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第23話 戻りなさい
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「旦那様、何を!? あなた――」
突然のシメオン様の行動に驚き、少年を見てはっとした。
「そう。あなた、腕に怪我をしていたのね。手当するわ」
少年は腕に切り傷を負っていた。傷は深くなさそうだが、範囲は広い。
私は鞄からハンカチを取り出そうとして、手を入れてまさぐったけれど見当たらない。今朝、確かに入れたはずなのに。
「あら。ハンカチはどこに行ったのかしら。ないわ」
「……これだろう」
呆れたようなシメオン様の声が降ってきて顔を上げると、彼は少年をつかんでいる手と逆の手で私にハンカチを差し出していた。
「え? どうして旦那様が私のハンカチをお持ちなのですか?」
「彼が盗んだんだ。君の財布と一緒に。それを取り返した」
「ああ、そうだったのですね。だから――え!?」
よく見ると、シメオン様はハンカチの後ろに私の財布を一緒に持っている。私はそのまま少年を流れ見ると、彼はばつが悪そうな表情をしていた。
「ま、まあ、とにかく手当しましょうか」
私は改めて少年の傷口を確認した後、ハンカチを巻き付ける。
「こんな大きな傷、痛かったでしょう」
「……痛くないよ」
「痛いなら泣いてもいいのよ?」
「泣かないよ」
「男の子だからって泣いたら駄目ということはないのだから」
「だから泣かないってば!」
「だってそうして教えてくれなければ周りには分からないもの。あなたが痛がっていることが。苦しんでいることが」
母は痛いとか、苦しいとか、言ってくれなかった。言ってくれなかったから、病気の発見が遅れてしまった。つらい闘病生活が長く続くことになってしまった。亡くなってしまった。
「あなたが大切にしたい人なら、その人がひとりで苦しんでいることを望まないでしょう? だからあなただって泣いて主張していいのよ。痛いんだって。苦しいんだって」
「……っ」
少年はもう反論せずにただ目を伏せた。
「――はい。できた。応急手当だから帰ったら治療してもらってね」
「帰る家なんてないよ」
装いから豊かな家庭の子ではないことは分かっていたけれど……。
「そう。でもあなたはそこのロザレス福祉施設の子でしょう? 院長にお願い――」
「あそこは僕みたいな年齢の子供は入れないよ」
児童福祉施設は確か十八歳ぐらいまでは入れたはずだ。
「僕みたいなって、あなたは十二、三歳くらいではないの?」
「そうだよ。でもあそこは幼い年頃の子しか入れないんだって」
「そんな。そんな訳」
「一度行ったけど、そう言われた」
「まさか。どうして……」
私が困惑しているとそれまで黙っていたシメオン様が口を開いた。
「だったら西側にあるサリナス福祉施設に行けばいい」
「ああ。あそこの院長はお人好しだよね」
少年はサリナス福祉施設の院長も知っているようだ。彼はからかいの口調でそう言った。
「あまりにもお人好しすぎだからね。たくさんの子どもたちを受け入れすぎて、いつも資金繰りに困っているんだ」
「あなたはもしかしてサリナス福祉施設から出てきたの?」
図星らしい。彼ははっとすると、また視線を落として口を閉ざす。
「そう。あなたは院長のために、そこで生きる弟妹たちのために出てきたのね。でもあなたがこんなことをしていると知ったら、きっと院長は悲しむと思うわ。それにね。資金繰りに関しては心配しなくていいわ」
「え?」
顔を上げた少年に、私は両手のひらでシメオン様を指し示した。
「この立派なお方が援助してくださるから。先ほどもね、ロザレス福祉施設にどーんと大きく寄付なさったばかりなのよ。サリナス福祉施設にももちろんたくさん寄付してくださるわ。だから戻りなさい。戻れる所で戻らなきゃだめ」
メイリーンさんが私を険しい道から引き戻してくれたように、私も今、この子を引き戻したい。
「……本当?」
少年はシメオン様を仰ぎ見ると、シメオン様はぐっと息を詰まらせ、ため息をつく。
「ああ。必ず約束する」
「必ず、か。あのね。僕たちの世界に、必ずという言葉は存在しないんだよ。いつだって約束は破られるものだから」
世間の厳しさをすでに経験している少年は自嘲する。これまで何度となく裏切られたのかもしれない。
「大丈夫。寄付するまでお姉さんが彼を見張っているから。約束を破るようなら引きずってでも施設まで連れて行って寄付させるわ。任せなさい」
「お姉さんが? 僕から財布を盗まれても気付かないお姉さんが?」
胸に手を当てた私を見た少年はくすりと小さく笑った後、ハンカチを巻かれた自分の腕に視線を流した。
「……うん。分かった。お姉さんを信じて戻るよ」
「ええ! 私はエリーゼよ。あなた、お名前は?」
「ロキ」
「そう。ロキ君。では次はサリナス福祉施設でお会いしましょう」
「うん。じゃあ、またね」
ロキ君は微笑み、手当をありがとうとお礼を述べて去って行った。
「ずいぶん勝手を言っ――」
「旦那様、私を利用しましたね」
私はシメオン様が私を諫めるのを遮りながら、彼を仰ぎ見て逆に睨み付けた。
「……何を」
「ロザレス福祉施設の現状を知って私を連れていったのでしょう。旦那様のお仕事のためだったのですね」
シメオン様は言い訳することを早々に諦めたのか、ただため息をつくと声をひそめて言った。
「そうだ。ロザレス福祉施設の院長は黒い噂があるんだ」
「え!?」
私は思わず大きな声を出してしまい、慌てて口を両手で塞いだ。周りを見渡してみると、誰も私たちを気にしている様子はない。
ほっとして私は口から手を離した。
「も、申し訳ありません」
「いや」
「それでどういうことでしょうか? 私を利用したのですから、もちろんお話しいただけますよね?」
「……分かった」
シメオン様はもう一つため息をつきそうな勢いだったけれど、とりあえずこんな街中で何だからと、屋敷に戻る馬車の中で説明してくれることになった。
突然のシメオン様の行動に驚き、少年を見てはっとした。
「そう。あなた、腕に怪我をしていたのね。手当するわ」
少年は腕に切り傷を負っていた。傷は深くなさそうだが、範囲は広い。
私は鞄からハンカチを取り出そうとして、手を入れてまさぐったけれど見当たらない。今朝、確かに入れたはずなのに。
「あら。ハンカチはどこに行ったのかしら。ないわ」
「……これだろう」
呆れたようなシメオン様の声が降ってきて顔を上げると、彼は少年をつかんでいる手と逆の手で私にハンカチを差し出していた。
「え? どうして旦那様が私のハンカチをお持ちなのですか?」
「彼が盗んだんだ。君の財布と一緒に。それを取り返した」
「ああ、そうだったのですね。だから――え!?」
よく見ると、シメオン様はハンカチの後ろに私の財布を一緒に持っている。私はそのまま少年を流れ見ると、彼はばつが悪そうな表情をしていた。
「ま、まあ、とにかく手当しましょうか」
私は改めて少年の傷口を確認した後、ハンカチを巻き付ける。
「こんな大きな傷、痛かったでしょう」
「……痛くないよ」
「痛いなら泣いてもいいのよ?」
「泣かないよ」
「男の子だからって泣いたら駄目ということはないのだから」
「だから泣かないってば!」
「だってそうして教えてくれなければ周りには分からないもの。あなたが痛がっていることが。苦しんでいることが」
母は痛いとか、苦しいとか、言ってくれなかった。言ってくれなかったから、病気の発見が遅れてしまった。つらい闘病生活が長く続くことになってしまった。亡くなってしまった。
「あなたが大切にしたい人なら、その人がひとりで苦しんでいることを望まないでしょう? だからあなただって泣いて主張していいのよ。痛いんだって。苦しいんだって」
「……っ」
少年はもう反論せずにただ目を伏せた。
「――はい。できた。応急手当だから帰ったら治療してもらってね」
「帰る家なんてないよ」
装いから豊かな家庭の子ではないことは分かっていたけれど……。
「そう。でもあなたはそこのロザレス福祉施設の子でしょう? 院長にお願い――」
「あそこは僕みたいな年齢の子供は入れないよ」
児童福祉施設は確か十八歳ぐらいまでは入れたはずだ。
「僕みたいなって、あなたは十二、三歳くらいではないの?」
「そうだよ。でもあそこは幼い年頃の子しか入れないんだって」
「そんな。そんな訳」
「一度行ったけど、そう言われた」
「まさか。どうして……」
私が困惑しているとそれまで黙っていたシメオン様が口を開いた。
「だったら西側にあるサリナス福祉施設に行けばいい」
「ああ。あそこの院長はお人好しだよね」
少年はサリナス福祉施設の院長も知っているようだ。彼はからかいの口調でそう言った。
「あまりにもお人好しすぎだからね。たくさんの子どもたちを受け入れすぎて、いつも資金繰りに困っているんだ」
「あなたはもしかしてサリナス福祉施設から出てきたの?」
図星らしい。彼ははっとすると、また視線を落として口を閉ざす。
「そう。あなたは院長のために、そこで生きる弟妹たちのために出てきたのね。でもあなたがこんなことをしていると知ったら、きっと院長は悲しむと思うわ。それにね。資金繰りに関しては心配しなくていいわ」
「え?」
顔を上げた少年に、私は両手のひらでシメオン様を指し示した。
「この立派なお方が援助してくださるから。先ほどもね、ロザレス福祉施設にどーんと大きく寄付なさったばかりなのよ。サリナス福祉施設にももちろんたくさん寄付してくださるわ。だから戻りなさい。戻れる所で戻らなきゃだめ」
メイリーンさんが私を険しい道から引き戻してくれたように、私も今、この子を引き戻したい。
「……本当?」
少年はシメオン様を仰ぎ見ると、シメオン様はぐっと息を詰まらせ、ため息をつく。
「ああ。必ず約束する」
「必ず、か。あのね。僕たちの世界に、必ずという言葉は存在しないんだよ。いつだって約束は破られるものだから」
世間の厳しさをすでに経験している少年は自嘲する。これまで何度となく裏切られたのかもしれない。
「大丈夫。寄付するまでお姉さんが彼を見張っているから。約束を破るようなら引きずってでも施設まで連れて行って寄付させるわ。任せなさい」
「お姉さんが? 僕から財布を盗まれても気付かないお姉さんが?」
胸に手を当てた私を見た少年はくすりと小さく笑った後、ハンカチを巻かれた自分の腕に視線を流した。
「……うん。分かった。お姉さんを信じて戻るよ」
「ええ! 私はエリーゼよ。あなた、お名前は?」
「ロキ」
「そう。ロキ君。では次はサリナス福祉施設でお会いしましょう」
「うん。じゃあ、またね」
ロキ君は微笑み、手当をありがとうとお礼を述べて去って行った。
「ずいぶん勝手を言っ――」
「旦那様、私を利用しましたね」
私はシメオン様が私を諫めるのを遮りながら、彼を仰ぎ見て逆に睨み付けた。
「……何を」
「ロザレス福祉施設の現状を知って私を連れていったのでしょう。旦那様のお仕事のためだったのですね」
シメオン様は言い訳することを早々に諦めたのか、ただため息をつくと声をひそめて言った。
「そうだ。ロザレス福祉施設の院長は黒い噂があるんだ」
「え!?」
私は思わず大きな声を出してしまい、慌てて口を両手で塞いだ。周りを見渡してみると、誰も私たちを気にしている様子はない。
ほっとして私は口から手を離した。
「も、申し訳ありません」
「いや」
「それでどういうことでしょうか? 私を利用したのですから、もちろんお話しいただけますよね?」
「……分かった」
シメオン様はもう一つため息をつきそうな勢いだったけれど、とりあえずこんな街中で何だからと、屋敷に戻る馬車の中で説明してくれることになった。
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