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第9話 火に油を注ぐ言い訳
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店を出ると一台の馬車が目に入った。それは以前、シメオン様の屋敷に戻るほんの少しの時間だけ乗せていただいた馬車だ。
私はこの馬車に乗ってどこに向かうのだろう。一度はシメオン様の結婚の申し込みを断った身だ。今、お金で買われた私は、シメオン様から見てどういった立ち位置になるのだろう。
そんなことを考えながら、私の行く先を知るであろう馬車をぼんやりと見つめる。
「入って」
店を出てから無言を貫き通していたシメオン様が言葉を発した。
「……え?」
「入れと言った」
感情を削ぎ落としたかのような口調にシメオン様の顔を仰ぎ見ると、声と同様、温かみの感じられない刺すような瞳で私を見下ろしていた。
「っ!」
見たこともないシメオン様の表情に息が詰まる。
「エリーゼ嬢、もう一度言う。自分の足で上がりたいならば早く入れ」
最終警告のような言葉を放たれて、寒気がした私は慌てて馬車の一段目のステップに足をかけた。けれど焦るあまり前のめりに倒れそうになる。するとすぐさまシメオン様が抱き留めてくれた。
「も、申し訳ありません」
甘い雰囲気などない。そこにあるのは恐れのみだ。私は飛び退くように身を起こすと、逃げ場を失うだけなのに自ら馬車に乗り込む。続いてシメオン様が馬車に乗りこんできて私の正面に座ると、合図とともに馬車は緩やかに動き出した。
こんな動く密室から逃げ出すことなどできはしない。それなのに、一分でも逃がす隙を与えないとばかりにシメオン様は黙ったまま私から視線を外さない。
張りつめる空気に異常なほど心臓の鼓動が高まり、耐えられなくなった私は口を開く。
「シ、シメオン様……。どうしてあちらにいらっしゃったのですか。ど、どうして私をお捜しに」
声が震えないようにと注意を払って話したつもりだったけれど、怯えを含んだかすれ声になってしまった。
「君こそ身売りするつもりで行ったのか」
ようやく話してくれるようになったかと思ったら、シメオン様は私の問いかけに問いで返す。口調も先ほどと同じくいつものような柔らかさはない。もしかしたら本当の話し方はこちらなのだろうか。
「シメオン様には、か、関っ」
「関係ない? 私の求婚を断っておいて身売りすることが関係ないと?」
シメオン様は私を見据えながら、言葉に喉に張り付いて出てこない私の言葉を補う。
私はカラカラになった喉を鳴らすと口を開いた。
「ど、どうしてもお金が必要だったのです。店の賃貸料を来月から今の二倍にすると言われて。弟の学費を払い続けるために高給金が見込める所で働くしかなかったのです」
「なるほど。よほど私に嫁ぐことが嫌だったらしい」
「そ、そんなことは!」
いつの間にかうつむいていた顔を跳ね上げると、心の芯まで凍ってしまいそうなシメオン様の冷たい表情が見えた。そんな彼の姿が恐ろしくて私はまたうつむいて膝の上にある握りしめた手を見つめた。
「実際、君は私に嫁ぐことよりも、不特定多数の男に買われることを望んだだろう」
「そ、そうではありません。そういうことでは。……本当はあの日、シメオン様に最後にお会いしたあの日、お、お金をお借りするご相談で伯爵家に伺ったのです」
初めて見るシメオン様の態度に私は混乱していたのだと思う。無意識の内に火に油を注ぐような言い訳をしてしまう。
「結婚に応じれば力になると言ったはずだが、金だけ借りたいとはね」
とんでもない失言をしてしまったことに、自分でも顔から血の気が引くのが分かった。
「も、申し訳、申し訳ございません。期限が迫ってくるのに手立てがなくて、他に頼る方がいなくて、私はシメオン様のご厚意に……甘えようとしてしまいました」
身分の合わない私が結婚の申し出をお受けすることは、シメオン様のお立場を悪くすると思い、恐れ多くて私にはできなかった。けれど、結婚に応じずにお金だけ借りようとしたことは、もっとシメオン様を傷つけて侮辱する行為だった。いいえ。そんなことは最初から分かっていた。分かっていて私は実行しようとしていた。
「本当に……誠に申し訳ございません」
「金が必要で切羽詰まっていたからか。そうだな。金塊を前にして目の色が変わっていたからな」
のろりと顔を上げると、変わらずすべての感情を凍り付かせたようなシメオン様の顔が目に入った。
人生でおよそ経験することのできない、人間の欲を一気に満たし、あふれさせる圧倒的な力を前に目を瞠ってしまうのは当然のこととも思える。一方で、お金に魅入られ、囚われている姿に見えるのも仕方がないのかもしれない。
その姿は、お金を基盤として生きる人間として自然な形なのか、あるいは恥ずべきことなのか、私には決めることはできない。けれど少なくともシメオン様の目には蔑みたくなるほど卑しい姿に映ったのだろう。
「これならなだめすかし愛を囁かずとも、最初から君を金で買うと言えば話は早かったな」
ふっと皮肉げに笑うシメオン様の発言に私は言葉を失った。
愛を囁かずとも? 私のことなど好きではなかったということ? 本当は不本意だったということ……? 嫌々言っていたと。ただ何かの目的のために結婚の話まで持ち出したと、そういうこと?
言葉なく、ただ茫然と見つめると、シメオン様はいつもと違って私の視線を真っ正面から受け止めることなく顔を背けた。
私はこの馬車に乗ってどこに向かうのだろう。一度はシメオン様の結婚の申し込みを断った身だ。今、お金で買われた私は、シメオン様から見てどういった立ち位置になるのだろう。
そんなことを考えながら、私の行く先を知るであろう馬車をぼんやりと見つめる。
「入って」
店を出てから無言を貫き通していたシメオン様が言葉を発した。
「……え?」
「入れと言った」
感情を削ぎ落としたかのような口調にシメオン様の顔を仰ぎ見ると、声と同様、温かみの感じられない刺すような瞳で私を見下ろしていた。
「っ!」
見たこともないシメオン様の表情に息が詰まる。
「エリーゼ嬢、もう一度言う。自分の足で上がりたいならば早く入れ」
最終警告のような言葉を放たれて、寒気がした私は慌てて馬車の一段目のステップに足をかけた。けれど焦るあまり前のめりに倒れそうになる。するとすぐさまシメオン様が抱き留めてくれた。
「も、申し訳ありません」
甘い雰囲気などない。そこにあるのは恐れのみだ。私は飛び退くように身を起こすと、逃げ場を失うだけなのに自ら馬車に乗り込む。続いてシメオン様が馬車に乗りこんできて私の正面に座ると、合図とともに馬車は緩やかに動き出した。
こんな動く密室から逃げ出すことなどできはしない。それなのに、一分でも逃がす隙を与えないとばかりにシメオン様は黙ったまま私から視線を外さない。
張りつめる空気に異常なほど心臓の鼓動が高まり、耐えられなくなった私は口を開く。
「シ、シメオン様……。どうしてあちらにいらっしゃったのですか。ど、どうして私をお捜しに」
声が震えないようにと注意を払って話したつもりだったけれど、怯えを含んだかすれ声になってしまった。
「君こそ身売りするつもりで行ったのか」
ようやく話してくれるようになったかと思ったら、シメオン様は私の問いかけに問いで返す。口調も先ほどと同じくいつものような柔らかさはない。もしかしたら本当の話し方はこちらなのだろうか。
「シメオン様には、か、関っ」
「関係ない? 私の求婚を断っておいて身売りすることが関係ないと?」
シメオン様は私を見据えながら、言葉に喉に張り付いて出てこない私の言葉を補う。
私はカラカラになった喉を鳴らすと口を開いた。
「ど、どうしてもお金が必要だったのです。店の賃貸料を来月から今の二倍にすると言われて。弟の学費を払い続けるために高給金が見込める所で働くしかなかったのです」
「なるほど。よほど私に嫁ぐことが嫌だったらしい」
「そ、そんなことは!」
いつの間にかうつむいていた顔を跳ね上げると、心の芯まで凍ってしまいそうなシメオン様の冷たい表情が見えた。そんな彼の姿が恐ろしくて私はまたうつむいて膝の上にある握りしめた手を見つめた。
「実際、君は私に嫁ぐことよりも、不特定多数の男に買われることを望んだだろう」
「そ、そうではありません。そういうことでは。……本当はあの日、シメオン様に最後にお会いしたあの日、お、お金をお借りするご相談で伯爵家に伺ったのです」
初めて見るシメオン様の態度に私は混乱していたのだと思う。無意識の内に火に油を注ぐような言い訳をしてしまう。
「結婚に応じれば力になると言ったはずだが、金だけ借りたいとはね」
とんでもない失言をしてしまったことに、自分でも顔から血の気が引くのが分かった。
「も、申し訳、申し訳ございません。期限が迫ってくるのに手立てがなくて、他に頼る方がいなくて、私はシメオン様のご厚意に……甘えようとしてしまいました」
身分の合わない私が結婚の申し出をお受けすることは、シメオン様のお立場を悪くすると思い、恐れ多くて私にはできなかった。けれど、結婚に応じずにお金だけ借りようとしたことは、もっとシメオン様を傷つけて侮辱する行為だった。いいえ。そんなことは最初から分かっていた。分かっていて私は実行しようとしていた。
「本当に……誠に申し訳ございません」
「金が必要で切羽詰まっていたからか。そうだな。金塊を前にして目の色が変わっていたからな」
のろりと顔を上げると、変わらずすべての感情を凍り付かせたようなシメオン様の顔が目に入った。
人生でおよそ経験することのできない、人間の欲を一気に満たし、あふれさせる圧倒的な力を前に目を瞠ってしまうのは当然のこととも思える。一方で、お金に魅入られ、囚われている姿に見えるのも仕方がないのかもしれない。
その姿は、お金を基盤として生きる人間として自然な形なのか、あるいは恥ずべきことなのか、私には決めることはできない。けれど少なくともシメオン様の目には蔑みたくなるほど卑しい姿に映ったのだろう。
「これならなだめすかし愛を囁かずとも、最初から君を金で買うと言えば話は早かったな」
ふっと皮肉げに笑うシメオン様の発言に私は言葉を失った。
愛を囁かずとも? 私のことなど好きではなかったということ? 本当は不本意だったということ……? 嫌々言っていたと。ただ何かの目的のために結婚の話まで持ち出したと、そういうこと?
言葉なく、ただ茫然と見つめると、シメオン様はいつもと違って私の視線を真っ正面から受け止めることなく顔を背けた。
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