空気感は、少なくともいつもの夏野と香織の間のものとは異なっている。

 ――何だ?

 目の前の事態が把握できず、隆志の心が波立った。しかし、今はそれを考えている状況ではない。少なくとも夏野をこの場から連れ出そうと、隆志は意識的に夏野と二人の間に割って入った。
「夏野さん、緊急事態です。スタジオまで行きましょう」
「え? ――あぁ、わかった」
 夏野の表情が、すっと冷静さを取り戻す。そのままスタジオに向かおうとしたところで――

「トモ、待ってくれ!」

 ――背後から男の声がして、夏野の足がぴたりと止まった。
 隆志の隣で夏野は俯いている。振り返ると、戸惑った様子の香織の隣で、男は真剣な眼差しでこちらを見つめていた。どれくらいの沈黙が流れただろうか。実際には数秒に満たないはずのその時間が、隆志にはとてつもなく長く感じられた。

「――ごめん、俺、行かなきゃ」
 そして、夏野が顔を上げる。
「良かったら観に来てくれないか、俺達のライブ」
 その顔には、普段通りの――明るさを纏った笑みが在った。

 何も言えないままでいる男を置いて、夏野は「行こう」と走り出す。隆志は慌てて彼の後を追いかけた。
「――夏野さん、あの人知り合い?」
 隣を走りながら小声で問う。「まぁな」と困ったように眉を寄せて笑った後に、夏野は隆志に顔を向けた。

「――春原、ライブ絶対成功させような」

 その表情からは、強い意志が伝わってくる。夏野の言葉に、隆志は胸の奥が熱くなるのを感じた。今起きている全てのことが、きっと最後には上手くいく――そんな気持ちにさせられるくらいに。
 ――この声に、何度救われてきただろう。
「勿論です」
 目の前の救世主は、隆志の返答に、最高の笑顔で応えてくれた。


 ***


 スタジオに到着すると、軽音楽部のメンバー達がアンプやドラムセット、シールドケーブルを外に運び出している。ここまでの道すがら夏野に視聴覚室で起こっている事態については説明を終えたものの、何故こんなことになっているのかは隆志にもわからない。

 すると、亜季が駆け寄ってきた。
「なっちゃん、スネアドラム持ってくれない? 春原くんはギターもあるから、マイクスタンドだけ持って」
「亜季、これ一体どうなってるんだ? 壊れたのはアンプだろ」
 夏野がスネアドラムを持ち上げながら問う。すると、両手にシンバルを持っていた冬島が口を開いた。
「三条の指示だよ」
「三条さんの?」
 その時――放送を知らせるチャイムがスタジオ内に鳴り響く。

『――こんにちは、文化祭実行委員会です。会場変更のお知らせです。五階視聴覚室で公演を行っていた軽音楽部ですが、機材トラブルの為、会場を校庭イベントステージに変更し、十六時ニ十分より公演を再開いたします。繰り返します。会場変更のお知らせです……』

「「――校庭!!?」」
 思いがけない放送内容に、隆志と夏野は思わず声を上げた。


「――まぁ、上手く話がついて良かったよ。機材トラブルじゃあ仕方がないよね」
 三条がステージの下で得意げに笑う。イベントステージの上でドラムセットを組みながら、冬島が話しかけた。
「お前すげぇな。こんな所、普通使えねぇだろ。一体どんな手使ったんだよ」
「あら、冬島くん人聞きが悪い。私達は困った部活に手を差し伸べただけだよ」
 三条の隣に立つ、実行委員の腕章を着けた女子学生が笑う。どこかで見たことがあると思ったら、隆志が夏野とカラオケ大会の告知をした時に司会をしていた上級生だった。

千歳ちとせにはいつも定期テストでお世話になってるしね。困った時はお互い様よ」
「成る程。三条お前めちゃくちゃ頭良いもんな」
「持つべきものは、頭脳と人脈!」
 三条がピースサインをしてみせる。一方、ステージ上でアンプの音出しをする坂本は「顧問より仕事ができるとは……」と複雑な表情をしていた。「何言ってんですか、先生には大事な仕事が残ってるでしょ」と、夏野が明るく笑いながらマイクテストをする。

 演奏者がシールドケーブルに引っ掛からないよう、隆志がガムテープで最低限の養生作業をしていると、「ねぇねぇ」と司会者の上級生が話しかけてきた。
「君達が最後このステージでやるって聞いたから、それもあって許可出したんだ。――学園祭ラスト、盛り上げてね」
 その言葉に、隆志はじわりと心があたたまるのを感じる。直接的な応援の声を聴いたのは、もしかしたら初めてかも知れなかった。こくりと頷くと、彼女は笑顔のまま、ひらひらと手を振って去っていく。

 あらかたセッティングを終えてステージを降りたところで、楽器を持ったペリドットのメンバーと観客達が移動してきた。吉永達にステージを引継ぎ、LAST BULLETSのメンバーと三条はステージの裏手に回る。程なくして、ペリドットのライブが再開された。

「言っておくけど、良いことばかりじゃないよ。校庭のステージは集客しやすい反面、ランキング算入時には実集客数の半分までしかカウントされない。他の部活と不公平になっちゃうからね」
「別に大したことじゃねぇよ。視聴覚室の倍集めりゃ結果変わらねぇだろ」
 冬島がそう言うと、三条が「心配してるこっちがバカみたい」とこぼして――そして、力強い眼差しでこちらを見る。

「あとは頼んだよ。間違いなく君達は、うちの最強バンドなんだから」

 三条が去った後、亜季が衣装のジャケットを運んできた。今回の衣装は全員黒スーツだ。亜季がいる時と違って全員男性なので、衣装の統制が取れている方が格好良いのでは――という彼女のアイデアだった。
「先生、いつもとあまり変わってなくね?」
 冬島が坂本にニヤニヤと絡む。坂本はいつもの仏頂面――ではなく、余裕の表情を見せた。
「まぁ、私が着こなせているということだろう。君達のような子どもと違って」
「あぁ?」と顔を顰める冬島。亜季は「先生何かキャラ変わってる」と吹き出した。本番前とは思えない緊張感のないやり取りに、隆志も小さく笑う。

 その時、空を見上げる夏野から「――春原、あそこ」と声をかけられた。
 夏野の視線の先に目を向けると、そこには――どこかの教室からか、窓を開けてこちらを見下ろす鬼崎きさき達哉とワン小鈴《シャオリン》がいる。

「――遠いですね」
 ぽつりと隆志が呟くと、夏野が頷いた。
「でも、King & Queenと同じステージで演奏するんだぜ、俺達」

 ステージの方から大きな拍手が響いてくる。ペリドットのライブが無事に終わったのだろう。少し巻きで演奏をしたのか――隆志が腕時計を見ると、時刻は十六時三十分になっていた。

 顔を上げると、坂本が、亜季が、冬島が――そして夏野が、こちらを見ている。誰からともなく、五人で手を重ねた。隆志は目を閉じる。六月公演の時とはまた違った想いが、隆志の全身を包んでいた。

 文化祭公演のセットリストは全曲オリジナル曲とする――それが夏野の決めた方針だった。

 いよいよ、この時が来た。俺の作った曲を皆で演奏して、夏野さんが歌う――この時が。


「――LAST BULLETS、いくぞ!」


 夏野さんの掛け声に、全員で声を上げる。
 ――俺は、この日のことを、一生忘れないだろう。
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