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プロローグ

黒く、鋼のような少女

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 その日は雨が降っていた。ざぁ、ざぁと耳障りなこの音は、止むことを知らない。

 彼女はきっと泣いていたのだろう。降りしきる雨は、恐怖も、悲しみも、寂しさも、その全部を洗い流してはくれなかった。

 ◇◇◇

 五限目。────本日は晴天。窓からは程よい日が入り込むなか、実施される科目は日本史だ。

 担当の教師は黒板と向き合うだけで、ほとんど振り返ることをしない。板書の音と、教師の淡々と変わらないトーンは生徒たちを微睡みに誘っていた。
 教室の半分はコクコクと頭を揺らす舟漕ぎ状態。一部の生徒に至っては堂々と机の上でスマホを弄り始める始末だ。

「……」

 教室には「退屈」という思念から生まれる暇魂(ひまタマ)で溢れているが、それが見えてる人間もほとんどいない。

 高校二年生の一学期。何処にでもある光景と言ってしまえばそれまでだ。授業を聞いているのなんて、バカ真面目な生徒くらい。

 良くも悪くも、そういう人間はこの先苦労するのだろう、と時雨沢シンヤは、隣の席に座る少女のことを鼻で笑う。

「フッ……」

 授業の内容だって、シンヤにとっては何百、何千回と教え込まれてきた内容だ。

「えー、皆さんがご存知の通り。人と異形との戦いは今でも続いているのですが、異形の長である〈八災王〉がこの地に封印されたのを皮切りに、凶悪な異形達の発生も徐々に沈静化していって」

 教科書にはまったく同じ一文があった。その脇に添付された古い資料画像には〈八災王〉の姿もある。数多の異形を引き連れた、巨大な蛇のバケモノだ。

「……ったく、知ってるつーの」

 シンヤは誰にも聞こえないようにボヤいたつもりだった。

 が、隣の少女には聞こえていたらしい。赤色をした鋭い眼孔に睨まれる。咄嗟に肩をすくめてとぼけてみたが、彼女には数十秒近く視線を外してはくれなかった。

「そして、現在でも異形達と戦う役職を請け負うのが、〈武器師〉と〈封印師〉です。ここは、テストでも間違いやすいから気をつけるように」

 教師はそれぞれの用語を強調するも、誰も熱心に聞いていない様子だ。

(……だから。知ってるっての)

 隣の少女に睨まれた反省を生かして、今度は胸の内で吐き捨てることにした。

 ただ、〈武器師〉と〈封印師〉が間違えられたり、混同されたりするのもよくあることで。語感が似ているというのもあるが、両職の具体的な役割が世間一般に知らされていないからだろう。

 シンヤは既に授業の内容を熟知している。少なくとも、残る時間で真面目に授業を受けるのがバカらしくなる程度には〈武器師〉と〈封印師〉について理解しているつもりだ。

(普段は人の形こそしているが、魂の憑代を武器に移し変えた人間が〈武器師〉。それを駆使して異形を封印するのが〈封印師〉だろ?)

 もう欠伸を噛み殺す気も失せてきた。

(まんまじゃねーか)

 自分が見える方の人間であるシンヤは、その目で教室中から生まれては、すぐに消えてゆく、暇魂を眺める。

 だが暇魂は所詮、人の退屈だと言う思念から生まれた異形。その見掛けも、ほぼ無色透明で人に害をなすわけでもない。おまけにほとんど動かないのだから、なんの暇つぶしにもならなかった。

(さすが、退屈から生まれた異形だな……見ててもなんも面白くねぇ……ふわぁ)

 ついに瞼の重さに押し負けたシンヤは、両腕をクッション代わりに机へと伏せる。

 机の上で眠るという行為は、姿勢的に決して快適なものではない。それなのに一度堕ちてしまえば、どうして心地よい夢心地へと誘われるのだろうか? こればかりは不真面目な学生の特権である。

 そう自分を言いくるめたシンヤは、存分に学生の特権を行使することにした。

 押し寄せてくる眠気の波に逆らわないというのは、実に気楽だ。水の流れに身体を預けるように、眠気へと意識を預けるだけでいい。そうすれば、シンヤの意識は浅い眠りの海へと流れ着く。

「────チッ」

 それは確かな舌打ちだった。教師の声とチョークの音しかなかった教室に、その異質な舌打ちが響き渡る。

 音の出所はシンヤの隣の席だった。少女はそっとシャーペンを置いて、静かに席を立ち上がると、暇魂達を傍目に眠りに堕ちたシンヤだけを見下ろす。

 艶やかな黒髪と、凛とした顔立ちをした彼女は立っているだけでも画になる。白く透き通るような肌に対して、真っ赤な双眸を持つ特別な容姿だ。目元の泣きぼくろも、彼女の魅力を引き立てる要素の一つだろう。

 彼女の立ち振る舞いにはある種の美があった。現に起きている生徒は皆、彼女に魅せられている。ほとんど動くことのない暇魂達ですら、彼女の方を向いて彼女がこれから何をするのかを注目していた。

 その長い脚をスッと、真上に振り上げる少女。

「ねぇ、シンヤ。私は何度、貴方に寝るなって言えばいいのかしらね?」

 安らかな寝顔を浮かべるシンヤが答えることはない。これから執行されることを、まるで考えていない間抜け面だった。

「本当にいい度胸をしてる。ご褒美に、ありったけの敬意を込めて殺(や)ってやるわ」

 真っ直ぐと振り上げられた少女の爪先は、確かに天へと向けられていた。それを少女は容赦なく眠るシンヤの腰へと振り下ろす。

「うがぁっ⁉」

 潰れたような悲鳴を上げてシンヤが飛び上がった。 背中に生じた激痛に耐えきれずに椅子から転げ落ちた様は、殺虫剤を浴びせられた害虫のようでもある。

 シンヤは痛みを堪えて、顔を上げた。

 ちょうど目の前には自分へと振り下ろされた脚がある。この脚の踵が自分の腰を砕いたと考えると、憎らしくて仕方ない。

 自分が居眠りをしていたことを棚にあげ、今度はシンヤの方が少女を睨む。

「トウカさんッ! アンタって人は加減ってもんを知らねぇのか! 加減ってもんを!」

「首を狙わなかっただけ有難いでしょ? 幼馴染としての同情よ」

「首にあんな威力の蹴りを入れられたら、死にますから!」

「……必殺のトウカキック。踵落としバージョン……ふふっ」

 絶妙に笑っていいのか分からない冗談を残した彼女は.自分の席へと静かに戻っていく。

 何もなかったような態度で。それが当然のように。

 黒鋼トウカ。少々語弊がある言い方になってしまうかもしれないが、黒く鋼のように強靭な少女である。

 トウカがシンヤに制裁を加える光景は、クラスメイトにとって見慣れたものでもあった。少し騒ついた教室も、すぐに元通りの退屈な空間へと戻っていく。

「……あと三〇分……トウカさん、俺、起きてられる気がしねぇんだけど」

「その時は貴方の腰が死ぬだけよ」

「はは……あと一発でも耐えられる気がしねぇや……」

 トウカの蹴りは、一般的な女子のソレを逸脱した破壊力を誇っていた。あんなのを何度も食らえるわけがない。

「トウカさんの蹴りは普通の蹴りじゃねぇって自覚ありますか?」

「そのくらいあるわよ。それに自覚が足りないっていうなら、シンヤの方でしょ?」

「……こんな授業、カサネ姉に何度も習ったことですよね? ……それこそ耳にタコができそうなくらいには」

「姉さんは凄腕の〈封印師〉だけど、そんな術は使えないわよ」

「そういう意味じゃないんですけど……」

 トウカは黙々と板書されたことをノートにまとめ、重要な部分にはマーカーペンでラインまで引いていた。

 だが、そんなことをしなくたって、彼女がそれらの知識を既に持ち合わせていることをシンヤは知っている。

 〈武器師〉に〈封印師〉。それらの関係を二人は物心ついた頃から叩き込まれてきた。

 何を隠そう、赤い瞳を持つトウカは既に日本刀へと魂を移し替えた〈武器師〉の。シンヤはそんな彼女を使いこなし、異形のものどもを封印する〈封印師〉の。それぞれの役職の見習いなのだから。 
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