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第29話 胸が寂しい
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昨日から少々落ち込んでいたものの、私はいつものように朝、レイヴァン様のお見送りし、そして夕方お出迎えをする。
「コてぃーンまイヤー、アむーるレイヴァン」
礼を取って挨拶するとレイヴァン様は足を止めて口を開いた。
「ああ。リシー」
そこまで言ったところで、モーリスさんが目で何かの合図を飛ばす。するとレイヴァン様は表情を少し変えた後、一つ咳払いした。
「ありがとう。……クリスタル」
「え?」
今、王女を付けなかった? ただのクリスタルだった?
マノンさんに振り返ったが、彼女は特に意識していなかったようだ。むしろ私の反応に首を傾げている。
「クリスタル」
再び呼ばれて私は慌ててレイヴァン様に視線を戻す。やはり王女という意味のリシーズは付けられていない。
「は、はい」
呼び方が変わっただけで昨日からの沈んだ気持ちが嘘のように消え去り、代わりに嬉しさで胸がとくとくといつもより早い鼓動が打つ。
レイヴァン様は続けて私に何かを言った。マノンさんに振り返ると彼女は困ったように眉尻を下げている。
「どうかしたのですか」
「ええと。お、恐れながらそのまま訳します。昨日から考えていたが、やはり胸が寂しすぎるから耳飾りも用意してもらうことにしよう、とおっしゃいました」
「胸が……寂しい?」
私は確認するために自分の胸元へ視線を下ろす。続いて胸に手を当てて滑らせると、確かにストンと手が落ちることに気が付いた。もしや、いえ、もしかしなくても私の胸が小さくて寂しいと、と皆の前でおっしゃっているのだろうか。
存在を主張していたはずの鼓動が気付けばおとなしくなっている。同時に場もしんと静まり返っている。
何かに気付いたモーリスさんがレイヴァン様に肘打ちして耳元に囁くと、レイヴァン様がはっと表情を変えて早口でまた何かを言った。その言葉を追いかけるようにマノンさんは訳してくれる。
「違う! 今のは間違いだ! 昨日の胸元の飾りだけでは寂しすぎるから、ネックレスと合わせた耳飾りも用意してもらうことにしようと言いたかったんだ! だそうです……」
私がレイヴァン様を仰ぎ見ると、彼はかっと頬を染めて顔を隠すように前髪に手を差し込みつつそっぽを向いた。
初めてクリスタルと呼んでくれたとか、高い買い物になったことを怒っていなかったどころか、さらに耳飾りの購入も考えてくださっていたなんてとか、こんな照れた様子のレイヴァン様を見るのは初めてだとか、色々感慨に浸りたかったはずなのに、衝撃的な言葉を受けたせいですべて吹っ飛んでしまう。
「……え、エふぁリスとライあー」
本当に単なる言い間違えだけだったのか、あるいはネックレスを胸に付けるところを想像してみて、それでもまだまだ本体自体の胸が寂しそうだと思ってうっかり本音がもれた結果だったのか。どちらにしろ語彙力がない私は、ありがとうございますと答えるしかなかった。
夕食までサロンのソファーで待機している私は、昨日と少し違った沈み方をしている。女性として胸が寂しいことは悲しいことだと本能的に感じているのだ。これまで何も思わなかったのに、考えたことすらなかったのに、今はやけに重くのしかかってくるのはなぜだろう。
「ク、クリスタル様! そんなにお気を落とされないでください。レイヴァン様はほんの少しお言葉を落とされてしまっただけですよ!」
「マノンさん……お気を遣ってくださってありがとうございます」
我ながらどろりと濁っているであろう瞳を向けると、マノンさんは顔を引きつらせて笑った。
「あ、ほら。クリスタル様は少食でいらっしゃるから。これまで少ない栄養が胸まで届かなかっただけですよ! これからお食事をしっかりお取りになれば、胸なんてあっと言う間に豊かになりますよ!」
「本当ですか? しっかり食事を取ったら胸が豊かになるのですか?」
「た、多分です、ハイ」
なぜかそっと視線を逸らすマノンさん。
「そうですか。初夜に向けてしっかり食事を取らなければなりませんでしたから、そうだとしたら一挙両得ですね」
「え、ええ。そうとも言いますね。そうとしか言えない気もしますが。よく分からなくなってきました」
「ところで一つお聞きしたいのですが、マノンさんはお食事をしっかり取っておられますか」
「ええ! もちろんですよ。体が資本ですからね! しっかり取っております」
マノンさんは目を伏せて、自分の胸を拳でとんと叩いた。私はそんな彼女を見ながら頷く。
「そうですか。では胸が豊かになるのは、食事量だけではないということなのですね」
「ええ、そうですね。……ん? 少しお待ちくださいな。それってどういう意味でしょうか!?」
片目を開けたマノンさんが尋ねてきたその時、サロンの扉が叩かれた。
どうぞとサンティルノ語で答えると失礼いたしますと言ってミレイさんが入って来る。横にはルディーさんも控えている。ミレイさんがルディーさんの教育係と聞いているので、お二人はいつも一緒にいるようだ。
「クリスタル様、夕食のご用意ができました。ご案内いたします、とのことです」
マノンさんがすぐに伝えてくれる。発音はまだできないけれど、この言葉は繰り返し聞いているので、理解はできるようになった。
「エふぁリスとライあー」
私はソファーから立ち上がるとミレイさんの元へと歩いていき、ふと気づいたことがあって彼女の前で止まった。そのまま自然の流れで私の手は彼女の胸に当てていた。自分の胸とは違って存在感のある胸だ。ふっくらと柔らかく、弾力性もある。
「――っ!?」
いつもはほとんど感情を表に出さないミレイさんが驚いたようにわずかに目を見開いた。横にいるルディーさんは完全に目を丸くしている。
「ミレイさんのお胸は豊かでいらっしゃるのですね。一体何を食べていらっしゃるのですか? 何がお好みで口にしていらっしゃるのですか? 食事の他に気を付けていらっしゃることはおありですか? ――とお尋ねしていただけますか、マノンさん」
「……承知いたしました。だけど、だけどクリスタル様。早く胸から手をお離ししてあげてください!」
「あ」
固まったままのミレイさんから手を離してスキューズモアと謝罪した。
「コてぃーンまイヤー、アむーるレイヴァン」
礼を取って挨拶するとレイヴァン様は足を止めて口を開いた。
「ああ。リシー」
そこまで言ったところで、モーリスさんが目で何かの合図を飛ばす。するとレイヴァン様は表情を少し変えた後、一つ咳払いした。
「ありがとう。……クリスタル」
「え?」
今、王女を付けなかった? ただのクリスタルだった?
マノンさんに振り返ったが、彼女は特に意識していなかったようだ。むしろ私の反応に首を傾げている。
「クリスタル」
再び呼ばれて私は慌ててレイヴァン様に視線を戻す。やはり王女という意味のリシーズは付けられていない。
「は、はい」
呼び方が変わっただけで昨日からの沈んだ気持ちが嘘のように消え去り、代わりに嬉しさで胸がとくとくといつもより早い鼓動が打つ。
レイヴァン様は続けて私に何かを言った。マノンさんに振り返ると彼女は困ったように眉尻を下げている。
「どうかしたのですか」
「ええと。お、恐れながらそのまま訳します。昨日から考えていたが、やはり胸が寂しすぎるから耳飾りも用意してもらうことにしよう、とおっしゃいました」
「胸が……寂しい?」
私は確認するために自分の胸元へ視線を下ろす。続いて胸に手を当てて滑らせると、確かにストンと手が落ちることに気が付いた。もしや、いえ、もしかしなくても私の胸が小さくて寂しいと、と皆の前でおっしゃっているのだろうか。
存在を主張していたはずの鼓動が気付けばおとなしくなっている。同時に場もしんと静まり返っている。
何かに気付いたモーリスさんがレイヴァン様に肘打ちして耳元に囁くと、レイヴァン様がはっと表情を変えて早口でまた何かを言った。その言葉を追いかけるようにマノンさんは訳してくれる。
「違う! 今のは間違いだ! 昨日の胸元の飾りだけでは寂しすぎるから、ネックレスと合わせた耳飾りも用意してもらうことにしようと言いたかったんだ! だそうです……」
私がレイヴァン様を仰ぎ見ると、彼はかっと頬を染めて顔を隠すように前髪に手を差し込みつつそっぽを向いた。
初めてクリスタルと呼んでくれたとか、高い買い物になったことを怒っていなかったどころか、さらに耳飾りの購入も考えてくださっていたなんてとか、こんな照れた様子のレイヴァン様を見るのは初めてだとか、色々感慨に浸りたかったはずなのに、衝撃的な言葉を受けたせいですべて吹っ飛んでしまう。
「……え、エふぁリスとライあー」
本当に単なる言い間違えだけだったのか、あるいはネックレスを胸に付けるところを想像してみて、それでもまだまだ本体自体の胸が寂しそうだと思ってうっかり本音がもれた結果だったのか。どちらにしろ語彙力がない私は、ありがとうございますと答えるしかなかった。
夕食までサロンのソファーで待機している私は、昨日と少し違った沈み方をしている。女性として胸が寂しいことは悲しいことだと本能的に感じているのだ。これまで何も思わなかったのに、考えたことすらなかったのに、今はやけに重くのしかかってくるのはなぜだろう。
「ク、クリスタル様! そんなにお気を落とされないでください。レイヴァン様はほんの少しお言葉を落とされてしまっただけですよ!」
「マノンさん……お気を遣ってくださってありがとうございます」
我ながらどろりと濁っているであろう瞳を向けると、マノンさんは顔を引きつらせて笑った。
「あ、ほら。クリスタル様は少食でいらっしゃるから。これまで少ない栄養が胸まで届かなかっただけですよ! これからお食事をしっかりお取りになれば、胸なんてあっと言う間に豊かになりますよ!」
「本当ですか? しっかり食事を取ったら胸が豊かになるのですか?」
「た、多分です、ハイ」
なぜかそっと視線を逸らすマノンさん。
「そうですか。初夜に向けてしっかり食事を取らなければなりませんでしたから、そうだとしたら一挙両得ですね」
「え、ええ。そうとも言いますね。そうとしか言えない気もしますが。よく分からなくなってきました」
「ところで一つお聞きしたいのですが、マノンさんはお食事をしっかり取っておられますか」
「ええ! もちろんですよ。体が資本ですからね! しっかり取っております」
マノンさんは目を伏せて、自分の胸を拳でとんと叩いた。私はそんな彼女を見ながら頷く。
「そうですか。では胸が豊かになるのは、食事量だけではないということなのですね」
「ええ、そうですね。……ん? 少しお待ちくださいな。それってどういう意味でしょうか!?」
片目を開けたマノンさんが尋ねてきたその時、サロンの扉が叩かれた。
どうぞとサンティルノ語で答えると失礼いたしますと言ってミレイさんが入って来る。横にはルディーさんも控えている。ミレイさんがルディーさんの教育係と聞いているので、お二人はいつも一緒にいるようだ。
「クリスタル様、夕食のご用意ができました。ご案内いたします、とのことです」
マノンさんがすぐに伝えてくれる。発音はまだできないけれど、この言葉は繰り返し聞いているので、理解はできるようになった。
「エふぁリスとライあー」
私はソファーから立ち上がるとミレイさんの元へと歩いていき、ふと気づいたことがあって彼女の前で止まった。そのまま自然の流れで私の手は彼女の胸に当てていた。自分の胸とは違って存在感のある胸だ。ふっくらと柔らかく、弾力性もある。
「――っ!?」
いつもはほとんど感情を表に出さないミレイさんが驚いたようにわずかに目を見開いた。横にいるルディーさんは完全に目を丸くしている。
「ミレイさんのお胸は豊かでいらっしゃるのですね。一体何を食べていらっしゃるのですか? 何がお好みで口にしていらっしゃるのですか? 食事の他に気を付けていらっしゃることはおありですか? ――とお尋ねしていただけますか、マノンさん」
「……承知いたしました。だけど、だけどクリスタル様。早く胸から手をお離ししてあげてください!」
「あ」
固まったままのミレイさんから手を離してスキューズモアと謝罪した。
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