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track09. 春は夏と共に歌う-I'm Singing with You-(1)
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――夜の底に落ちたその少年は
ただひとり、光を探していた
track09.
そこにはただ、海が在った。
眠りに落ちる度、僕は何度でもこの世界にやってくる。海に足を浸けたまま空を見上げると、そこには同様に一面の青色が広がっていた。
いつだってこの世界は僕を優しく受け容れてくれる。
――ここにいることにも、慣れた。
僕はひとり、深呼吸をする。世界は何も変わらず、波音だけが僕の耳を震わせた。目を閉じると、僕の頭を一縷の考えが過ぎる。
――いつかは現れるのだろうか。
僕を他の世界と繋げてくれる存在が。
目を開くと、そこには何も変わらない景色が広がっていた。
ただひたすらに、僕は待つ。
ひとりぼっちの世界で、来るとも知れぬ待ち人を待ちながら。
***
「――隆志?」
意識の扉が抉じ開けられる。隆志はゆっくりと目を開いた。視界には、心配そうに表情を曇らせる見慣れた母の顔があった。
――また眠ってしまっていたようだ。
隆志はベッドから身体を起こす。手元のカセットテープを見ると、既にB面の最後で止まっていた。イヤホンを外してポーチに入れている間に、母が処置室の端に置かれていたランドセルを持ってくる。渡されたランドセルを背負い、隆志は母と共に病院を出た。
――こうなった切っ掛けはよく覚えていない。日々の生活を送る中で、何だか疲れやすいように感じたのが最初だった。数年前より随分暑くなった夏のせいだろうと高を括っていたところ、体育の授業中に倒れてしまった。それから色々なことがあって、現在隆志は週の半分以上病院に通い、数時間ベッドで過ごす生活を余儀なくされている。
医者からは何度か説明を受けたが、隆志にはよく理解できなかった。いや――理解したくなかった、という方が正しいだろう。学校の成績は上から数えた方が早い隆志にとって、自身の身体に起きた変調が生易しいものでないことは、薄々わかっていた。
母は仕事の合間を縫って、夕方病院まで隆志を迎えに来る。息子の隆志からも、母は忙しく――しかし活き活きと働いているように見えていた。それが、自分が体調を崩してからは、随分と仕事をセーブしているように隆志には思える。
当初、母は隆志の病院への送り迎えをどちらもやると言って聞かなかった。父は仕事で帰りが遅い上に出張も多く、隆志の面倒を日々見るのはどうしても母が主体となるからだ。しかし、隆志を病院に送っていくとなると、母は昼過ぎには仕事を切り上げなければならなくなる。隆志は少しでも母の負担を減らす為、授業終わりの通院は一人で大丈夫だと彼女を説得した。
今日も帰りの会が終わった後、隆志は小学校から近くのバス停まで歩き、そこからバスで病院までやってきた。ほぼ指定席となっている後方の席に座ると、隆志はランドセルの奥に隠していたポーチを取り出す。ポーチを開くと、ポータブルカセットテーププレイヤーのお目見えだ。
このプレイヤーは、遠方に住んでいる祖父がプレゼントしてくれたものだ。隆志がこのような生活を送るようになってから、通院にかかる待ち時間はさぞ退屈だろうと、長期休みで東京に来た際にプレゼントしてくれた。祖母はカセットテープなど古いと祖父に文句を言ったが、隆志はとても喜んだ。そのお蔭で、憂鬱で堪らなかった病院通いに、少し楽しみができた。
父が買ったり借りたりしたCDをカセットテープにダビングしてくれるので、隆志はいつも家から二、三本めぼしいカセットテープを持ち出していた。その中でも隆志が気に入って聴いたのは、隆志が生まれる前に発売されたハードロックバンドのものだった。
それまで、隆志は音楽の主役は歌だと思っていた。歌番組でも大抵歌手がメインでTVに映され、それ以外のメンバーは伴奏者のような扱いだ。隆志はカラオケに行ったことはないが、あれだって皆歌を歌いたくて行くものなのだろう。
しかし、隆志が出逢ったそのカセットテープからは、驚く程強くその存在を主張するギター音が鳴り響いていた。そもそもギタリストの名前が冠されているバンドがあるというのも衝撃だった。驚きはいつしか憧憬に変わり、気付けば隆志はギターの虜となっていた。何度も何度も繰り返し聴く内に、いつか自分もギターを弾けるようになりたいと思った。
中学校に上がっても、病院に通うペースは変わらない。
隆志は休み時間、いつも一人で音楽を聴いて過ごしていた。激しい運動ができないので、小学校が同じだった友人達とも遊ばなくなった。学校を休みがちでクラスに溶け込もうともしない隆志を、クラスメートは腫れ物のように扱っていたが、隆志は一人で過ごすことが苦ではないので特に気にならなかった。
相棒は中学の入学祝いに祖父がプレゼントしてくれたポータブルMDプレイヤーだ。「今度は最新型だぞ!」と胸を張る祖父に、はいはいと祖母が苦笑いで応える。確かによく説明書を読んでみると、再生だけではなく録音や編集もこれ一つでできるらしい。隆志はCDのダビングだけではなく、次第に自分で考えたメロディーを吹き込んだり、それを繋ぎ合わせて曲を作ったりするようになった。治療を受けている時間も、作業をしていれば苦ではない。中学に上がってから母の迎えを断った隆志は、病院からの帰り道、自分で作った曲を聴きながら帰るようになった。
家に帰ると、自分の部屋に籠ってその曲を歌ってみる。録音したものを聴き直すと、何だか居心地が悪い。自分の声が嫌いなわけではないが、隆志の思い描いた歌声とは少しギャップがある。まぁいつか自分に合ったボーカリストを探せば良いだろう。僕はギタリストになるのだから。密かにそう願うことは、隆志にとって日々を生きる原動力となっていた。
中学二年生を迎えた或る日、父がエレキギターを担いで帰宅した。会社の近くの楽器店で買ってきたらしい。話を聞いてみると、どうやら父も学生の頃、ギタリストに憧れてギターを買ったらしいが、結局まともに弾けずにそのまま友達に売ってしまったとのことだった。
「隆志は僕と違って、努力家だからね」
父は隆志にエレキギターを笑顔で渡しながら言った。
「体調と相談しながらになるけれど、やりたいことをやってみたら良い。お父さん達は応援しているから」
それから、隆志は自宅にいる時はギターの練習にひたすら打ち込んだ。世のギタリスト達は簡単そうに音を紡いでいるが、実際にやってみるととても同じように弾ける気がしない。弦は固く、それを押さえる指先はあっという間に赤く腫れる。それでも隆志は痛みに耐えながら練習を続けた。コードをスムーズに押さえられるようになってからは、様々な曲を片っ端からカバーし、ソロの練習も始めた。いつの間にか指先の皮は固く厚く、ギタリストらしい手になっていった。
しかし、ギターが上手くなっていく一方で、隆志の体調は思わしくなくなっていった。治療は続けているものの、改善の兆しは見えず、最近は学校も以前にも増して休みがちになっている。自分は一体どうなるのか――何もしないと不安に押し潰されてしまいそうになる。茫漠とした闇から逃れるように、隆志は体調が悪い中でも、手が動く限りギターの練習に没頭した。
――そして、隆志はもう中学三年生になっていた。
「――手術か」
その日は寝付きが悪く、なかなか眠れなかった。その時、リビングの方から両親の声が聞こえてきた。
「えぇ。もう隆志の身体も大きくなってきたし、先生からもそろそろ考えてみても良いんじゃないかって」
母のか細い声が聞こえる。
「勿論隆志の意思を確認してからだけど、最近体調も以前より良くなくて――できるなら早くした方が良いと思うのよ」
『手術』――その単語は、隆志にとって現実味のないものだった。勿論、その手段が存在することはわかっていた。しかし、いざ自分の前にその選択肢が提示されると、様々な不安が胸の奥から噴出した。失敗したらどうなるのか。そもそも成功しても数年後に容体が急変するケースもあるらしい。一方で体調はここ数年で確実に悪化しており、このままでは快復の見込みもない――。
隆志は思わず枕元のMDプレイヤーを引っ掴んで、布団を被って中に潜り込んだ。覚束ない手でイヤホンを耳に挿し、曲を大音量で鳴らす。激しいロックに身を委ねながらも、脳裏には何故かクラスメート達の顔が浮かんでいた。
大して話したこともないクラスメート達。彼らは隆志がいてもいなくても、ただ平和な日常を送っている。普通に授業に出て、普通に部活をして、普通に遊んで――それを何不自由なくできるのだ。隆志が治療を受けながら、手術に怯えながら生きているにも関わらず。
――何故、僕だけ?
耳元では、自殺したミュージシャンが何度も何度も拒絶の言葉を叫んでいた。
***
その日、隆志は両親と病院に赴き、手術の説明を受けた。
「――考えさせて下さい」
そう答えた隆志に医者は頷き、両親は困ったような優しい笑顔をこちらに向ける。頭の中では、手術をした方が良いとはわかっていた。しかし、万が一のことを考えると、隆志はなかなか決断できなかった。今のままの生活も辛いが、もし何かあって二度とギターが弾けない身体になったら――それだけは耐えられない。
覚悟をする為の時間が欲しい。そう隆志は思った。
病院からの帰り道、両親の後ろを無言で歩いていた隆志の目に――ふと壁に貼られた派手な色のポスターが目に入った。何の気なしに視線を向けると、『学生バンドコンテスト』と書いてある。すぐ近くのホールで開催されているようだった。
「隆志、どうしたの?」
両親が戻ってくる。二人も隆志の前のポスターを読み始めた。
「へぇ、学生バンドのコンテストなんてやってるんだね。高校生だけじゃなくて中学生も出るんだ。入場無料だってさ」
「……別に。学生バンドなんて、大したことないんじゃない」
自分の興味を悟られるのが少し気恥ずかしくて、隆志は気のない素振りをする。そんな彼を見て、母がおもむろに言った。
「――ねぇ隆志、折角だし、観に行ってみない?」
そして、隆志と両親はコンテストの会場にいた。既にパフォーマンスは始まっており、何組かは終わったらしい。入口で渡されたパンフレットを捲りながら、三人は後方の席で演奏を聴いていた。
あまり音楽に詳しくない両親は「学生なのに上手」と褒めそやすが、隆志からすると大した腕前とは思えない。同年代の演奏を初めて聴いたが、正直自分の方が余程上手い。一方的に期待を裏切られたような思いを抱え、隆志は仏頂面で座っていた。
――ここにいる奴らは、何不自由なく音楽をやっていてこのレベルなんだ。
実際には彼らも色々なものを背負っているだろう。それでも、隆志はそうとでも思わなければいられなかった。自分の置かれた境遇に対するやり場のない憤りが、隆志の心の中に渦巻いていた。
だから、初めて『彼』を見た時にも――隆志は何とも思わなかった。
「こんにちは、『NORTHERN BRAVER』です。よろしくお願いします!」
そのボーカリストは少し小柄で、中性的な顔立ちをしていた。同じ中学の同級生同士で組んだバンドだという。ボーカルの彼を除く三人のメンバーは、少し緊張した面持ちでステージに立っていた。
「へぇ、隆志と同い年だね」
隣に座った父が話しかけてくる。元気にはきはきと受け答えをする彼を、隆志は無感情に見つめていた。どうせ大したことはないだろう。
NORTHERN BRAVERの面々がそれぞれの立ち位置につき、ギターのリフから演奏が始まった。その印象的なリフは、隆志にも聴き覚えがある。往年の有名ロックバンドの代表曲だ。隆志も何回も練習した。しかし、テンポが原曲よりだいぶ速い。緊張で随分と走ってしまっているようだ。あのテンポだからこそ良いのに――曲の良さが台無しだと、隆志は溜め息を吐く。
しかし、イントロが終わってボーカルが歌い始めた瞬間――隆志はステージ上の彼に釘付けになった。
その喉から放たれた歌声は、先程の中学生男子の声と同じものとは思えなかった。強く存在感を持ったその歌声は、高いキーをものともせずに柔らかく伸びていく。歌のペースに巻き込まれるように、走り気味だった楽器陣のテンポが落ち着いた。ボーカルの彼はその変化を心地良く感じたのか、メンバー達に軽く笑顔を見せる。その歌いながら見せた表情には何とも言い表せない色気があり、隆志は言葉を失った。
そのまま彼は自由に歌い続けた。原曲とは異なったフェイクが入るが、聴いていて嫌味に感じない。高音部分であっても安定した声が確実に音を刻んでいく。彼は完璧にその曲を自分のものとして歌いこなしていた。
間奏のギターソロが始まる。イントロで走ってしまっていたギターだが、この頃にはだいぶ落ち着きを取り戻していて、難しいソロを懸命に再現していた。さすがに完璧とはいかないが、当初の隆志の想定よりも『弾ける』ギタリストだったらしい。
しかし、それもボーカルの彼の前では霞んでしまう。この曲最後のCメロはボーカルが歌い上げる見せ場だが、彼の歌はより一層凄まじかった。低音から始まった歌は一気に高音に飛び、そのままメロディーをなぞりながら変幻自在に跳ね回る。そして、他の楽器に負けない強さでホール内に響き渡った後、エンディングを迎えた。
曲が終わって少し間が空いた後、会場中を大きな拍手が包み込む。呆気に取られていた隆志も慌てて我に返り、手を叩いた。
「あの子すごいなぁ!」
「本当、プロみたい! 何ていうバンドだっけ?」
興奮して騒ぎながら、母がパンフレットを捲る。目当てのページを見付けたらしく、彼女の手が止まった。
「あ、これね。NORTHERN BRAVER――」
隆志は思わず彼女の手元を覗き込む。そこには、メンバー達の名前が書かれていた。
『Gt. Tasuku / Vo. Natsuno / ……』
「ねぇ隆志、この『Vo.』がボーカルのこと? Natsuno……夏野くんっていうのかな」
母が自分に話しかけている声をどこか遠くのもののように感じながら、隆志はその名前を目に焼き付ける。
その日、彼――夏野の歌声は、隆志の心に消えない色を残した。
ただひとり、光を探していた
track09.
そこにはただ、海が在った。
眠りに落ちる度、僕は何度でもこの世界にやってくる。海に足を浸けたまま空を見上げると、そこには同様に一面の青色が広がっていた。
いつだってこの世界は僕を優しく受け容れてくれる。
――ここにいることにも、慣れた。
僕はひとり、深呼吸をする。世界は何も変わらず、波音だけが僕の耳を震わせた。目を閉じると、僕の頭を一縷の考えが過ぎる。
――いつかは現れるのだろうか。
僕を他の世界と繋げてくれる存在が。
目を開くと、そこには何も変わらない景色が広がっていた。
ただひたすらに、僕は待つ。
ひとりぼっちの世界で、来るとも知れぬ待ち人を待ちながら。
***
「――隆志?」
意識の扉が抉じ開けられる。隆志はゆっくりと目を開いた。視界には、心配そうに表情を曇らせる見慣れた母の顔があった。
――また眠ってしまっていたようだ。
隆志はベッドから身体を起こす。手元のカセットテープを見ると、既にB面の最後で止まっていた。イヤホンを外してポーチに入れている間に、母が処置室の端に置かれていたランドセルを持ってくる。渡されたランドセルを背負い、隆志は母と共に病院を出た。
――こうなった切っ掛けはよく覚えていない。日々の生活を送る中で、何だか疲れやすいように感じたのが最初だった。数年前より随分暑くなった夏のせいだろうと高を括っていたところ、体育の授業中に倒れてしまった。それから色々なことがあって、現在隆志は週の半分以上病院に通い、数時間ベッドで過ごす生活を余儀なくされている。
医者からは何度か説明を受けたが、隆志にはよく理解できなかった。いや――理解したくなかった、という方が正しいだろう。学校の成績は上から数えた方が早い隆志にとって、自身の身体に起きた変調が生易しいものでないことは、薄々わかっていた。
母は仕事の合間を縫って、夕方病院まで隆志を迎えに来る。息子の隆志からも、母は忙しく――しかし活き活きと働いているように見えていた。それが、自分が体調を崩してからは、随分と仕事をセーブしているように隆志には思える。
当初、母は隆志の病院への送り迎えをどちらもやると言って聞かなかった。父は仕事で帰りが遅い上に出張も多く、隆志の面倒を日々見るのはどうしても母が主体となるからだ。しかし、隆志を病院に送っていくとなると、母は昼過ぎには仕事を切り上げなければならなくなる。隆志は少しでも母の負担を減らす為、授業終わりの通院は一人で大丈夫だと彼女を説得した。
今日も帰りの会が終わった後、隆志は小学校から近くのバス停まで歩き、そこからバスで病院までやってきた。ほぼ指定席となっている後方の席に座ると、隆志はランドセルの奥に隠していたポーチを取り出す。ポーチを開くと、ポータブルカセットテーププレイヤーのお目見えだ。
このプレイヤーは、遠方に住んでいる祖父がプレゼントしてくれたものだ。隆志がこのような生活を送るようになってから、通院にかかる待ち時間はさぞ退屈だろうと、長期休みで東京に来た際にプレゼントしてくれた。祖母はカセットテープなど古いと祖父に文句を言ったが、隆志はとても喜んだ。そのお蔭で、憂鬱で堪らなかった病院通いに、少し楽しみができた。
父が買ったり借りたりしたCDをカセットテープにダビングしてくれるので、隆志はいつも家から二、三本めぼしいカセットテープを持ち出していた。その中でも隆志が気に入って聴いたのは、隆志が生まれる前に発売されたハードロックバンドのものだった。
それまで、隆志は音楽の主役は歌だと思っていた。歌番組でも大抵歌手がメインでTVに映され、それ以外のメンバーは伴奏者のような扱いだ。隆志はカラオケに行ったことはないが、あれだって皆歌を歌いたくて行くものなのだろう。
しかし、隆志が出逢ったそのカセットテープからは、驚く程強くその存在を主張するギター音が鳴り響いていた。そもそもギタリストの名前が冠されているバンドがあるというのも衝撃だった。驚きはいつしか憧憬に変わり、気付けば隆志はギターの虜となっていた。何度も何度も繰り返し聴く内に、いつか自分もギターを弾けるようになりたいと思った。
中学校に上がっても、病院に通うペースは変わらない。
隆志は休み時間、いつも一人で音楽を聴いて過ごしていた。激しい運動ができないので、小学校が同じだった友人達とも遊ばなくなった。学校を休みがちでクラスに溶け込もうともしない隆志を、クラスメートは腫れ物のように扱っていたが、隆志は一人で過ごすことが苦ではないので特に気にならなかった。
相棒は中学の入学祝いに祖父がプレゼントしてくれたポータブルMDプレイヤーだ。「今度は最新型だぞ!」と胸を張る祖父に、はいはいと祖母が苦笑いで応える。確かによく説明書を読んでみると、再生だけではなく録音や編集もこれ一つでできるらしい。隆志はCDのダビングだけではなく、次第に自分で考えたメロディーを吹き込んだり、それを繋ぎ合わせて曲を作ったりするようになった。治療を受けている時間も、作業をしていれば苦ではない。中学に上がってから母の迎えを断った隆志は、病院からの帰り道、自分で作った曲を聴きながら帰るようになった。
家に帰ると、自分の部屋に籠ってその曲を歌ってみる。録音したものを聴き直すと、何だか居心地が悪い。自分の声が嫌いなわけではないが、隆志の思い描いた歌声とは少しギャップがある。まぁいつか自分に合ったボーカリストを探せば良いだろう。僕はギタリストになるのだから。密かにそう願うことは、隆志にとって日々を生きる原動力となっていた。
中学二年生を迎えた或る日、父がエレキギターを担いで帰宅した。会社の近くの楽器店で買ってきたらしい。話を聞いてみると、どうやら父も学生の頃、ギタリストに憧れてギターを買ったらしいが、結局まともに弾けずにそのまま友達に売ってしまったとのことだった。
「隆志は僕と違って、努力家だからね」
父は隆志にエレキギターを笑顔で渡しながら言った。
「体調と相談しながらになるけれど、やりたいことをやってみたら良い。お父さん達は応援しているから」
それから、隆志は自宅にいる時はギターの練習にひたすら打ち込んだ。世のギタリスト達は簡単そうに音を紡いでいるが、実際にやってみるととても同じように弾ける気がしない。弦は固く、それを押さえる指先はあっという間に赤く腫れる。それでも隆志は痛みに耐えながら練習を続けた。コードをスムーズに押さえられるようになってからは、様々な曲を片っ端からカバーし、ソロの練習も始めた。いつの間にか指先の皮は固く厚く、ギタリストらしい手になっていった。
しかし、ギターが上手くなっていく一方で、隆志の体調は思わしくなくなっていった。治療は続けているものの、改善の兆しは見えず、最近は学校も以前にも増して休みがちになっている。自分は一体どうなるのか――何もしないと不安に押し潰されてしまいそうになる。茫漠とした闇から逃れるように、隆志は体調が悪い中でも、手が動く限りギターの練習に没頭した。
――そして、隆志はもう中学三年生になっていた。
「――手術か」
その日は寝付きが悪く、なかなか眠れなかった。その時、リビングの方から両親の声が聞こえてきた。
「えぇ。もう隆志の身体も大きくなってきたし、先生からもそろそろ考えてみても良いんじゃないかって」
母のか細い声が聞こえる。
「勿論隆志の意思を確認してからだけど、最近体調も以前より良くなくて――できるなら早くした方が良いと思うのよ」
『手術』――その単語は、隆志にとって現実味のないものだった。勿論、その手段が存在することはわかっていた。しかし、いざ自分の前にその選択肢が提示されると、様々な不安が胸の奥から噴出した。失敗したらどうなるのか。そもそも成功しても数年後に容体が急変するケースもあるらしい。一方で体調はここ数年で確実に悪化しており、このままでは快復の見込みもない――。
隆志は思わず枕元のMDプレイヤーを引っ掴んで、布団を被って中に潜り込んだ。覚束ない手でイヤホンを耳に挿し、曲を大音量で鳴らす。激しいロックに身を委ねながらも、脳裏には何故かクラスメート達の顔が浮かんでいた。
大して話したこともないクラスメート達。彼らは隆志がいてもいなくても、ただ平和な日常を送っている。普通に授業に出て、普通に部活をして、普通に遊んで――それを何不自由なくできるのだ。隆志が治療を受けながら、手術に怯えながら生きているにも関わらず。
――何故、僕だけ?
耳元では、自殺したミュージシャンが何度も何度も拒絶の言葉を叫んでいた。
***
その日、隆志は両親と病院に赴き、手術の説明を受けた。
「――考えさせて下さい」
そう答えた隆志に医者は頷き、両親は困ったような優しい笑顔をこちらに向ける。頭の中では、手術をした方が良いとはわかっていた。しかし、万が一のことを考えると、隆志はなかなか決断できなかった。今のままの生活も辛いが、もし何かあって二度とギターが弾けない身体になったら――それだけは耐えられない。
覚悟をする為の時間が欲しい。そう隆志は思った。
病院からの帰り道、両親の後ろを無言で歩いていた隆志の目に――ふと壁に貼られた派手な色のポスターが目に入った。何の気なしに視線を向けると、『学生バンドコンテスト』と書いてある。すぐ近くのホールで開催されているようだった。
「隆志、どうしたの?」
両親が戻ってくる。二人も隆志の前のポスターを読み始めた。
「へぇ、学生バンドのコンテストなんてやってるんだね。高校生だけじゃなくて中学生も出るんだ。入場無料だってさ」
「……別に。学生バンドなんて、大したことないんじゃない」
自分の興味を悟られるのが少し気恥ずかしくて、隆志は気のない素振りをする。そんな彼を見て、母がおもむろに言った。
「――ねぇ隆志、折角だし、観に行ってみない?」
そして、隆志と両親はコンテストの会場にいた。既にパフォーマンスは始まっており、何組かは終わったらしい。入口で渡されたパンフレットを捲りながら、三人は後方の席で演奏を聴いていた。
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――ここにいる奴らは、何不自由なく音楽をやっていてこのレベルなんだ。
実際には彼らも色々なものを背負っているだろう。それでも、隆志はそうとでも思わなければいられなかった。自分の置かれた境遇に対するやり場のない憤りが、隆志の心の中に渦巻いていた。
だから、初めて『彼』を見た時にも――隆志は何とも思わなかった。
「こんにちは、『NORTHERN BRAVER』です。よろしくお願いします!」
そのボーカリストは少し小柄で、中性的な顔立ちをしていた。同じ中学の同級生同士で組んだバンドだという。ボーカルの彼を除く三人のメンバーは、少し緊張した面持ちでステージに立っていた。
「へぇ、隆志と同い年だね」
隣に座った父が話しかけてくる。元気にはきはきと受け答えをする彼を、隆志は無感情に見つめていた。どうせ大したことはないだろう。
NORTHERN BRAVERの面々がそれぞれの立ち位置につき、ギターのリフから演奏が始まった。その印象的なリフは、隆志にも聴き覚えがある。往年の有名ロックバンドの代表曲だ。隆志も何回も練習した。しかし、テンポが原曲よりだいぶ速い。緊張で随分と走ってしまっているようだ。あのテンポだからこそ良いのに――曲の良さが台無しだと、隆志は溜め息を吐く。
しかし、イントロが終わってボーカルが歌い始めた瞬間――隆志はステージ上の彼に釘付けになった。
その喉から放たれた歌声は、先程の中学生男子の声と同じものとは思えなかった。強く存在感を持ったその歌声は、高いキーをものともせずに柔らかく伸びていく。歌のペースに巻き込まれるように、走り気味だった楽器陣のテンポが落ち着いた。ボーカルの彼はその変化を心地良く感じたのか、メンバー達に軽く笑顔を見せる。その歌いながら見せた表情には何とも言い表せない色気があり、隆志は言葉を失った。
そのまま彼は自由に歌い続けた。原曲とは異なったフェイクが入るが、聴いていて嫌味に感じない。高音部分であっても安定した声が確実に音を刻んでいく。彼は完璧にその曲を自分のものとして歌いこなしていた。
間奏のギターソロが始まる。イントロで走ってしまっていたギターだが、この頃にはだいぶ落ち着きを取り戻していて、難しいソロを懸命に再現していた。さすがに完璧とはいかないが、当初の隆志の想定よりも『弾ける』ギタリストだったらしい。
しかし、それもボーカルの彼の前では霞んでしまう。この曲最後のCメロはボーカルが歌い上げる見せ場だが、彼の歌はより一層凄まじかった。低音から始まった歌は一気に高音に飛び、そのままメロディーをなぞりながら変幻自在に跳ね回る。そして、他の楽器に負けない強さでホール内に響き渡った後、エンディングを迎えた。
曲が終わって少し間が空いた後、会場中を大きな拍手が包み込む。呆気に取られていた隆志も慌てて我に返り、手を叩いた。
「あの子すごいなぁ!」
「本当、プロみたい! 何ていうバンドだっけ?」
興奮して騒ぎながら、母がパンフレットを捲る。目当てのページを見付けたらしく、彼女の手が止まった。
「あ、これね。NORTHERN BRAVER――」
隆志は思わず彼女の手元を覗き込む。そこには、メンバー達の名前が書かれていた。
『Gt. Tasuku / Vo. Natsuno / ……』
「ねぇ隆志、この『Vo.』がボーカルのこと? Natsuno……夏野くんっていうのかな」
母が自分に話しかけている声をどこか遠くのもののように感じながら、隆志はその名前を目に焼き付ける。
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