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第9話《バイタルサイン》
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――また崖の上だ。ふと下を見ると真っ暗闇につながっていて、落ちたら死ぬのではなく、一生落ち続きそうな気がする。そんな気がした。
「ねぇ、あなた聞いているの?」
今度は、あの先生だ。茶髪で、美人で、背が高いモデルみたいな人だけれど目が鋭い先生。厳しいけれど、優しい先生。具合を悪くした俺に相談に乗ってくれていたから。――俺にトラウマを植え付けたけれど、優しいセンセイ。
「患者様をどう思っているの? あんな血圧測定じゃ、腕を痛めちゃうじゃない。分かっているの?」
分かっています。だからひたすらに練習を積み重ねました。家族にも、苦手なクラスメートにも腕を借りて、必死に、自分なりに練習を積んだんです。
――それでもダメですか?
「患者様の呼吸を計測するときに話しちゃダメでしょう? 本当に練習をしたの?」
したんです。したのにダメなのですか? ……やっぱり、結果がすべてなのですか。
「脈拍を計測するときはもっと滑らせるように手を添えなきゃいけないでしょう。分かっているの? それに呼吸を計測するときはなるべく話さないようにして――」
先生は俺に怒りを持つように訴えかける。患者様のため、俺のためなのは伝わる。なんとなく伝わる。でも…そのたびに心が苦しくて、辛くて、切なくて…、心の傷がえぐられて、疼く。傷が痛みを伴って、離さない。
どうあがいても、結果がすべてなのですか? ――だったら俺は、
「もう。わかりました」
……俺は疲れていたせいか、自分から身を投げ出すように下を覗き込んだ。…地面が見えない。漆黒に染まって、闇を孕んでいる。――それでも俺は、地面を蹴って……
――下に真っ逆ささまと思った。俺はいつの間にか瞳を開けていたらしい。だが動悸と吐き気と、一筋の涙を、頬が伝っていく感覚にも襲われた。
「はぁっ、あぁ……、さっきの、夢か……」
ゆっくりと上体を起こし、軽い羽毛布団を剥いで机に置いてある水筒に手を伸ばす。ドクドクと嫌な胸の鼓動を聞いて安心させるように手を置いて、水筒を口元に寄せて一気に水を飲んだ。わざと冷たくした水が体内を駆け巡る感覚を覚えて唇を放す。喉を潤す。……すると嫌な音も収まり、息も整ってきた。
――だが涙は幾筋も流れる。とめどなく、ずっと。
「ひっく……うぅ、うぅ……」
涙がとめどなく溢れ落ちて、咽ぶように、また幾度も呼吸をする。緩急をつけて、強弱をして呼吸をする。そのリズムに一定さはない。
……また動悸がしてきた。だから再び冷たい水を一気に流し込んだ。その冷たさがどうして心地が良いのだろう。もしかしたら先生の愛のムチなのかも。なんて思うのは、休学中に先生が訪ねてきたからなのか。……もしくは。
「俺、やっぱり看護に向いていないの、かもね」
皮肉に微笑んで、寝巻の袖で涙を拭う利里はまた水を口に含んだ。……行きたくない気持ちはとてもあるが、ただ負け犬なりの信念はある。
(ここで行かなかった、俺は本当に、“自分”に負けるから)
――もう、嫌だから。
だから利里は着替えて行く支度をするのだ。
「で、また泣いてここに来たと」
「……そうですね」
椅子に座って利里と向き、メモを取っている豊橋はわざと息を吐く。盛大すぎるため息を吐かれた利里はムッとして反論しようとしたが、
「おまえさ、考えすぎるんだよ、そのぐらいで。誰でも失敗はするもんだ」
(そのぐらいと言われていても。――悪夢を見るぐらいなのに、症状も出るのに)
「それは、その。分かっていますけど……」
でもそれでも、あのトラウマは消えない。消したくても消えなくて、どうしてなのか分からないけれど、
――消えないんだ。
「……」
なにも言わずに深く椅子に座る利里へ豊橋は「ふぅ……」と息を吐いて、あることを提案する。――それは利里には触れてはならない、悪夢の看護技術だ。
「乾。お前、血圧計と聴診器を、今すぐにもってこい」
「え、なんで――」
「お前のその悪夢を打ち払うには成功体験が必要だ」
――バイタルサインを。…お前の悪夢の正体を。
豊橋の言葉に利里は顔を強張らせ、身体を震わせた。……そう。彼の悪夢の正体はその看護技術。彼が必死の思いで着実に、毎日練習をして習得できたはずの技術であったのに。
「……い、嫌、です」
《バイタルサイン》に必須な器具を告げられただけで、両手で身体を抱え、過呼吸になっていく利里。――彼はどうやら器具を聞いただけでも状態に出てしまうようだ。それでも豊橋は冷静な態度で告げる。だから豊橋は彼のもとにゆっくりと駆け寄って、背中を擦る。すると安心をしたようで、ビクついていた身体は次第に震えが止まっていく。
豊橋は普段からそっけない態度を取るが、利里を安心させる力があるらしい。だから彼の厳しい指摘を、利里は整った呼吸で耳を傾けた。
「お前は過去とちゃんと向き合うべきだ。背けるじゃない」
「それは……」
「いいからもってこい」
冷淡に話していく豊橋に利里は負けを認めるように席を立つ。豊橋の“背けるな”という言葉に、心打たれるものがあった。
――自分に負けたくない。過去の自分に。
「……じゃあ豊橋先生も手伝ってくださいね」
「いいぜ。元、看護師の指導をなめんなよ?」
そう言って利里は立ち上がり、医務室からいったん退出をした。――その姿を見た者が。彼は休憩中で、紙で指を切ったので絆創膏をもらうために医務室にやってきたのだ。彼が見たのは、悲嘆に暮れて蒼白な顔をしている利里の姿。
「乾、さん?」
蒼柳は不思議に感じて利里に声を掛けようとするが、掛けられなかった。
――なぜならば、普段よりも彼は淀んだ黒い瞳で……暗い顔立ちをしていたから。
「ねぇ、あなた聞いているの?」
今度は、あの先生だ。茶髪で、美人で、背が高いモデルみたいな人だけれど目が鋭い先生。厳しいけれど、優しい先生。具合を悪くした俺に相談に乗ってくれていたから。――俺にトラウマを植え付けたけれど、優しいセンセイ。
「患者様をどう思っているの? あんな血圧測定じゃ、腕を痛めちゃうじゃない。分かっているの?」
分かっています。だからひたすらに練習を積み重ねました。家族にも、苦手なクラスメートにも腕を借りて、必死に、自分なりに練習を積んだんです。
――それでもダメですか?
「患者様の呼吸を計測するときに話しちゃダメでしょう? 本当に練習をしたの?」
したんです。したのにダメなのですか? ……やっぱり、結果がすべてなのですか。
「脈拍を計測するときはもっと滑らせるように手を添えなきゃいけないでしょう。分かっているの? それに呼吸を計測するときはなるべく話さないようにして――」
先生は俺に怒りを持つように訴えかける。患者様のため、俺のためなのは伝わる。なんとなく伝わる。でも…そのたびに心が苦しくて、辛くて、切なくて…、心の傷がえぐられて、疼く。傷が痛みを伴って、離さない。
どうあがいても、結果がすべてなのですか? ――だったら俺は、
「もう。わかりました」
……俺は疲れていたせいか、自分から身を投げ出すように下を覗き込んだ。…地面が見えない。漆黒に染まって、闇を孕んでいる。――それでも俺は、地面を蹴って……
――下に真っ逆ささまと思った。俺はいつの間にか瞳を開けていたらしい。だが動悸と吐き気と、一筋の涙を、頬が伝っていく感覚にも襲われた。
「はぁっ、あぁ……、さっきの、夢か……」
ゆっくりと上体を起こし、軽い羽毛布団を剥いで机に置いてある水筒に手を伸ばす。ドクドクと嫌な胸の鼓動を聞いて安心させるように手を置いて、水筒を口元に寄せて一気に水を飲んだ。わざと冷たくした水が体内を駆け巡る感覚を覚えて唇を放す。喉を潤す。……すると嫌な音も収まり、息も整ってきた。
――だが涙は幾筋も流れる。とめどなく、ずっと。
「ひっく……うぅ、うぅ……」
涙がとめどなく溢れ落ちて、咽ぶように、また幾度も呼吸をする。緩急をつけて、強弱をして呼吸をする。そのリズムに一定さはない。
……また動悸がしてきた。だから再び冷たい水を一気に流し込んだ。その冷たさがどうして心地が良いのだろう。もしかしたら先生の愛のムチなのかも。なんて思うのは、休学中に先生が訪ねてきたからなのか。……もしくは。
「俺、やっぱり看護に向いていないの、かもね」
皮肉に微笑んで、寝巻の袖で涙を拭う利里はまた水を口に含んだ。……行きたくない気持ちはとてもあるが、ただ負け犬なりの信念はある。
(ここで行かなかった、俺は本当に、“自分”に負けるから)
――もう、嫌だから。
だから利里は着替えて行く支度をするのだ。
「で、また泣いてここに来たと」
「……そうですね」
椅子に座って利里と向き、メモを取っている豊橋はわざと息を吐く。盛大すぎるため息を吐かれた利里はムッとして反論しようとしたが、
「おまえさ、考えすぎるんだよ、そのぐらいで。誰でも失敗はするもんだ」
(そのぐらいと言われていても。――悪夢を見るぐらいなのに、症状も出るのに)
「それは、その。分かっていますけど……」
でもそれでも、あのトラウマは消えない。消したくても消えなくて、どうしてなのか分からないけれど、
――消えないんだ。
「……」
なにも言わずに深く椅子に座る利里へ豊橋は「ふぅ……」と息を吐いて、あることを提案する。――それは利里には触れてはならない、悪夢の看護技術だ。
「乾。お前、血圧計と聴診器を、今すぐにもってこい」
「え、なんで――」
「お前のその悪夢を打ち払うには成功体験が必要だ」
――バイタルサインを。…お前の悪夢の正体を。
豊橋の言葉に利里は顔を強張らせ、身体を震わせた。……そう。彼の悪夢の正体はその看護技術。彼が必死の思いで着実に、毎日練習をして習得できたはずの技術であったのに。
「……い、嫌、です」
《バイタルサイン》に必須な器具を告げられただけで、両手で身体を抱え、過呼吸になっていく利里。――彼はどうやら器具を聞いただけでも状態に出てしまうようだ。それでも豊橋は冷静な態度で告げる。だから豊橋は彼のもとにゆっくりと駆け寄って、背中を擦る。すると安心をしたようで、ビクついていた身体は次第に震えが止まっていく。
豊橋は普段からそっけない態度を取るが、利里を安心させる力があるらしい。だから彼の厳しい指摘を、利里は整った呼吸で耳を傾けた。
「お前は過去とちゃんと向き合うべきだ。背けるじゃない」
「それは……」
「いいからもってこい」
冷淡に話していく豊橋に利里は負けを認めるように席を立つ。豊橋の“背けるな”という言葉に、心打たれるものがあった。
――自分に負けたくない。過去の自分に。
「……じゃあ豊橋先生も手伝ってくださいね」
「いいぜ。元、看護師の指導をなめんなよ?」
そう言って利里は立ち上がり、医務室からいったん退出をした。――その姿を見た者が。彼は休憩中で、紙で指を切ったので絆創膏をもらうために医務室にやってきたのだ。彼が見たのは、悲嘆に暮れて蒼白な顔をしている利里の姿。
「乾、さん?」
蒼柳は不思議に感じて利里に声を掛けようとするが、掛けられなかった。
――なぜならば、普段よりも彼は淀んだ黒い瞳で……暗い顔立ちをしていたから。
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