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第三章 コルマノン大騒動
62 もどかしい空間
しおりを挟むシルヴァは寄り掛かてきたシアンを何の凹凸もなくさらりと自分の体からどける。そして内心ちょっと安心して小さくため息をついた。
シアンはシルヴァと離れてからは再びくっつこうとはしなかったが、シルヴァの方を向いて不服そうに頬を膨らませる。
「どけることないじゃん」
「ダメです……よからぬことになってしまう」
先に言っておくが、シルヴァは油断していたわけではない。ただシルヴァはこちらを向いて可愛らしく拗ねるシアンに隙を突かれただけであって、少し錯乱していたのだ。普段は見ないようなジト目を前にして、シルヴァはグッときてしまった。ギャップ萌え、とかいう言葉があるのはそういう現象が起こりえるからあるのであって、今のシルヴァはまさに『ギャップ萌え』に射抜かれてしまったのだ。
「……へ? よからぬ……?」
「今のなし! あー! 気の迷いっていうか」
シルヴァが失言をしてしまったことに気づいたけれど、時はもう遅し。その言葉はすでにシアンの耳へと届いており、シアンは獣耳を垂らして首を傾げていた。
必死でどうにかリカバリーをしようとするシルヴァであったが、そうすることでさらに混乱して、よりよい言い訳が思いつくどころか、混乱がさらに深くなっていく。
「ふーん……そ、そうなんだぁ」
シアンはそんなシルヴァをしっかりと観察していた。そしてシルヴァの口に言えない内情を察すると、にやりと笑ってそう呟いたのだ。
シアンはゆっくりと、四つん這いでシルヴァに近づく。近づいた彼女の右手がシルヴァの膝の上に乗っけられて、その感覚にシルヴァはぎょっとして混乱さえもが吹っ飛んだ。そして彼の視線はそのまま急接近してきたシアンに向けられる。
「……」
「……」
二人はその状態のままでじっと見つめ合う結果となった。
シルヴァはこの状況でとりあえず心臓の鼓動がありえないぐらいに加速していた。その鼓動がシアンにまで聞こえてしまうのではないかと心配してしまうほどに。
――この時、シルヴァの瞳は確かにシアンを映していた。しかしシルヴァの意識はシアンをじっくり見ていられるほど、平常がなっていなかった。故に、結果的にシルヴァはシアンをよく見ていなかった。
だから分からない。この時、シアンもシルヴァと同じように、頬を染めてちょっと恥ずかしそうに震えていることを。
見えていないのだから気づくはずがない。シアンがシルヴァに何かを言いかけては止めていることに。
つまるところ、その空間に広がっていたのは『もどかしい何か』であった。
「……き……! ……にい……きな……!」
「わ……った……!」
「……っ!」「……っ」
その悶々とした空気に終わりを告げさせたのは、厨房の方からおぼろに聞こえてきた二人の会話だった。
男の声と女の声。恐らく厨房で料理を作ってくれているドルフと、着替えを終えて二階から下りてきたニーナであろう。二階に続く階段は、厨房を抜けた先にあるようだ。
それらの声が耳に聞こえた途端、さっきまで意思疎通もできていなかった二人は、まるで示し合わせていたかのようにして各々の席へ戻り、姿勢を正した。
ちょっと遅れて、厨房から着物に着替えたニーナが出てくる。そして畳のところへくると、靴を脱いで上がった。
「あの、さっきはありがとうございました」
「う、うん……」
二人を前にしたニーナは、そう言って頭を下げた。それにシアンはぎくしゃくとした返事をする。
頭を上げたニーナはそのままシルヴァたちと向かい合って座った。そしてニーナはシルヴァ達二人を見つめるが、当の二人は不自然にそわそわとしている。
来たばかりでそんなことになっていれば、誰だって不自然に思うだろう。それは当然、ニーナにとってもそうであり、彼女は二人を見て不思議そうな表情をした。
「あの……?」
「だ、大丈夫……」
ちょっと前にシルヴァが言った言葉を、今度はシアンがそのままニーナへと言った。ニーナはまだ不思議そうな顔をしていたが、本人がそういうのであればそれ以上追及する気もおきなかったのだろう。それ以上のことは何も言わなかった。
そしてその雰囲気は、ドルフが二人の注文した料理がくるまで続いたのだった。
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