夢列車

トンボ

文字の大きさ
上 下
2 / 4

凍える瞳の玲瓏少女

しおりを挟む

 玄関のドアを閉じ、外側からカギをかけた。
 マンションの廊下を歩きながら右目を閉じ、下の駐車場のところでゴミ袋を出しにいく住人を視界を隅で見ながら、何とか流血が止まった左目の視力を確認する。視力は別に下がっていないようだ。どこにも異常はない。

 時刻は7時。
 アザミはエレベーターに乗ろうとボタンに手をかけるがその手を止めて、少し考えてから階段で降りることにした。最近、特にこのようなおかしな現象が起こっている最中において、エレベーターなどの自室以外の密室空間は自然と避けるようになっていた。ドアが閉じられ、再びドアが開けられたところで、そこから見える景色がいつものものだとは限らない。箱の中にいる限り、外の世界がどうなっているかは分からないのだから。それがたった数センチの鉄の壁だったとしても、外を見ることができない。観測できない限り、外のあるものを確定することはできない。生と死が重なり合う猫は存在しないとしても。

 階段を下りて、いつもの住宅街の小さな車道に出た。黄色い帽子を被った小学生の集団が、ポツポツと見え始めている。それ以外にも車庫から出てくる車や、黄色い旗を持った保護者がミラーのない交差点で見張っていたり、いつもの光景が広がっていた。

 ふいに、電柱の影に塀の2倍はある人影が、その隣を歩く児童を上から訝しげにのぞいている気がして、思わず二度見した。

 そこに人影はない。

 無いものを在るように見えてしまうのは、見えないものに怯えているからだ。アザミは胸に手を当て深呼吸する。ここは安全だ。ここには、誰もいない。

 最初は普通に歩き出した。しかし早歩き、小走り、と速度が上がっていき、息が上がってきた頃には例の寂れた雑居ビルに着いていた。
 その2階の窓に大きく『貸しコンテナ ムカカト』と張り出されたビルは、全ての階が貸しコンテナルームに改装されており、時間帯も相まって雰囲気すら冷たい。歩道を通る人々が見向きもせずに通り過ぎていくそのビルへ、ガラス戸を押して入った。窓はブラインドで仕切られているため、屋内の電灯がついていることに気づく人はいない。

「やあ。おはよう」

 アザミが入ると、閉じられたノートパソコンだけが置かれている質素な白い机の上に腰を下ろしていた女性が、凍り付いた瞳で笑った。それを見るたび、アザミはここに来たことを後悔するほど、その瞳が嫌いだった。それを見続けていると、いつか知らないうちに凍死してしまうのではないかという、根も葉もない心配が増幅するのだ。長い黒髪が、雪女を連想させているせいなのかもしれない。
 机に座る行儀の悪い者に遠慮する必要はない。アザミは勝手に隅に立てかけてあったパイプ椅子を引っ張ってきて、女性の前に置くと座った。そして一息つく。ここは安全だ、それだけは事実だった。

「それ、誰の血だい?」

 はっとして顔を上げると、眼前にはすでに女性の顔が近づいていた。見上げたアザミの頬を彼女の白い指が伝い、左目まですーっと上っていく。それから下まつげに到達すると指を顔から離し、その手を口に持ってきてペロリと舌で舐めた。

 気持ちが悪い。が、アザミはなんだか肩の荷が降りたような、不気味な安心感にとらわれていた。彼女になでられた部分を、自分の指の軌道で上書きするように撫でると、彼女の凍える瞳をじっと見つめる。

「血が、流れていたんですか」

「いや。透明な血がついていたんだよ」

 彼女の言葉にゴクリと唾を呑んだ。かつて彼女の言った言葉が頭の中に響く。

 ――『人を斬ると血が出るのに、幽霊は斬っても血が出ないというのは間違いだ。人の子として生きた者なら、その理に沿って血が通うものなのさ。見えるかどうかは別としてね』。

 アザミだって彼女の言うこと一つ一つを信じているわけではない。しかし、彼女は普通の人とは違う何かであることは以前のとある事件から分かっていた。だから、少なくても今はその言葉を飲み込むようにしている。例え、納得のいかないことでも。

「話を聞いてくれますか」

「ん~? どうしようかな。ちょっと待ってね」

 彼女はそう言ってジーンズのポケットを探り始めると、困った顔をして体を反転させ、机の引き出しに手を伸ばした。1段目を探り、次の2段目の引き出しにお目当てのものがあったのか、勢いよく1段目と2段目の引き出しをしまうと、再びアザミと向き合った。
 手の中にあるのはボイスレコーダー。

「いいよ」

 ボイスレコーダーのスイッチを押し、彼女はアザミの言葉を待つ。この人はアザミの話を一語一句保存するつもりなのだ。これは彼女の常とう手段で、何かあるとすぐに音声として保存するクセがある。そして何故か携帯のボイスメモ機能ではなく、決まってボイスレコーダーを引っ張ってくるのだ。

 アザミが夢の中で奇妙な電車に乗っていたこと、その夢が妙にリアルであったこと、そしてその話の顛末から、目が覚めた後の目の流血について全てを話し終えると、彼女は話が終わったのにも関わらず、レコーダーで録音したまま、数秒の間黙っていた。聞こえるのは壁に立てかけられた業務用の時計のカチカチという秒針の音のみ。アザミが沈黙に耐え切れなくなったところで、彼女はボイスレコーダーを止めた。

「とりあえず、病院に行った方がいいな。目が見えなくなるということは、いや、とにかく行った方がいい」

 考えていたようなオカルト的なものではなく、現実的でまともなアドバイスを受け取って、アザミは思わず面を食らった。女性は続ける。

「2駅先の眼科にかかるといい。今すぐに。電車に乗って、200円ちょいでいける」

 話は終わりだ、と言わんばかりに彼女はテーブルから降り、電灯を消す。しかしアザミは何だか腑に落ちなかった。

 あの夢の中でのことも、目が覚めたあとのことも、全てそういう現象とは無関係というのだろうか。夢で遭ったことは本当にただの夢で、朝に流れた血は本当にただの目の不良なのだろうか。いいや、それだけは絶対に違う気がする。夢とその後の出来事はリンクしているし、今もその影響から逃れられていないと、そう実感できるからだ。

 アザミは思わず叫んだ。

「スクナさん!」

「話は終わり。はよ病院行け」

 それからはロクに取り合ってもらえず、最終的に雑居ビルの1階から追い出されたのだった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

血だるま教室

川獺右端
ホラー
月寄鏡子は、すこしぼんやりとした女子中学生だ。 家族からは満月の晩に外に出ないように言いつけられている。 彼女の通う祥雲中学には一つの噂があった。 近くの米軍基地で仲間を皆殺しにしたジョンソンという兵士がいて、基地の壁に憎い相手の名前を書くと、彼の怨霊が現れて相手を殺してくれるという都市伝説だ。 鏡子のクラス、二年五組の葉子という少女が自殺した。 その後を追うようにクラスでは人死にが連鎖していく。 自殺で、交通事故で、火災で。 そして日曜日、事件の事を聞くと学校に集められた鏡子とクラスメートは校舎の三階に閉じ込められてしまう。 隣の教室には先生の死体と無数の刃物武器の山があり、黒板には『 35-32=3 3=門』という謎の言葉が書き残されていた。 追い詰められ、極限状態に陥った二年五組のクラスメートたちが武器を持ち、互いに殺し合いを始める。 何の力も持たない月寄鏡子は校舎から出られるのか。 そして事件の真相とは。

教師(今日、死)

ワカメガメ
ホラー
中学2年生の時、6月6日にクラスの担任が死んだ。 そしてしばらくして不思議な「ユメ」の体験をした。 その「ユメ」はある工場みたいなところ。そしてクラス全員がそこにいた。その「ユメ」に招待した人物は... 密かに隠れたその恨みが自分に死を植え付けられるなんてこの時は夢にも思わなかった。

寝落ち通話

なつのさんち
ホラー
寝落ち通話って知ってますか? 顔も名前も知らない相手と、眠りに落ちるまでお喋りする通話なんです。 でもそれって怖くない? 人間、寝ている時が一番無防備なんだもの。

白蛇様の祟り

白雪の雫
ホラー
良質の水と温泉に恵まれている若葉村は白蛇様を信仰している村だ。 そんな若葉村に一人の少女が転校してきた。 白蛇信仰を馬鹿にした彼女は儀式の日にご神体を蹴飛ばしてしまう。 ほん〇のように主人公視点による語りで、ホラーものを読んでいたら書きたくなってしまいました。 ゆるふわ設定でご都合主義です。 ホラーのタグがついていますが、そんなに怖くありません。

六芒星、かごめ歌の謎

坂崎文明
ホラー
 ある日、僕の右手の甲に奇妙な紋様が浮かび上がった。  それは六芒星、かごめ紋ともいう。  その日から僕は『かごめかごめ』の歌にちなんだ不思議な現象に巻き込まれることになる。

狂気と蠢く影の源泉

駄犬
ホラー
 見たくないものに蓋をして、遠ざけることは生きていく上で必ず一つや二つ、あって当然だろう。しかしこの二人、まるで何事もなかったかのようにそれを受け入れて生きていくには、余程の朴念仁でなければなし得ない、重いものを背負ってしまった。

8階の話をするな

あらいりゅうじ
ホラー
どこまでが本当の話で、どこまでが創作なのか。作者自身が分からない旧帝都の怪奇を描く近時代劇 平成のブラック企業よ!これが昭和のブラックだ!

結末のない怖い話

雲井咲穂(くもいさほ)
ホラー
実体験や身近な人から聞いたお話を読める怪談にしてまとめています。 短い文章でさらっと読めるものが多いです。 結末がカチっとしていない「なんだったんだろう?」というお話が多めです。

処理中です...