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図書館の“あれ”
第一話
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「図書館の書庫を使うのには慣れた?」
大学院に進学して、しばらくした頃。
図書館の使い方や効率のよい文献の調べ方を丁寧に教えてくれていたN先輩が、私に尋ねた。
彼は、「図書館の主」と陰で呼ばれるほど、毎日、朝から晩まで図書館に詰めて勉強している。大学院といっても、私が進学した学科は「日本文学研究科」であり、理系の学生のように実験を繰り返すため研究室に詰めることも、社会学や民俗学の学生のようにフィールドワークに出ることもほとんどない。
稀に、日本各地を巡って、近現代有名作家自筆の初稿原稿や、散逸したと思われていた中世や近世の古文献を見つけるといった研究を行っている者もいるが、ほとんどの者は自分の頭の中で理論を組み立て、論文や学会で発表をするという地味な作業の繰り返しを選んでいる。
そのためには、自分が専門とする作品に関わる膨大な資料を、まず図書館の閉架書棚の中から探り当てる、宝探しのような作業から始めねばならなかった。
大学生の頃は、たくさんの書物が眠っている閉架書棚のあるエリアに自由に出入りできる大学院の先輩や、先生方のことを、まるで特権階級の人物かのように、羨ましく眺めていた。
大学生、いわゆる学部生と言われるうちは、図書館でも開架エリアにしか入ることができず、書庫にある本は、図書館の司書の先生たちに一冊ずつ請求して出して来てもらわねばならなかった。
(ああ、早くあの閉架の書庫に入れたらいいのに……、貴重書も自分で自由に手に取って、研究に使えるなんて)
と、宝の島に入ることができる日を、私はうずうずと待っていた。
無事、大学院の入試を通過して、初めて足を踏み入れた閉架書棚のある書庫は、明治や大正に印刷された古い書物のカビの臭いと、最新の研究書が印刷された新しいインクと紙の匂いが混じった、不思議な空間だった。
宝の島というより、ダンジョンだ。
そして、古い書物の劣化を防ぐためなのか、開架エリアよりも、照明が落とされて薄暗く、そして涼しい。
それが、私の第一印象だったと思う。
最初は、そのダンジョンの中から何をどう掘り出していいかわからないから、N先輩につきっきりで、資料の探し方を教えてもらった。なぜ、N先輩かというと、それは彼がいつも図書館にいるからだ。
「図書館の書庫を使うのには慣れた?」
そう尋ねられた頃の私は、ある程度、自分でお宝を探すことができるようになっていた。
「はい、おかげさまで。どうもありがとうございます」
そう笑顔で答えた私に、N先輩は声をひそめる。
「そういえば……、Yさんはまだ、“あれ”に遭ってないかなぁ?」
ふだんの、研究のことを語るときの口調とは明らかに違う。何か触れてはいけないことを語るような様子だった。
「“あれ”……とは? 何ですか?」
私には、本当にわからなかったのだ。
実は、あれほど楽しみにしていた閉架の書庫に、私はまだ長居することができずにいた。
図書館の開架エリアは、常にたくさんの学生で賑わっていて、あるフロアに一人きりになる、ということなど開館時間直後であってもまずあり得ない。
しかし、閉架書庫のエリアは違った。
地下1階から地下4階まで続く広い閉架書庫。本を探している間、まったく誰とも会わないこともよくあるし、遅い時間になると、地下2階には自分一人しかいないというようなことも頻繁にあった。
最初は、まるで自分専用の広い研究室ができたようで、単純に嬉しかった。
それが、大学院に入って一ヶ月も経つと、苦痛になった。
後ろが気になるのだ。
書棚から必要な本を何冊か手に取り、一人用の机に持って行き、本を開く。
しばらくすると、後ろから誰かに見られているような、落ち着かない気分になって、本を読んでいられなくなるのである。
それは、夜中にシャワーを浴び、顔を洗っているとき、背後に人の気配が感じられるような気がするけれど、怖いし、泡が目に入るしで、目が開けられない。そんな気配に似ていた。
だから、私は大学院に進学して一ヶ月経った頃には、閉架エリアで勉強することをやめてしまっていた。もちろん、研究は続けなければいけないので、必要な資料をすべてコピーして家に持って帰る。そして、持ち帰った資料を使って、家で研究を進めていた。
不経済だが、私にはそうすることしかできなかったのだ。
N先輩は言った。
「“あれ”は、閉架書庫の一人机で勉強しているとやって来るんだ」
「やって来る……んですか?」
「そう、足音がまず聞こえる。遠くから、少しずつ近付いて来る。そして、背後に気配を感じる」
「……」
「ずっと、僕たちの読む本を一緒に読んでいるような……あるいは、ちゃんと勉強しているか見張っているような……。そんな感じかな。振り返って見ても誰もいないよ。あ、でも見える人は、姿を見ているみたいだけど」
「何なんですか、……“あれ”とは?」
「さあ、僕は気配だけで、まだ見たことがないから、わからないなぁ」
そう言って、N先輩は笑った。
大学院に進学して、しばらくした頃。
図書館の使い方や効率のよい文献の調べ方を丁寧に教えてくれていたN先輩が、私に尋ねた。
彼は、「図書館の主」と陰で呼ばれるほど、毎日、朝から晩まで図書館に詰めて勉強している。大学院といっても、私が進学した学科は「日本文学研究科」であり、理系の学生のように実験を繰り返すため研究室に詰めることも、社会学や民俗学の学生のようにフィールドワークに出ることもほとんどない。
稀に、日本各地を巡って、近現代有名作家自筆の初稿原稿や、散逸したと思われていた中世や近世の古文献を見つけるといった研究を行っている者もいるが、ほとんどの者は自分の頭の中で理論を組み立て、論文や学会で発表をするという地味な作業の繰り返しを選んでいる。
そのためには、自分が専門とする作品に関わる膨大な資料を、まず図書館の閉架書棚の中から探り当てる、宝探しのような作業から始めねばならなかった。
大学生の頃は、たくさんの書物が眠っている閉架書棚のあるエリアに自由に出入りできる大学院の先輩や、先生方のことを、まるで特権階級の人物かのように、羨ましく眺めていた。
大学生、いわゆる学部生と言われるうちは、図書館でも開架エリアにしか入ることができず、書庫にある本は、図書館の司書の先生たちに一冊ずつ請求して出して来てもらわねばならなかった。
(ああ、早くあの閉架の書庫に入れたらいいのに……、貴重書も自分で自由に手に取って、研究に使えるなんて)
と、宝の島に入ることができる日を、私はうずうずと待っていた。
無事、大学院の入試を通過して、初めて足を踏み入れた閉架書棚のある書庫は、明治や大正に印刷された古い書物のカビの臭いと、最新の研究書が印刷された新しいインクと紙の匂いが混じった、不思議な空間だった。
宝の島というより、ダンジョンだ。
そして、古い書物の劣化を防ぐためなのか、開架エリアよりも、照明が落とされて薄暗く、そして涼しい。
それが、私の第一印象だったと思う。
最初は、そのダンジョンの中から何をどう掘り出していいかわからないから、N先輩につきっきりで、資料の探し方を教えてもらった。なぜ、N先輩かというと、それは彼がいつも図書館にいるからだ。
「図書館の書庫を使うのには慣れた?」
そう尋ねられた頃の私は、ある程度、自分でお宝を探すことができるようになっていた。
「はい、おかげさまで。どうもありがとうございます」
そう笑顔で答えた私に、N先輩は声をひそめる。
「そういえば……、Yさんはまだ、“あれ”に遭ってないかなぁ?」
ふだんの、研究のことを語るときの口調とは明らかに違う。何か触れてはいけないことを語るような様子だった。
「“あれ”……とは? 何ですか?」
私には、本当にわからなかったのだ。
実は、あれほど楽しみにしていた閉架の書庫に、私はまだ長居することができずにいた。
図書館の開架エリアは、常にたくさんの学生で賑わっていて、あるフロアに一人きりになる、ということなど開館時間直後であってもまずあり得ない。
しかし、閉架書庫のエリアは違った。
地下1階から地下4階まで続く広い閉架書庫。本を探している間、まったく誰とも会わないこともよくあるし、遅い時間になると、地下2階には自分一人しかいないというようなことも頻繁にあった。
最初は、まるで自分専用の広い研究室ができたようで、単純に嬉しかった。
それが、大学院に入って一ヶ月も経つと、苦痛になった。
後ろが気になるのだ。
書棚から必要な本を何冊か手に取り、一人用の机に持って行き、本を開く。
しばらくすると、後ろから誰かに見られているような、落ち着かない気分になって、本を読んでいられなくなるのである。
それは、夜中にシャワーを浴び、顔を洗っているとき、背後に人の気配が感じられるような気がするけれど、怖いし、泡が目に入るしで、目が開けられない。そんな気配に似ていた。
だから、私は大学院に進学して一ヶ月経った頃には、閉架エリアで勉強することをやめてしまっていた。もちろん、研究は続けなければいけないので、必要な資料をすべてコピーして家に持って帰る。そして、持ち帰った資料を使って、家で研究を進めていた。
不経済だが、私にはそうすることしかできなかったのだ。
N先輩は言った。
「“あれ”は、閉架書庫の一人机で勉強しているとやって来るんだ」
「やって来る……んですか?」
「そう、足音がまず聞こえる。遠くから、少しずつ近付いて来る。そして、背後に気配を感じる」
「……」
「ずっと、僕たちの読む本を一緒に読んでいるような……あるいは、ちゃんと勉強しているか見張っているような……。そんな感じかな。振り返って見ても誰もいないよ。あ、でも見える人は、姿を見ているみたいだけど」
「何なんですか、……“あれ”とは?」
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