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第8話 私にはお金が必要です

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 客人を迎えようと館の扉が開かれた夜のことだった。
 私は自室に引きこもるのではなく、調合の仕事をしようと一階の廊下を歩いていると、少し開かれた応接間から声がもれ聞こえてきた。それも聞きなじみのある男性の声が。

「――るはずだ。エリーゼ・バリエンホルム子爵令嬢が。彼女に会わせてくれ」
「恐れ入りますが、アランブール伯爵」

 やはりシメオン様!
 な、なぜここに? 私をお探しに? でもなぜ!?
 私はさらに話を盗み聞きしようと扉に近付く。

「確かにここにはエリーゼという娘がおりますが、ここにバリエンホルム子爵令嬢はおられません。ここに家名を持つ者はいないのです」
「……なるほど。分かった。ではそのエリーゼという娘を買おう」
「――っ!」

 シメオン様らしからぬ発言に驚いて思わず息詰めてしまう。

「アランブール伯爵。申し訳ございませんが、エリーゼは夜の花では――どちらに?」

 不審そうなご主人の声が聞こえた時、扉が内側から大きく開かれた。その開けた相手は他でもないシメオン様だ。

「シメオン様……」
「エリーゼ嬢。やはりここにいたか」

 見下ろされる瞳がなぜか今日はやけに冷たい気がする。
 シメオン様の後ろに付いて来たご主人が諦めたようにため息をつく。

「アランブール伯爵、腰を下ろして話し合いいたしましょう。エリーゼもお入り」

 私は思わぬ人物の来訪に動揺しながらご主人の言葉に従う。

「エリーゼ嬢」

 私がご主人の横に腰を下ろしたタイミングを見計らってシメオン様が私に呼びかけた。

「ここに身を寄せているということは、借金があるのか」
「そ、それは……」

 エリーゼ嬢と呼ばれるのも、いつもと違った堅い口調も、冷たい視線も傲慢そうに組んだ足も、いつものシメオン様の姿とは程遠くて萎縮してしまう。
 彼は私が返事にせずにいると、側で控える従者さんに視線を流して指示を出す。すると三つの木箱が部屋に運び入れられた。従者さんがその箱を開放すると、木箱の側面すら見えないくらい箱一杯に金塊が詰め込まれていた。
 想像を絶する、あまりにも輝かしい光景に圧倒されて思わず息を呑んだ。ひと箱で王都の一等地に豪邸が建てられるだろう。

「これで足りるか?」

 国一番の娼館のご主人さえもさすがに驚きを隠せなかったらしい。

「そ、それはもちろん、ですが」

 声を詰まらせながら答えた。

「そうか。ではこれで彼女を買う。文句はないな?」
「お、お待ちください! エリーゼは夜の花ではございません。いくら身請け金を積まれても彼女をお引き渡しすることはできません」

 すぐに正気を取り戻したご主人がそう言うと、シメオン様は眉をぴくりと上げる。

「――ああ。まだ足りないのか?」
「そうではありません。エリーゼを店には出しておりませんし、出すつもりもありません。エリーゼをお金で引き取ろうとなさるのは彼女の尊厳を傷つける行為です。どうぞお控えください」
「もうひと箱積めばいいのか? それとももう二箱?」

 話が通じない。いや、話を通じさせない。
 ご主人はぐっと息を詰めた。そして私も、見たことがない傲岸不遜のシメオン様のお姿に混乱して茫然とするのみだ。

「エリーゼ嬢」

 シメオン様の意識が不意に私に移り、現実に引き戻された私はびくりと肩が跳ねた。

「君は金が必要ではないのか?」
「それ、は」

 必要だ。必要に決まっている。お金があれば弟の学費が払える。このお金がお店に入れば、給金が低い夜の花の皆にだって、高額な薬が配給されるだろう。給金も値上げされるかもしれない。メイリーンさんだって夢が叶えられる。人に夢を与え続けるばかりだったメイリーンさんが、けれど自分は夢を見ることさえ許されなかったメイリーンさんが、自分の夢を叶えることができる。メイリーンさんが幸せになることを望んでいるご主人の願いだって叶えられる。
 シメオン様の意図は分からない。けれどシメオン様にお仕えすれば、花毒の薬の開発だって進められるかもしれない。

「私にはお金が……必要です」

 本心が器に収まりきらなかったように、無意識のまま唇から言葉がこぼれ落ちる。

「エリーゼ!」

 ご主人は私をきつくたしなめる。
 きっとご主人は身請けされた者の行く末をご存知なのだろう。身請けされた先で幸せになった者がいたかもしれない。一方で――幸せにはなれなかった者もご存知なのかもしれない。それでも。

「私にはお金が必要です、シメオン様」

 今度は自分の意思できっぱり言い切ると、シメオン様は唇を薄く横に引いた。


「ご主人様。こちらにメイリーンさんとブリジットさん、コレットさんの薬の配合量が書いてあります。体調が良くなってからもひと月は続けるようお伝えください」

 私は部屋から私物を取って戻ってきた後、配合量を書いた紙をご主人に渡した。

「……エリーゼ」
「ご主人様とメイリーンさんには本当にお世話になりました。ご恩は決して忘れません。ありがとうございました。皆さんにもどうぞよろしくお伝えください」

 ご主人が何か言おうとしたけれど私はそれを遮るように礼を述べた。
 メイリーンさんは今、三月に一度訪れるお客様を自分の心を隠して澄まし顔で迎えている。
 ほんの少しだけ見えたその方は、優しげな雰囲気で実直そうな方だった。何よりも純粋にメイリーンさんに恋い焦がれている男性の姿だった。二人の間に試練が訪れたとしても、あの方ならメイリーンさんの手を強く握って引っ張って行ってくれるだろうと思う。そう信じたい。

「メイリーンさんにお伝えください。お二人で幸せになってくださいと。必ず幸せに」
「……分かった。必ず伝えるよ」

 この娼館でお世話になったのは、わずか四日間のみだったけれど、離れるとなると名残惜しさと寂しさが湧き起こる。けれど。

「エリーゼ嬢、行こう」

 その思いを立ち切らせるかのようにシメオン様に促された。

「はい。……ご主人様、本当にありがとうございました」

 私はご主人にもう一度礼を述べると、シメオン様のエスコートを受けて店を後にした。
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