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track06. サマーデイズ・ラプソディー-Summer Days Rhapsody-(2)

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 その週の金曜日、LAST BULLETSは早速文化祭公演に向けて、演奏曲の練習を始めた。前回は洋楽と邦楽各一曲だったが、今回は他バンドとの差別化という意味で洋楽の比重を多めにすることとなった。中一日ではさすがに春原も時間がなかったようで、その日は亜季用に見直した楽譜が一曲分のみだった為、その一曲を重点的に練習した。

「夏野さん、ちょっと良いですか?」
 練習が終わり帰ろうとしたところで、春原が夏野を呼び止める。
「うん、どした?」
「今日少し話したいことがあるんで、夕飯一緒にどうですか」
 春原の眼差しは真剣そのものだった。何か大事な話でもあるんだろうか。
「あぁ、別に良いよ。一緒に行こう」
 夏野が答えると、春原は嬉しそうに表情を綻ばせる。冬島や亜季には見せないその笑顔は、夏野にとって春原からの信頼の証に思えた。六月公演を乗り越えたことで、夏野もまた春原をこれまで以上に信頼している。
「じゃあ俺ら先に帰るわ」
「なっちゃん、また来週」
 冬島と亜季が帰っていく。春原はスタジオの鍵を返すついでに教室に荷物を取りに行くという。夏野はスタジオの前で春原が戻るのを待つことになった。

 手持無沙汰になり、冬島に借りた音楽雑誌でも読もうかと思った瞬間――反対側のスタジオのドアが開き、中から男子生徒が二人出てきた。
「――あ、夏野さん!」
 一人が夏野の存在に気付いて頭を下げる。もう一人も嬉しそうな顔をした。夏野は笑顔で「おつかれ」と返す。六月公演以降、夏野は校内で話しかけられることが増えた。あの日鬼崎に名前を呼ばれたことで、随分と名前が広まってしまったらしい。
 二人は鈍色idiotsのメンバーだった。確かベースとドラムだったな、と思いを馳せていると、二人が話しかけてくる。
「そういえば、LAST BULLETSも金曜日練習になったんですよね。一緒の曜日でなんか嬉しいっす」
「そうそう。ラッキーなことにシフト増やしてもらえてさ」
「まぁ、鬼崎さんは別に学校のスタジオ使わなくても良さそうですもんね」
「――え、ここのシフト、元々鬼崎さんだったの?」
 初耳だった。そういえば、六月公演の翌週、いつも通り水曜日にスタジオに行った際に「これからは金曜日も使って良いことになったから」と冬島から聞いただけで、元々誰のシフトかなど考えもしなかった。
「そうです。まぁ俺達もここで逢ったことないんで、実際に使ってたのか知りませんけど」

 夏野の脳裏に六月公演の際の鬼崎の表情がよみがえる。あの日鬼崎は「夏野にも興味が出てきた」と言っていた。しかし、口元は笑っていたものの眼差しは厳しく――その表情は、どちらかといえば『敵意』に満ちていたように思う。何故彼は夏野達にシフトを譲ってくれたのか。
 まぁ、考えたところでどうしようもない。夏野に鬼崎の考えなど知る由もないのだから。ありがたくシフトは使わせてもらうことにしよう。
「じゃあ俺ら帰るんで。おつかれさまです」
 帰っていく二人の後ろ姿を見送りながら、ふと夏野は二人がスタジオの鍵をかけていないことに気付いた。呼び止めようとした瞬間、スタジオから小さく音が漏れてくる。どうやらまだ中に誰か居るようだ。手元の腕時計を確認すると、十七時ニ十分。部活終了時刻の十七時はとうに過ぎている。

「金曜日は私の貴重な自由時間なんだ。小さい子どもが居ると、部屋におちおち楽器も置いておけないからな。バンドを組むような仲間も居ないし、一人でカラオケに行ってベースを弾くのが一番の楽しみだよ」

 顧問の坂本の台詞が思い起こされた。軽音楽部に入る前は生真面目で厳しい教師だと思っていたが、たまたま入部の時の会話で坂本が往年の洋楽ロックバンドLIPSのファンだということを知り、以降夏野は気が向いた時に物理準備室に遊びに行っている。坂本も満更でもないようで、最近は準備室の奥に隠しているベースも見せてくれるようになった。LIPSのベーシストはその界隈では有名で、坂本はそのシグネチャーモデルを持っていた。有名ミュージシャンのシグネチャーモデルともなると金額もそれなりで、夏野が素直に驚いていると、坂本はいつものように冷静でありながら確かな熱量を持って、どれだけこのベースが素晴らしいかを語った。たとえ世代が違っても、好きな音楽の話で幾らでも繋がることができる――夏野は坂本と出逢って、また一つ音楽の奥深さを知った。

 そんな坂本の貴重な金曜日だ、できるだけ早く解放してやらなければなるまい。夏野は音が漏れ出てくるスタジオの扉を開けた。
 すぐに目に飛び込んできたのは、ギターの練習に励む一人の少年の背中だった。彼は夏野が入ってきたことに気付く様子もなく、ギターを弾いている。扉を後ろ手に閉め、夏野が少年の肩をとんとんと指で叩くと、彼はびくりと反応して振り返った。

 少年は、鈍色idiotsのギターボーカル、御堂みどうだった。

「練習中邪魔して悪いね。でもそろそろ時間も時間だからと思って」
 夏野がそう言うと、御堂は長い前髪の隙間から、じっと夏野を見つめ返す。その眼差しには、静かな怒りの色が見受けられた。暫しの沈黙の後、御堂は口を開く。
「――練習し足りないんすよ。ギタリストが抜けたんで、俺がその分弾かないといけないし」
 そういえば亜季が一昨日そう話していたことを思い出す。成る程、ギタリストが抜けたので、ギターが弾ける御堂がその分をカバーするということか。その怒りは夏野に向けられたものではなく、自身を取り巻く状況全てに対する憤りのように思えた。
「……そっか」
 かける言葉が見付からず、夏野はそうとだけ答える。二人の間に沈黙が流れた。二の句が継げずにいる夏野に対して、御堂が苛立ったように口を開く。

「――わかったなら、さっさと出て行って下さい」
 敵意を隠そうともせずに、彼は続けた。
「あんたは恵まれていて良いね。才能もあって、仲間も居て、どうせこれまで何もかも上手くいってたんだろ。鬼崎さんから名前だって覚えられて。俺には――」
 そして、ぽつりと呟く。
「――俺には、何もない」
 御堂の眼差しは厳しいままだったが、一方で――彼の姿はどこか脆く、あと少しバランスが崩れた瞬間、壊れてしまいそうに見えた。夏野はその姿に見覚えがあった。

 それはまるで、全てを喪い、逃げることしかできなかった――かつての自分のようだった。

「――俺にも、なかったよ」
 思わず言葉が漏れる。
「何でそんなことになったのか、わからなかった。ただ逃げることしかできなくて、気付けば――全部喪くした気になっていた」
 御堂からしたら、何のことかわからないだろう。それでも、目の前の彼は黙って夏野の言葉を聞いていた。
「今思えば、もう少し話をすれば良かった。あんなことになる前に、何とかできたんじゃないかって、そんなことばかり思うよ。俺の自己満足かも知れないけど、それさえできなかったから――きっと今でも、思い出す度に胸が疼くんだ」

 夏野の脳裏に、こちらに冷たい視線を向けるたすくの顔がぎる。こんな表情が最初に思い出されてしまう程に、二人の距離は遠く離れてしまった。最後の思い出がそうであっただけで、それまでには楽しい記憶が沢山あったはずなのに。
「君は何も持ってなくないよ。ギターを弾きながらあれだけ歌うなんて、俺にはできない。ベースとドラムのメンバーだって居るじゃないか。鬼崎さんにだって、これから覚えられれば良い。だから、あまり悲観し過ぎなくて良いと俺は思うよ」
 思いのままにつらつらと話してしまい、はっと夏野は口を閉じた。御堂の反撃に備えて心の準備をしていると――意外にも、彼は無言のままこちらを見つめ返している。

 暫く後に、御堂は一言言った。
「――今日は、帰る」と。


 スタジオを出て携帯を見ると、春原から何件も着信が残っている。悪いことをした。折り返すと、どうやら方々ほうぼうを探して回っていたらしい。スタジオに居ることを告げると、春原は飛ぶように戻ってきた。
 御堂と一緒に居たというと、「何もされなかった?」と心配そうに訊いてくる。一体全体同級生を何だと思っているのか。その慌てぶりが面白くて、夏野は小さく吹き出した。言ってはあれだが、まるで犬のようだ。かぶりもののセレクトはそこそこ合っていたんだろう。それなら俺はニワトリか。まぁチキンと言われれば否定もできない。
 お詫びに夕食を奢ると言うと、春原が遠慮がちにチェーンの定食屋を挙げてきたので、駅前の店に入る。一昨日も思ったが、春原は高校生男子にしては食の好みが渋い。今日は焼き魚定食をセレクトしている。魚は家で出てくるしなぁと思いながら、夏野は焼肉定食を選んだ。

「実は、文化祭公演の話なんですけど――オリジナル曲とか、どうかなと思って」
 一通り食べ終えたところで、春原が話を切り出した。春原は夏野と二人で話す時、敬語とタメ口が入り混じる。夏野も気にならないので、そのままにしている。
「オリジナル? 良いけど、俺作曲したことないぞ」
「あ、曲はもう作ってあるんで」
「えっ、おまえ作曲もできるの?」
 驚いて夏野が問い返すと、春原は「多少だけど」と、少し恥ずかしそうに頷く。へーっと夏野は感嘆の声を上げた。
「すごいじゃん。良いよ、やろうやろう」
 夏野の答えを受けて、春原が鞄からMDを出す。話をよく聞いてみると、既に五曲程作ってあって、その中から夏野が選んだものを一曲やろうと考えているとのことだった。その準備の良さに、夏野は舌を巻く。
「夏野さんの音域に合わせてあるから、多分どれもいけると思うんだけど」
 春原が曲のコンセプトを話し出した。聞いている内に、先程の御堂との会話の中でふと思い出された佑の顔が薄れていく。

 そうだ。全てを喪くしたと思っていた。そんな自分をまたこの世界に引き戻してくれたのは、亜季であり、冬島であり、そして――春原だ。
「――どうかした?」
 春原が問い返してくる。
「いや――俺は確かに、恵まれているなと思って」
 夏野がそう答えると、春原は「何ですか、いきなり」と、少し嬉しそうに笑った。
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