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track07. 嵐は秋に巻き起こる-The Storm Rises in Autumn-(2)

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 その日は亜季にとって長い一日となった。

 夏休みも明けて、新学期が始まった。いつものように電車に乗って学校に向かう。文化祭の練習曲を聴きながら目を閉じると、無意識の内にベースラインを追っている自分がいた。
 LAST BULLETSを結成してからもう四ヶ月近くが経っている。あの頃はこんな生活想像も付かなかった。いつか夏野がまた歌ってくれる日が来てほしいと願ってはいたが、まさか自分がそのバンドのメンバーになるなんて。

 ――幸せだな。
 亜季は一人微笑んだ。

 夏野は亜季にとって、憧れだった。いつも近くにいながらにして、特別な存在だった。中学生の頃まで観客席側で観ていた夏野と同じステージに立っているなんて、今でも不思議に思う。
 確かに練習は大変だ。圧倒的に上手い他のメンバーに着いていく為に必死で弾いていると、気付けば練習時間は終わっている。しかし、努力の甲斐もあってか、六月公演の頃に比べると自分でも手応えを感じていた。まだ全ての曲が完璧に弾けるわけではないが、このペースで練習を続ければ、月末の文化祭でもきちんとした演奏ができるだろう。

 小さい頃から、夏野のことを見てきた。それ故に、亜季は感じていることがあった。
 ――きっと、なっちゃんと一緒にいられるのも、あと少しだから。
 夏野は春原と出逢って、変わった。夏休みの後半からは、以前にも増して二人で話しているシーンをよく見かける。その瞳には、以前にも増して、熱いものが宿っていた。
 夏野かれはいつか亜季とは違う世界に行く。自分が着いていけるのはここまでだと、亜季は感じていた。
 ――だからこそ、LAST BULLETSのステージをどうしても成功させたい。

 高校の最寄り駅に到着した。駅を出たところで、この前練習に持って行った新作のチョコを、夏野が美味しそうに食べていたことを思い出す。あのチョコは、いつものコンビニには売っていないんだった。亜季はチョコを買う為、高校とは反対側の方向へと歩き出した。
 放課後の練習の差し入れにしたら夏野は喜ぶだろう。冬島も何だかんだ文句を言いつつ食べそうだ。甘いものが苦手な春原は食べないかも知れないから、他のものも買っていこう。
 そんなことを考えながら歩道橋を昇っていると、亜季の脇をサラリーマンが足早に通り過ぎていった。危ないなぁと思ったところで、数段上を昇っていた老婦人に彼のバッグがぶつかり、そして――


「おばあちゃんが足を捻って歩けなくなったから、一緒に救急車で病院に行ってきたんだ。ぶつかったおじさんも一緒に付き添ってくれて――色々治療受けたり、手続きしたりしてたら、こんな時間になっちゃって」
 隣を歩く夏野に、亜季は状況説明をしていた。
 時刻は十七時前。普段であればスタジオで練習している時間だ。しかし、亜季の姿を見た夏野は即座に練習を切り上げ、亜季を家まで送ると言った。
 それを亜季は嬉しく――そして、心から申し訳なく思った。

 落ちてくる老婦人を咄嗟に支えようと伸ばした左手は、医者からは全治一ヶ月の捻挫と診断された。文化祭は今月末だ。右手だけで演奏できる曲のレベルではない。
「――あっ、包帯こんなぐるぐる巻きだけど、そんなに痛くないんだよ」
「――亜季」
「ちょっと大袈裟だよね。でも、治るまでにはちょっと時間がかかるかも――」
「亜季」
 夏野が亜季の袖を引くので、足を止めた。
 振り返ると、夏野が真剣な表情でこちらを見つめている。

「――亜季は悪くない」

 そう言われた瞬間、亜季の両目から、感情が溢れ出た。
 ――そう、何故、こんなことになってしまったのか。
 亜季は運命を恨んだ。
 あんなに頑張ってきたのに。
 こんな形で――夏野の足を引っ張ってしまうだなんて。

「――なっちゃん、ごめんね……」

 必死で声を絞り出す。
 ふと頭に暖かい熱が触れた。
「大丈夫、謝らなくていい。俺がこうしていられるのは、亜季のお蔭なんだから」
 顔を上げる。夏野はその表情を優しく綻ばせて、こう言った。
「心配すんな――俺が何とかする」


 ***


 翌朝、亜季はいつもより早めに登校していた。腕を吊っているからか、ちらちらと周囲の視線を感じる。何だかいたたまれない気持ちになっていると、「亜季!?」と声をかけられた。
 声の主は隣の席の佳奈だ。
 学校への道すがら事の顛末を話すと、佳奈はとても気の毒そうに話を聞いてくれた。一人で色々と考えるより、話していると気が紛れる。亜季は友人の存在を心からありがたいと感じた。

「それにしても、亜季あんなに頑張ってたのに……残念だね」
 佳奈が悲しそうに、ぽつりと言う。亜季は心の中でぐっと口唇を噛んで、思いを押しとどめた。
「うん、でも――こればかりは仕方ないから」
 そう言いながら、胸の中におりが溜まるのを感じる。仕方ないという一言で、済ませたくなんてなかった。でも、そうやって自分に言い聞かせる他ないのだ。

 それよりも、夏野達メンバーに迷惑をかけたことについて、どうすればいいのだろう。夏野はああ言っていたが、もう本番まで三週間ちょっとしかない中で、どうするつもりなのだろうか。
 一人で考えを巡らせていたその時、隣を歩く佳奈が「え?」と声を上げる。違和感に顔を上げると、目の前の友人の表情が固まっていた。何事かと思ったその瞬間、背後から「おい」と声が響く。
 振り返ると、そこには――冬島康二郎がいた。 


「夏野から聞いた。お前通りすがりのばあちゃん助けたんだって? すげーじゃん」
 亜季と冬島は校庭のベンチに座っていた。冬島が自販機で買ったオレンジジュースを亜季に渡そうとしたところで、「あ、悪ぃ」とストローを挿す。差し出されたジュースを受け取った後、亜季は俯いた。
「……すみません、迷惑かけて」
「あ? 別に迷惑じゃねぇよ。今やってる曲は冬公演でやるし」
「――え?」
 想定外の言葉に、問い返す。冬島は何事もないかのように、自分のジュースを飲んでいた。
「だから、文化祭公演は新しい曲やるわ。折角いい感じになってるし、今の曲は冬公演でお前とやった方がいい」
「え、でも、皆も練習してきたのに、このタイミングで?」
 思わずしどろもどろになりながら問いかけると、冬島が笑う。
「何、俺らができないとでも思ってんの?」
「いや、そういうわけじゃ――」

「俺らの腕を一番よくわかってるのは、お前だろ。三週間もありゃあ十分だ。ベースは夏野のやつが何とかするだろうし、あんま気にすんなよ」

 そこまで言って、ふと「あ」と気付いたように、冬島が亜季を見つめ直した。
「――いや、あれだ。別にお前がいなくても大丈夫って意味じゃないから、そこ勘違いすんなよ!?」
 少し焦ったように冬島が弁解する。そんな冬島の配慮に、亜季は少し意外さを感じていた。

 ――いや、意外ではない。
 音楽室に声をかけに来た時も、六月公演で夏野の不在に気付いた時も、夏休みにアイスを買ってきてくれた時も。その外見と言葉遣いから威圧的に見えてしまうが、思い返せば冬島はいつも色々と気を回してくれていた。

 しかし、目の前で慌てる冬島が何だかおかしくて、亜季は思わず吹き出す。その瞬間、亜季の心を覆っていた影が、少し晴れた。
「わかってますよ、そこまで卑屈になってませんから」
 ――笑うと、視界が一気にひらけた気がするから不思議だ。
 そうだ。次の冬公演で頑張ればいい。文化祭公演は――自分のできることをやろう。
「冬島さん、ありがとうございます」
 笑顔でお礼を言うと、冬島は「別に」と顔を背けて、ジュースのパックをゴミ箱に投げ入れた。


 ***


「高梨さん、大丈夫?」
 昼休みの話し合いが始まる前に、三条が神妙に問うと、亜季は「はい、ご心配をおかけしてすみません」と笑顔で答える。そんな彼女を見て、夏野は少しほっとした。授業中も様子をそれとなくうかがっていたが、吊っている腕は別として、表情は明るい。

 ――昨日の亜季は、激しく落ち込んでいた。腕の怪我も心配だったが、何よりこれまで亜季が懸命に練習をしてきた文化祭に出られないことが、夏野は気がかりだった。
 帰宅後、亜季の状況とこれからどうすべきかについて、春原と冬島に連絡を取った。鬼崎の抜けた穴を埋める為のコラボ枠や、急遽不在となったLAST BULLETSのベーシストポジションと、課題は多い。
 しかし、夏野は少なくともLAST BULLETSのセトリは、亜季が練習していた曲から変えたいと考えていた。それは亜季の心情をおもんばかってということもあったが――それらの曲に、亜季のシンベがハマっていたからだ。亜季がいないのであれば、思い切って別の曲にした方が良いと夏野は考えていた。
 一方で、その決断をすれば、残り三週間しかない中でその分春原と冬島に負担を強いることになる。悩みながらその旨を連絡すると、二人ともOKの返事が返ってきた。春原はまだしも冬島も快諾してくれたことに感謝の念を抱きつつ、金曜日の練習に幾つか候補曲を持ち寄ることを決めて、昨日のやり取りは終わった。

「――さて、昨日夏野くんが提案してくれたコラボだけど、各バンドでできそうな人いる?」
 三条が室内を見回す。物理室には各バンドからメンバーが集まってきていた。しかし、皆顔を見合わせるだけで、意見が出ない。
「正直、うちはキツイっすね。歌だけならいいですけど」
 御堂がぼそりと言った。それに続くように、他のバンドも自分達の本番に向けての練習で手一杯だと声が上がる。「まぁそうだよねー」と三条も困ったような笑顔を浮かべ、ちらりとこちらを見た。
「――LAST BULLETS……も難しいよね。今の状況だと」
 確かに、昨日と状況は一変している。夏野も眉を顰めるしかなかった。隣で春原も何か考えているようだ。
 物理室内に再度沈黙が広がったその時――唐突に、放送を知らせるチャイムが鳴った。

『――文化祭実行委員会です。文化祭まであと三週間、皆さん準備は進んでますかー?』

 こんな放送、これまであっただろうか。意図的ではないにせよ、ほぼスタートラインに立っている自分達を揶揄されているようで、夏野は小さく溜め息を吐いた。当然そんなことはお構いなしに、実行委員は文化祭についての連絡事項を伝えていく。
 しかし、最後に告げられた連絡事項が――またもや軽音楽部を揺るがせることになった。

『最後にビッグニュースです! 今年の文化祭では、何と! 三年A組の鬼崎達哉さんがリーダーを努めるKing & Queenのライブが行われます! 学外のお客さんの来場も大幅に見込まれる今年の文化祭、皆で頑張っていきましょう!!』
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