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第3話 罪悪感から顔を背けて

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 シメオン様は私に考える時間を与えてくださった。けれど事態は突如、急展開し、私から猶予を奪い取ろうとしていた。

「賃貸料を二倍に上げるというのはどういうことですか!?」

 土地の所有者であるオータムさんから告げられた言葉に狼狽えてしまう。

「ここは人通りが多いだろう。だから隣の空き店舗と合わせてこの場で店を開きたいという人がいてね。何とかならないかって。私ももちろん一度は断ったんだよ。しかし今の三倍の賃貸料を払うからと言われて」
「そんな……」
「ただ、君を無理やり追い出すというのも後味悪いからね。痛み分けで賃貸料を上げさせてもらえるかね」

 私が払えないのならば、それは事実上の追い出しではないか。いや。分かって言っているのだろう。

「来月から上げさせてもらうから、よろしく頼むよ。もし支払いの都合がつかず、退去を考えるようならまた相談に来ておくれ」

 無情にそれだけ言ってオータムさんは去って行ったが、私は頭を抱えたままソファーから立ち上がれずにいた。

「賃貸料が二倍だなんて」

 今でもライナスの学費を支払えるか否かの、ギリギリのところなのに。もう切り詰められるところなんて残されていない。かといって退去して保証金がある程度戻ってくるとしても、またどこかで新しく店を開くだけのお金もない。そもそもここは住宅を兼ねている物件としては格安なのだ。他ではきっと見つからない。

「どうすれば。どうすれ――」

 はっと顔を上げる。

「シメオン様は私の力になってくれるとおっしゃったわ。だったら結婚すればいい。何をためらうことがあるの。シメオン様と結婚すれば、私はアランブール伯爵夫人になれるんじゃない。将来はアルナルディ侯爵夫人にだって。弟の学費は払えるし、私も生活に困ることはない。バリエンホルム子爵家だって叔父様から取り返せる。それに私だってシメオン様のことを少なからず……お慕いしている」

 口に出して自分自身を懸命に説得するのは、通常では考えられない夢のような話だからだろう。けれど現実とはやはり厳しいものだ。ましてそれが貴族となると、個人の感情で結婚相手を決めることは許されない。仮にも貴族とは言え、問題を抱える娘と結婚するとなれば、シメオン様のお立場を悪くしてしまうに違いない。

「そうだ。すぐの結婚は考えられないけれど、何とか力を貸してほしいと、お金をお借りすれば」

 ……でも借りてどうするの? ライナスの学園卒業までの四年分を返せる保証はある? いつまでに返せる? そもそもシメオン様のご厚意を利用して自分の要求だけを通し続けるつもり?
 そう思うのに、罪悪感に気付かないふりして糸で引っ張られたかのように、のろりと立ち上がった。


 アランブール伯爵の屋敷を目の前にして私は呆然と立ち尽くした。
 爵位の形では子爵よりも一つだけ上の伯爵だが、きっと資産は想像以上の桁違いとなるのだろう。立派な門構えから遠く見える所に畏怖さえ感じさせる荘厳な屋敷を構えていた。
 私は息を呑むと、一歩足を踏み出して門衛さんに近付く。

「あ、あの。私はエリーゼ・バリエンホルムと申します。シメオン・ラウル・アランブール伯爵にお目通りできるでしょうか」

 門衛の教育まで行き届いているのだろう。貴族の娘らしい装いではない私に対しても不躾な視線を送ることはない。けれど、心の奥まで見通そうとするような瞳で見つめられる。

「申し訳ございません。本日ご訪問予定のないお客様のご案内はいたしかねます」
「そ、そうですね。申し訳ございません。で、出直します」

 静かだが、確かな威圧感を覚えて腰が引けそうになりながら、私は礼を取ると身を翻す。商業区から辻馬車に乗るために、貴族居住区を歩いて戻っていると、一台の馬車が私と反対方向へと向かって行くのが見えた。

 これで良かったのかもしれない。ここで会えずに帰ることになって良かったのかもしれない。オータムさんに賃貸料の値上げを言い渡された時は、あまりの驚きに交渉すらできる状況ではなかったけれど、改めてオータムさんと賃貸料の相談をしてみよう。これまで賃貸料の支払いを滞らせたことはない。交渉次第ではもう少し安くしてくれるかもしれない。駄目ならもっと賃貸料の安い所を探して、来月の学費分と新しいお店を開くために今月いっぱいまで今の店で稼ぐ。……あと二十日間ほどで果たしてそんなことができるだろうか。
 震える両手を握り合わせていると。

「エリーゼさん?」

 聞きなじみのある男性の声にはっと足が止まる。
 振り返ってはいけない。振り返ればもう引き返せない。振り返るな。
 誰かが警告をするのに、私はその声に抗って振り返った。そこにいたのは馬車から地に降り立っていたシメオン様だった。
 シメオン様は、返事もせずに棒立ちしている私の元へ駆け足でやって来る。

「エリーゼさん、どうしてここに。もしかして私に会いにここまで?」

 はいとも、いいえとも言えずに言葉を詰まらせていると、シメオン様は私の背中に手を当てた。

「何だか顔色が悪いな。私の屋敷はすぐそこなんだ。休んでいくといい」
「い、いいえ。平気です。お気遣いありがとうございます」
「そうか。それなら良かった。しかし、私は外から戻って来たばかりでお茶にしたいと思っていたんだ。時間があるのならば私に付き合ってくれないかい?」
「い、いえ。その」

 どもる私にシメオン様は穏やかな笑みを向ける。

「一人だと味気なくてね。付き合ってくれるとありがたい」
「……は、い。ではお言葉に甘え、まして」
「良かった。では行こう」

 私はシメオン様のエスコートを受けて馬車に乗せられ、来た道を戻る。
 間もなく止まったかと思うと門の所までやって来た。シメオン様は窓を開けると、先ほどの門衛さんが駆け寄って来た。

「私の外出中に訪問者は?」
「本日は――」

 シメオン様から尋ねられた門衛さんは、馬車の中にいる私に気付いたようだ。言葉を途切れさせた。反射的に私は彼から顔を背ける。

「本日は誰もいらっしゃいませんでした」
「そうか。分かった。ありがとう。引き続きよろしく」
「はっ」

 門衛さんは一礼を取ると、門を開ける指示を送るために持ち場に戻った。
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