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第二章 オーバーヒールの代償
第二十六話 獅子にも赤子の過去がある
しおりを挟む夏の間は調練に明け暮れることになる。ラナンは久しぶりに王のそばを離れ、国境近くの草原にやって来た。
ラナンが軍務を離れてから東方元帥の管理下に置かれた騎馬隊は、選抜を繰り返して常に精鋭の兵士をそろえている。ラナンが率いていたときと顔ぶれはすっかり変わっていた。知った顔は一部の将校だけ。そのなかのひとり、リンチェが総隊長としてこの隊をまとめていた。
数カ月で、すべての兵士たちからいのちを預けてもいいと思わせるだけの信頼を獲得しなくてはならない。到着した初日から、ラナンは彼らとともに馬を走らせた。年若い兵士たちに積極的に声をかけると、はじめは畏縮していた彼らもこころを開いてゆき、数日で遠慮なくラナンと馬を競わせるようになった。
食事も兵士たちと一緒に、同じ質素なものをとる。これはゲルシクに教わった兵の心をつかむコツだ。都の美食に慣れたラナンだが、食に対してさほどこだわりがないので苦には思わなかった。
食べることが生きがいのようなケサンは辛そうだ。だが「こっそり他のものを食べればいい」と言うと、「そんなわけにはまいりません」と意地を張って、ラナンと同じものを食している。
十日から二十日に一度は羊や牛を屠り、酒を出す。兵士たちは大いにはしゃいだ。喧騒は耳を塞いでも頭に直接響くようだ。そのときも、ラナンは彼らとともに肉を食い、酒を酌み交わし、歌い、踊った。
「稀学さまも、ラナンさまがお戻りになられたことを知ったらお喜びになられますよ」
ひとさし舞ってドサリと地べたに腰をおろしたラナンの杯に酌をしながら、リンチェが叫ぶように言う。ラナンは頬がほころんだ。叫び返す。
「そろそろ先生がいらっしゃるころか」
ひとつ年上の石稀学は、ラナンの騎馬の師だった。各国を渡り歩くソグド人隊商を率いて、毎年夏に都にやってくる。騎馬隊の強化に功績のある彼はその途上でこの地に立ち寄ることを王から許されていた。ラナンがこの隊から離れてからは、一度も会っていない。彼が都にやってくる時期は、宮廷が地方に移動しているからだ。
「先生に笑われぬよう、勘を取り戻しておかねばならないな」
ラナンは天頂で光を放ち始めた月を仰ぎ見ながら大きく息を吸い込む。またひとつ、楽しみが増えた。
〈いくさバカ〉とニャムサンは揶揄するが、宮廷にいるだけでは得ることの出来なかったであろう学びと出会いの数々を与えてくれた陣営の生活が、ラナンは好きだった。
石稀学の訪問を守備兵から知らされると、早速ケサンとリンチェを連れて馬を駆り、師を出迎えた。騎馬の石稀学はラナンを見ると満面の笑みを浮かべて拱手する。ラナンも礼を返すと、石稀学と轡を並べて本陣へ向かった。
「また、ラナンどのがこの隊を率いるのですか」
「一時的に、ですが。総大将はルコンどのです」
「それは見ものですな。わたしも血が騒ぐが、この身体では足手まといになってしまう」
石稀学は笑いながらポンポンと自分の右肩を叩く。そこから伸びているはずの右腕はない。左腕だけでも、馬と武器の扱いは人並み外れて巧みだったから足手まといになるはずがない。だが、ラナンは彼が従軍を望むことを恐れた。二度も祖国に弓を引かせたくはない。
いまはソグドの姓を名乗り胡服をまとっているが、石稀学は漢人だ。
本名は呂日将。
渭水のほとり盩厔で、京師長安に向かうゲルシクとトンツェンをきりきり舞いさせた将軍だった。その翌年、僕固懐恩からの使者としてこの国にやって来た呂日将は、ルコンの依頼でラナンに唐の軽騎兵の技術を徹底的に仕込んでくれた。
僕固懐恩の援軍として十万の兵で唐を攻めたとき、タクナンと謀って唐軍に奇襲を仕掛けた呂日将は、もう少しで敵将の渾日進を討ち取ろうというところで郭子儀の援軍に不意を突かれ敗れた。渾日進に右腕を斬られ捕虜となったが、傷が癒えると解放された。本来なら極刑に処すべき罪を犯した彼がそうならざるを得なかった経緯を知った郭子儀が、密かに逃がしてくれたのだ。
彼は盩厔のいくさで行方知れず、ということになっている。
「と言っても、いまは商売が楽しくてならぬのです。頼まれても戦場に戻る気はありませんよ」
ラナンの懸念を察したのだろう。師はさばけた明るい笑顔をラナンに向けた。
それからはルコン、ゲルシク、タクナン、ツェンワとトンツェンなど、彼が商人になってからは会っていない者たちの消息を、乞われるままに語った。
「スムジェどのもいらしているのですか?」
思わぬ名が彼の口から出て、ラナンはギョッとした。
「兄は領地の管理をいたしておりますので、こちらには顔を出しておりません」
石稀学は懐かしむように目を細めた。
「お会い出来ないのは残念ですが、お元気ならよかった。ラナンどのがご立派になられて悠々自適の生活に入られた、といったところでしょうか」
彼がスムジェに好意的なことを言うとは意外だった。ふたりは会ったその場で激しく口論し、スムジェはそれ以降、石稀学がラナンを指導するようすを不機嫌な表情で遠くから眺めていた。他人に対し常に斜に構えているスムジェが、面と向かって敵意をあらわにする姿を見たのは、後にも先にもそれが唯一のことだ。
「いまさらですが、先生に初めて兄がお会いしたとき、いったいなにを争われていたのでしょう」
石稀学は一瞬キョトンとした顔をしてから、ああ、と声をあげた。
「あのときのラナンどのは、唐語をご存知なかったのでしたな」
「はい。恥ずかしながら、おふたりの会話はまったく分かりませんでした」
いまはふたりともどちらの言葉も不自由なく話せるが、当時、石稀学はまるでこの国の言葉を解さなかったし、ラナンは唐語を学んでいなかった。兄とは唐語で言い争いをしていたから、ラナンには、その内容がまったくわからなかったのだ。
「スムジェどのは唐人、それも敵として戦場で相まみえたことのあるわたしが、ラナンどのを害するために近づいたのではないか、と疑ってらしたのですよ。それでもラナンどのが日々指揮官として成長されてゆかれる姿をお喜びになって、わたしのことをお認めくださいました」
「兄がわたしの成長を喜んで?」
「ええ。ラナンどのが出世すれば甘い汁が吸えるなどと、照れ隠しのようにおっしゃっていましたが、弟御が可愛いのだと見えました。わたしには男の兄弟がおりませんから、羨ましく思ったものです」
母と同様、兄もラナンが将軍として戦場に出ることを快く思っていないように見えた。「多くの尚論を心服させるにはいくさでの功績が必要だ」とルコンが説いたとき、不快な表情を隠そうともしなかったことが思い出される。そのスムジェが、ラナンの将軍としての成長を喜んでいたというのは意外だった。
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