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track09. 春は夏と共に歌う-I'm Singing with You-(2)

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 それから、隆志たかしの夢の世界に、謎の影が現れるようになった。
 海の上で立っている隆志に、その影はゆっくりと近付いてくる。影だから、顔はない。年齢も性別もわからないそいつは、いよいよ隆志の目の前までやってきて、小さく笑う。顔がないはずなのに、その瞬間確かに隆志にはそいつの笑う口が見えるのだ。

 ――その正体が誰だか、隆志は薄々気付いていた。

 あの日から、彼のことが忘れられない。
 あれは、隆志の焦がれた声そのもの――いや、それを凌駕すらしていたように思う。
 その歌声を聴いた瞬間、隆志は確信したのだ。

 ――彼こそが、自分の探していたボーカリストなのだと。


 夏野の歌を聴いてから数日間、隆志の記憶は朧気だ。特に何の問題も起こらなかったのだから、恐らく通常通りの生活を送っていたのだろう。しかし、自分が何をしていたのかあまり覚えていない。ふと気付けば、あの歌声、あの笑顔に意識が持って行かれる。
 ぼんやりとそんな日々を過ごした後、隆志は我に返って自分が作ってきた曲を聴き直した。作った当時は会心の出来だと思っていた曲達が、彼の歌声に頭の中で焼き直してみると、何だか色褪せて聴こえてしまう。

 ――この曲では、あのひとの歌声が活かせない。

 隆志は新たな曲作りに没頭した。あの曲が歌えるなら、音域の幅をもっと広げてもいけるはずだ。ギターの練習と並行しながら、彼をイメージした曲作りを進める。

 ――あのひとに、僕の曲を歌ってほしい。

 その願望は隆志の中で日増しに大きくなっていった。目を閉じれば、ホール中に響いた夏野の歌声がよみがえる。夏野の存在は自分の思い描く音楽に必要不可欠だと、今の隆志には確信を持って言える。

 思いの向くままに曲作りを重ね、気付けば季節は秋になっていた。或る程度曲のストックは溜まり――あとは、夏野に歌ってもらうだけとなった。
 ここからが問題だ。そもそも、夏野は隆志のことを知らない。バンドコンテストのホームページから夏野のバンドが所属している中学校までは割り出すことができたが、いきなり他校の生徒である隆志が行って逢えるものなのだろうか。しかし、逢わないことには何も始まらない。
 考えがまとまらずにネットサーフィンをしていると、夏野の中学校のホームページに文化祭の開催案内が掲載されていた。概要を見ると、軽音楽部ライブの文言がある。

 ――これだ。
 NORTHERN BRAVERは必ずライブを行うはずだ。ここに行けば、夏野に逢うことができる。

 隆志はストックした曲の中から特に自信のあるものを二、三曲セレクトし、MDに録音した。ついでとばかりに、NORTHERN BRAVERがバンドコンテストで演奏した曲のギターパートを弾き、それも一緒に録音する。出来上がったMDを眺めながら、隆志は頭の中で文化祭の日の動きをシミュレーションした。
 ――ライブが終わり、ステージから降りて来た夏野がバンドメンバー達と離れて一人になったところを見計らい、声をかける。隆志に気付いた夏野に、先日のバンドコンテストを観たこと、その歌声に感動したことを伝える(夏野の性格はわからないが、自分に好意的な相手を無下にすることはないだろう)。そしてMDを渡し、夏野に歌ってもらう為に作曲したので聴いたら是非連絡をもらいたいと伝える――ここまでできれば上出来だ。
 入念に脳内リハーサルを繰り返し、はやる気持ちを抑えながら、隆志は布団に潜り込む。目を閉じ、暗闇に意識を明け渡そうとしたところで――誰かの声が頭の中で響いた。

『――本当に、そんなに上手くいくのか?』

 隆志はその声を無視した。しかし、声は次々と問いかけてくる。

『そもそも今の状況で、あのひとと何ができる? ろくに学校にも行けていない癖に』

 ――うるさいな。もしかしたら体調が良くなるかも知れない。

『そんなことないって、自分が一番わかってるんだろ。それでもこのまま今の治療を受け続けるのか、快復の可能性に賭けて手術に踏み切るのか――色々理屈を付けて、決断から逃げているだけじゃないか』

 ――違う、僕は逃げていない。いずれ決めるつもりだ。

『そもそもあのひとは独りぼっちのお前とは違う。こっちに見向きもしない可能性だってある。それなのに、現実を見ずに理想を勝手に押し付けて――』

 ――うるさい。

『――話をしたこともない他人にすがるなんて、随分と滑稽じゃないか』

 ――わかってるよ、そんなこと。
 確かに解決すべき問題は山程ある。現実だって見えていないかも知れないし、全て僕の一方的な思い込みでしかない。

 それでも
 ――僕は出逢ってしまったんだ。あの圧倒的な輝きに。
 あの歌声を聴いた瞬間、全てが上手くいくような、そんな未来が見えた気がしたんだ。

「――夢に縋って、何が悪い」

 隆志は一人呟き、思考をシャットアウトした。


 ***


 そして、その週の土曜日、隆志はNORTHERN BRAVERが所属する中学校の文化祭を訪れた。
 今日は朝から体調も悪くない。一つ決まりが悪かったのは、家を出る前に母に行き先を聞かれて、思わず「友達の文化祭に遊びに行く」と答えたことだ。母は嬉しそうに表情を綻ばせて、追加のお小遣いまでくれた。まぁ、夏野と今日友達になれば、嘘にはならないだろう。
 少なくとも、今日夏野に逢うことで何かが前に進むような――そんな不思議な確信が隆志の中にはあった。

 受付で受け取ったパンフレットを手に、軽音楽部がライブを行う中庭に向かう。タイムスケジュールを見ると、NORTHERN BRAVERはトップバッターだった。最上級生のバンドがトリではなくオープニングなのか。隆志は少し意外に感じたが、まぁそういうものなのかも知れないと自分の中の違和感を掻き消した。
 中庭に到着すると、もう座席の多くが埋まっている。さすが、人気のあるバンドなのだろう。隆志は一番後ろの端の席に座った。ここからでも十分ステージは見える。こんな気持ちはいつ振りだろうか――期待感に胸を膨らませながら、隆志は開演を待った。いつもは自分とは別世界のように感じる周囲の喧騒や楽しそうな笑い声が、今日は微笑ましくさえ思える。自分の心持ちがこんなにも変わることに、隆志は内心驚き――小さく笑った。
 一度も話したことがないはずなのに、夏野の持つ輝きは、確実に隆志を変えている。隆志は上着のポケットの中のMDにそっと手を添えた。

 ――あっという間に開演時間を迎える。ステージ上にNORTHERN BRAVERの面々が姿を現した。観客達が拍手を送る中、最後に夏野がステージに姿を見せる。隆志も目立たないように手を叩いた。
 今日はどんなセットリストなのだろうか。この前の選曲からすると、きっと夏野はロックが好きなのだろう。もし仲良くなれたなら、音楽談義も色々としてみたいものだ――そんなことを考えている内に、ドラマーがリズムを刻み、演奏が始まった。
 ステージから流れて来たのは、今年デビューした新人アーティストの曲だ。現役高校生がリーダーを務める男女二名のJ-POPユニットで、その話題性と楽曲のポップさが受け、世間ではかなり流行っていたように思う。隆志も勿論知っている曲だが、NORTHERN BRAVERが選ぶ曲としては少し意外に感じた。

 ――その時、ステージ上の夏野が、上手かみてに立つギタリストに顔を向ける。
 その表情は、あのバンドコンテストで見せた笑顔とはまるで違っていて――隆志の目には、驚きの色に染まっているように見えた。
 しかし、ギタリストはそんな夏野に気付く素振りも見せず、淡々と演奏を続けている。

 そしてイントロが終わった瞬間、それは起こった。

 ――夏野の口から、歌詞が出てこない。また、歌うメロディーは、原曲とは大きく異なるものだった。
 周囲の観客が、戸惑った様子で顔を見合わせる。隆志にも状況が把握できない。しかし、夏野以外のステージに立つメンバーは、堂々と演奏をしている。どう見ても、ステージ上で取り残されているのは、ボーカルの夏野ただ一人だ。

 ――明らかに、おかしい。

 隆志はステージ上の夏野を凝視した。夏野の歌はあの一度しか聴いたことはないが、あれだけの歌が歌える人間の犯すミスとは到底思えない――いや、ミスなのか? これは。
 周囲のメンバーの演奏は、決してレベルは高くないが安定している。夏野の歌だけが浮いていた。懸命に歌おうとする夏野の姿に――隆志は自分がその立場に立たされているような錯覚を覚え、息を呑む。

 まさか――はめられた?

 それ以外考えられない。しかし、何故そんなことが起こったのか――様子を見る限り、夏野にとっても青天の霹靂であったろう。当然、隆志にわかるはずもない。ただ隆志が理解できたのは、自分の目の前で、大きな悪意が彼の光を飲み込もうとしているという事実だった。

 ――何故?

 ステージ上の夏野が痛々しくて、隆志は思わず目を背ける。

 ――何故、あなたがこんな目に遭わなければならない?
 あんなにもあの日、ステージで輝いていた――圧倒的な実力を持つ、あなたが。

 隆志は、まるで自分の尊厳が踏みにじられているような、そんな感覚に陥った。視線を向けずとも、その不気味な演奏はひたすらに垂れ流されている。
 耐えきれず、耳を塞ごうとしたその時――隆志の耳を、夏野の歌声が切り裂いた。
 その歌は、原曲のメロディーとは異なっている。しかし――それは確かに、メロディーとして成立していた。伴奏と調和の取れた存在として、夏野の歌声は新しいメロディーを作り出している。

 ――まさか。

 隆志は一つの可能性に思い当たった。
 夏野の歌には、未だに歌詞がない。一番の段階では、この曲のメロディーすら知らなかったように思えた。それなのに、今歌っているということは――先程聴いた一番の伴奏をベースに、即座にメロディーを作ったということだ。
 周囲の観客はそれに気付いていないのだろう。確かに夏野の歌は、原曲とは全く違うメロディーを刻んでいるのだから。彼らの中では、変わらず夏野は歌を忘れたボーカリストでしかない。

 誰もわかっていないのか。このひとが、どれだけ凄まじい存在なのか。

 隆志はステージに視線を戻し、そして――目を見開く。

 ステージ上で理不尽な音の暴力に晒されているはずの夏野は――笑顔で歌っていた。

 一曲目が終わり、二曲目が始まる。またもやJ-POPの別アーティストの曲だ。夏野は当然のように歌詞もなく歌い始める。一番は様子を伺いながら、二番は先程とはまた違う旋律を堂々と。そして新しいメロディーをその場で生み出し続ける。

 ――彼は一体、どんな気持ちであの場に立っているのだろう。
 本当は逃げ出してしまいたいに決まっている。大勢の観客の前で、自分の本来の力も出しきれず、仲間であるはずのメンバー達から裏切られ、追い詰められているのだ。
 それでも――夏野は、諦めずにその場に立っている。自身に向けられた悪意も、哀れみも、全てを自分の力で跳ね返すかのように。

 ――隆志は、そんな夏野の姿を、ただ、とても綺麗だと思った。


 およそ一時間にわたるライブが終わった。夏野が深く頭を下げると、観客席からは様々な声が上がる。夏野は無言で頭を上げ、一人でさっさとステージを降りていく。後には楽器を持ったメンバー達が残されていたが、隆志はそれらに見向きもせずに、夏野を追った。
 ステージを降りた夏野は中庭を出てどんどん人気ひとけのない方へと進んでいく。その先に見えてきた倉庫のような建物に夏野は一人で入って行った。距離を取りながら後を追っていた隆志は、夏野の姿が中に消えたのを確認し、扉の外から中の様子を伺う。

 その時――中から、夏野の歌声が聴こえてきた。
 それは、最近日本でも話題になっているアメリカのロックバンドの曲だった。メロディアスでありながらハードな楽曲が特徴的で、ギターの演奏もテクニカルなので隆志も幾度となく練習していた。特に、夏野が歌うその曲――『Bite the Bullet』は、その前向きな歌詞もあいまって、隆志のお気に入りの曲でもあった。
 しかし、最初こそ堂々と歌い上げられていたその曲は、次第に勢いを失い、そして――最初のサビが終わったところで、消え入るようにその姿を消す。そのまま暫く無音の状態が続いた。不安になった隆志は、そっと中を覗く。

 そこには――うずくまった夏野の小さな背中が、ぽつんと寂しげに在った。

 彼の肩が震えていることに気付き、隆志は慌てて視線を外す。
 その姿を盗み見てしまうことは、ステージ上で最後まで戦い抜いた彼への冒涜に思えた。
 隆志はそのまま、気配を気取られないように倉庫から離れる。上着のポケットに手を入れたところで、MDがその存在を必死に主張した。しかし、隆志はそれに応えることをしなかった。

 ――今の僕では、彼の隣に立つことはできない。

 学園祭から帰宅する道中、隆志は静かに決意する。
 その日の夏野の姿は、隆志の心の中に強く焼き付き――そして、二度と消えることはなかった。


 ***


「――隆志、本気なのか?」
 夜、出張から帰ってきた父と、夕食の片付けを終えた母に、隆志は手術を受ける旨を伝えた。隆志の決意を聞いた二人は安心した様子だったが――その後の隆志の話に、随分と驚いた様子を見せた。
「確かに、手術を受けるには準備期間もあるし、二ヶ月は入院する見込みだと先生からも聞いている。でも何も、留年しなくたって、隆志の今の成績ならそこそこの高校には行けるはずだ。出席日数は十分ではないけれど、中学校はそれでも卒業できる。今後のことを考えると、今進学を諦める必要はないと思うよ」
 父が隆志を諭すように言葉を紡ぐ。

「進学を諦めるんじゃないよ。行きたい高校に行く為に、一年間きちんと準備したいんだ」
 そこまで言ってちらりと母の様子を伺うが、彼女は心配そうな表情のまま、隆志の言葉を待っている。隆志は口を開いた。
「――父さんの言うことはわかるよ。そもそも、僕が手術を受けるかどうかなかなか決められなかったから、受験に影響してしまったわけだし」
「いや、それを責めるつもりはない。手術を受けるというのは大変なことだ。迷うのは当然のことだよ」
 優しい父に反論するのを心苦しく思いながら、隆志は続ける。

「――だけど、どうしてもやりたいことができたんだ。その為には、準備しなければならないことが沢山ある。手術を受けて、少しでも体調を良くしたい。ギターをもっと練習して、上手くなりたい。勉強だって、本当はちゃんと授業に出て、平均点ギリギリじゃなくきちんとした成績を取りたい」

 そこで言葉を切って、隆志は両親の様子を伺った。彼らは真剣な眼差しでこちらを見ている。それを確認して、再度隆志は言葉を繋いだ。

「これまで、僕は僕だけが不公平で理不尽な目に遭わされていると思っていた。だから多少上手くいかないことがあっても、仕方がないと諦めていたんだ。でも、そうじゃない。自分自身が勇気を持って戦わなければ、絶対に運命は変わらないんだって、ようやくわかったんだ。だから――そんな自分からきちんと生まれ変わる為の猶予が欲しい」

 隆志の熱の籠った言葉に、父が口を噤む。三人の間に沈黙が流れた。
「――隆志も、大きくなったね」
 ぽつりと母が呟く。父と隆志の視線を受けて、母が顔を上げた。
「隆志がそこまで考えて決めたんなら、そうしましょう。私は応援するから」


 ***


 ――今日、僕は生まれ変わる。

 そう心の中で呟いて、隆志は顔を上げた。
 先月末中学を卒業するまで、その視界せかいは四角い硝子を通したものでしかなかった。コンタクトレンズに替えるだけでこんなにも目に映る景色が変わるとは、新鮮な驚きだ。
 元々目付きの良い方ではないという自覚はあったが、フィルターを通さない眼差しはよりきつく見えるのか、それとも染めたての明るい髪色が気に入らないのか――隣に座っている同級生の男子が、小さく舌打ちをして顔を背ける。彼の耳に付いているピアスが揺れた。
 ありがちな高校デビューだと、自分でも思う。だが、それでいい。
 何故なら、僕――いや、『俺』は生まれ変わるのだから。

 おもむろにドアが開いて、何人かの上級生が入ってくる。ドアが閉まったところで、先頭の眼鏡をかけた女性が口を開いた。
「仮入部の皆さん、軽音楽部にようこそ。私は部長の三条さんじょうといいます、よろしく。あっ、皆さんのお目当ての鬼崎きさきね。今ちょっと遅れてるけど、後で来るから」
 三条の言葉に周囲の一年生がざわめく。しかし、隆志は特に興味がなかった。鬼崎達哉の存在は勿論知っているが、隆志が逢いたいのは鬼崎ではない。
「それじゃあ一人ずつ、希望のパートを言っていってね。その後スタジオに移動して、経験者の人には演奏を軽く披露してもらいます。じゃあ、端っこの君から。希望パートはどこかな」
 三条が隆志を見る。隆志は立ち上がり、口を開いた。

「ギターです」
「ギターね。中学ではバンドとかやってた?」
「やっていません」
「じゃあ、初心者だね」
「初心者じゃないです」
 三条が笑顔を崩さずに、目を細める。
「人前で演奏は?」
「したことありません」
 それ初心者だろ、と隣の男子が小さく呟いた。室内に変な緊張感が生まれる。まぁまぁ、と三条が取りなし、こちらにウインクをした。
「自信があるのは大いに結構、大歓迎だよ。この後の演奏楽しみにしているね」
 そして、座ろうとした隆志を慌てて制止する。
「ごめんごめん、名前訊くの忘れてた。君、名前は?」
 隆志はもう一度三条に向き直り、口を開いた。

「――春原はるはら隆志です。俺は、夏野さんとバンドをやりたくて、ここに来ました。ギターのテクニックは誰にも負けませんので、よろしくお願いします」
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