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《阿部 稔》
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自分はただ、白い世界に居た。白い世界の盤上に居て、言葉はわかるがなにがなんだがわからないでいる。――思考はできるものの、言葉という概念に不確かなものさえ感じる。
(わたし、ぼく、わたくし、わし……一人称はなんだったのだろうか?)
そんな不安定な脳内でぶわりと香ったのは、ツンと鼻にくる深く澄んだ香り。
脳に響いてすっきりとした香りに誘われて――青年は左の白い眼と黒い右眼を次第に開いていった。
「お、気づいたか。もう朝だぜ?」
眼前に広がるのは健康的に焼けた男の首筋と顔、そして黒い眼にフレーム眼鏡を掛けたその姿であった。
「……」
青年は声を発さずにじっくりと探るように見つめていく。
白衣を纏い、黒いトップスからわかるほど筋肉質な身体。細身だががっしりとしていて足腰にもハリがある。腰の位置も高い。そして極めつけに、黒く硬質な髪は片方に撫でつけられて片目が隠れているおかげでミステリアスさも感じられた。
そんな男を凝視し、青年は首を傾けた。
「あなた……だれ?」
「誰って言うのはこっちの方だっつ~の。お前こそ名前は? 園の草木に放置されていたぞ。家出でもしたのか?」
フレーム眼鏡の左端に沿っているほくろの位置が変わらずとも、彼は肩をすくめテーブルに置いてあるケトルに手を伸ばす。二つのマグカップから男とは違う、香ばしいが豊かな香りを抱いた青年ではあったが、自分の一人称がなんだったのか思いつかない。「はい、コーヒー」そう言って手渡された黒い液体に青年の左目が深い青に変わった。だがその状態のままあつあつのコーヒーを手渡されたのにも関わらず、一気に飲み干し――濃淡の青が際立ってしかめてしまう。
「……まずいですね」
「恩人が淹れてくれたものにケチつけるな、アホ」
「だって不味いですもん、これ。俺はもっと、匂いからして香ばしくてあっさりしていて飲みやすいものかとおもったのに……」
(あ、俺が一人称か。忘れていた……)
自分の一人称が判明し、スプリングが効いているベッドを弾ませた。
「俺はAB77-2005と言います。さっきのは不味かった液体でしたが、淹れて下さりありがとうございます」
「正直すぎる意見は聞かなかったことにして……、AB77-2005だぁ? なんだその機械の品番みたいな名前は」
「わかりません。でも俺の名前はそうなんです。――記憶が吹き飛んでしまってわかりませんが、言葉に関しては問題ないと思います。機械と思うのなら、それでいて結構です」
記憶がないのは本当であった。今までの記憶がデリートされて自分自身の名前と言葉でしかわからない。
ただ、それ以上に匂いに――香りに敏感なのは驚いた。
先ほどから男から香る香水よりも洗練された、自然で揺らめく香りがかぐわしい。……どうやら、知識も備わっていたようだ。
AB77-2005は周囲を巡らせた。簡素な部屋ではあるが、顕微鏡があり、なにかしらの器具と共にケトルやマグカップといったものから――花が置かれている。
薄い花びらが房状になって花瓶に置かれている姿を見て、彼の左目は薄い青い色に変貌した。
「それはディルフィニウムっていう花だ。花屋なんかに売っていて今は旬だな。――ちょうど花弁の細胞を見て研究をしたかったから、花瓶に活けていた」
「……よく俺が興味を示したってわかりましたね」
「観察すればなんとなくわかる」
すると男はディルフィニウムを一本取り出して青年に差し向けた。男からぶわりと香るすっきりとしたモノは果たしてなんだろうか。
「俺は楠 麗也だ。普段は大学で植物学について教えている。よろしくな」
花を差し出され、AB77-2005は白い片目を深い青い瞳にしてしまう。「なんだ、戸惑っているのか?」楠がニヒルに笑って話しかけると、首肯するようにゆっくりと縦に振る。
こういう時はどうしたものか対処法がわからない。
ただ楠は、その代わりと言ってから次に続けた。
「さすがにこの日本でAB77-2005なんていう人間は存在しない。だがお前は機械でもないみたいだ。……それは、間近でお前の修復力を見た俺が身をもって証明する。――だからだ」
ずいっと端正な顔立ちが間近に見えて、青年は黒い右眼と白い眼を見開いた。だが白い眼は青く輝かない。
その反応を見て、楠は唸りだしていく。
「まずABはテキトーに阿部かなにかして……問題は名前だな。――んぅ~~~~~?」
腕を組んで深く考え込んでいる楠に、青年は茶色い髪をなびかせて「太郎とかでいいですよ」なんて言う。初対面の男に得体のしれない自分の名前を考えさせるのを煩わせたくはない。むしろこの霧のように支配される気持ちが、自分には不快であったのだ。
それでも楠は考えに考え込んで、「アベリアか……」そう告げて晴れやかに笑いかけたのだ。
「そうだ……、稔だ。ノギ偏に念じると書いて、稔。普通は稔って読むが、まぁいいだろう」
「は、はぁ……」
白い左目が濃淡な青に染まる。事態がわからないのか。
だが稔はそれでも嬉しそうに笑いかける楠の存在に、安心感を抱いたのだ。
(わたし、ぼく、わたくし、わし……一人称はなんだったのだろうか?)
そんな不安定な脳内でぶわりと香ったのは、ツンと鼻にくる深く澄んだ香り。
脳に響いてすっきりとした香りに誘われて――青年は左の白い眼と黒い右眼を次第に開いていった。
「お、気づいたか。もう朝だぜ?」
眼前に広がるのは健康的に焼けた男の首筋と顔、そして黒い眼にフレーム眼鏡を掛けたその姿であった。
「……」
青年は声を発さずにじっくりと探るように見つめていく。
白衣を纏い、黒いトップスからわかるほど筋肉質な身体。細身だががっしりとしていて足腰にもハリがある。腰の位置も高い。そして極めつけに、黒く硬質な髪は片方に撫でつけられて片目が隠れているおかげでミステリアスさも感じられた。
そんな男を凝視し、青年は首を傾けた。
「あなた……だれ?」
「誰って言うのはこっちの方だっつ~の。お前こそ名前は? 園の草木に放置されていたぞ。家出でもしたのか?」
フレーム眼鏡の左端に沿っているほくろの位置が変わらずとも、彼は肩をすくめテーブルに置いてあるケトルに手を伸ばす。二つのマグカップから男とは違う、香ばしいが豊かな香りを抱いた青年ではあったが、自分の一人称がなんだったのか思いつかない。「はい、コーヒー」そう言って手渡された黒い液体に青年の左目が深い青に変わった。だがその状態のままあつあつのコーヒーを手渡されたのにも関わらず、一気に飲み干し――濃淡の青が際立ってしかめてしまう。
「……まずいですね」
「恩人が淹れてくれたものにケチつけるな、アホ」
「だって不味いですもん、これ。俺はもっと、匂いからして香ばしくてあっさりしていて飲みやすいものかとおもったのに……」
(あ、俺が一人称か。忘れていた……)
自分の一人称が判明し、スプリングが効いているベッドを弾ませた。
「俺はAB77-2005と言います。さっきのは不味かった液体でしたが、淹れて下さりありがとうございます」
「正直すぎる意見は聞かなかったことにして……、AB77-2005だぁ? なんだその機械の品番みたいな名前は」
「わかりません。でも俺の名前はそうなんです。――記憶が吹き飛んでしまってわかりませんが、言葉に関しては問題ないと思います。機械と思うのなら、それでいて結構です」
記憶がないのは本当であった。今までの記憶がデリートされて自分自身の名前と言葉でしかわからない。
ただ、それ以上に匂いに――香りに敏感なのは驚いた。
先ほどから男から香る香水よりも洗練された、自然で揺らめく香りがかぐわしい。……どうやら、知識も備わっていたようだ。
AB77-2005は周囲を巡らせた。簡素な部屋ではあるが、顕微鏡があり、なにかしらの器具と共にケトルやマグカップといったものから――花が置かれている。
薄い花びらが房状になって花瓶に置かれている姿を見て、彼の左目は薄い青い色に変貌した。
「それはディルフィニウムっていう花だ。花屋なんかに売っていて今は旬だな。――ちょうど花弁の細胞を見て研究をしたかったから、花瓶に活けていた」
「……よく俺が興味を示したってわかりましたね」
「観察すればなんとなくわかる」
すると男はディルフィニウムを一本取り出して青年に差し向けた。男からぶわりと香るすっきりとしたモノは果たしてなんだろうか。
「俺は楠 麗也だ。普段は大学で植物学について教えている。よろしくな」
花を差し出され、AB77-2005は白い片目を深い青い瞳にしてしまう。「なんだ、戸惑っているのか?」楠がニヒルに笑って話しかけると、首肯するようにゆっくりと縦に振る。
こういう時はどうしたものか対処法がわからない。
ただ楠は、その代わりと言ってから次に続けた。
「さすがにこの日本でAB77-2005なんていう人間は存在しない。だがお前は機械でもないみたいだ。……それは、間近でお前の修復力を見た俺が身をもって証明する。――だからだ」
ずいっと端正な顔立ちが間近に見えて、青年は黒い右眼と白い眼を見開いた。だが白い眼は青く輝かない。
その反応を見て、楠は唸りだしていく。
「まずABはテキトーに阿部かなにかして……問題は名前だな。――んぅ~~~~~?」
腕を組んで深く考え込んでいる楠に、青年は茶色い髪をなびかせて「太郎とかでいいですよ」なんて言う。初対面の男に得体のしれない自分の名前を考えさせるのを煩わせたくはない。むしろこの霧のように支配される気持ちが、自分には不快であったのだ。
それでも楠は考えに考え込んで、「アベリアか……」そう告げて晴れやかに笑いかけたのだ。
「そうだ……、稔だ。ノギ偏に念じると書いて、稔。普通は稔って読むが、まぁいいだろう」
「は、はぁ……」
白い左目が濃淡な青に染まる。事態がわからないのか。
だが稔はそれでも嬉しそうに笑いかける楠の存在に、安心感を抱いたのだ。
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