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第四話 あたたかい光のある場所

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「そうそう、小さい頃はよくこの公園で遊んだんだよなあ、懐かしい」
 ある日、トモの提案で公園に寄り道していた。
「へえ、公園なんてあったんだ。気がつかなかった」
「はあ、嘘だろ? 毎日通ってんじゃん」
 確かにトモの言うとおり、登下校時にはこの前の道路を通っている。時間帯によっては子どもの声だってしたはずだ。それでも俺は、公園があることを今初めて知った。
「うーん。曲がる場所の目印になるようなものは覚えたけど、それ以外は気にしてなかったかなあ」
「ふーん、そっか」
 トモの声が小さくなった。まるで独り言のようで、うっかりすると聞き逃しそうなほどに。
「トモ?」
「太智、いいところ案内してやるよ」
「え、急にどうしたの」
 聞いてみたものの、しかしトモは俺の問いに答えることはない。にしし、と歯を見せて笑うだけ。少年のような、太陽にも負けない眩しさに俺の心は少し躍っていた。
 トモは俺を、歩いて十分くらいの最寄り駅にある小型のショッピングモールに連れてきた。この時間帯は授業終わりの学生や、夕飯を買いに来たのであろう主婦が多く見られる。たまに向かいの人をよけながら入った先は、ゲームセンターだった。
「トモ。俺、金持ってないんだけど」
 振り返ったトモの顔は固まっていた。
「ぶはっ。太智なら『学校帰りにこんなとこ寄り道していいのかよ』って言うかと思った。なのに、心配事はそっちかよ」
 お腹を抱えて笑ったあと、トモはリュックを片手でごそごそと漁ると、したり顔で右手に乗せた財布を見せてきた。
「ちょ、俺たちの学校は金持ってくの禁止じゃん」
 今さらだけど、俺は焦って周りを確認した。
「大丈ー夫だって。学ランなんてどこも同じようなもんでしょ。柔軟に柔軟に~」
 トモは千円札を両替えすると、百円玉を三枚、俺の手のひらに落とした。手に乗った硬貨がとてもひんやりしていて気持ちいい。
「……ここがトモの言う『いいところ』?」
「いや、違うね。そこに行くまでの暇つぶし」
 ということは、このあとまだ行く予定の場所があるのだ。受験勉強のことが頭をよぎったけれど、トモの顔を見ていると、たまの息抜きくらいいっか、と思えてしまった。
 トモおすすめのシューティングゲームを初めて体験して、記念のプリクラは遠慮して。リズムゲームで高速の手さばきを見せる人の野次馬になっては、ハイスコアに歓喜して。あっという間に二時間が経とうとしていた。
「やっべ、もうこんな時間かよ。太智、急ぐぞ」
 わけの分からないまま、俺たちはゲーセンをあとにした。
 外に出ると、ゲーセンの涼しさが身に染みた。まだ熱気が残る空気を吸って、さっきはよく公園にいられたもんだ、とクリーム色の空を一瞥いちべつした。


 来た道を急ぎ足で戻り、その途中で公園とは別の道に進んだ。このまま行けば団地までは目と鼻の先だ。
 少し進んでも、まだ団地の方向に向かっている。高いマンションが建つ角を曲がって団地が見えてきたところで、俺はたまらずトモの背中に声をかけた。
「なあ、ほんとにどこに向かってるの? このままだと家に着いちゃうけど」
 すると、トモはあっけらかんと答えた。
「うん、団地に向かってる」
「へ?」
 予想斜め上の回答に、間抜けな声が出てしまった。ということはつまり、「いいところ」とは団地だと言うのか?
「だ、だったら、公園から直接来ればよかったんじゃ――」
 トモはムッとして、ぷい、とそっぽを向いた。
「だって、それじゃあつまんないじゃん」
 団地に到着すると、その階段を休む間もなく上り始める。
 どれだけ俺を驚かせたかったのか。トモは俺の、どんな反応を期待しているのだろう。
 クリーム色の空がオレンジに染まってきた。「よい子は帰りましょう」の鐘がもうすぐ鳴るだろうか。早歩きに加えてこの階段はさすがにこたえる。
 五階建ての団地の階段を一気に上りきった。お互い額に汗を滲ませながら、息を整えようとゆっくり歩いた。
 だいたい真ん中あたりだろうか。左右に目をやると、両側にある扉の数はほぼ同じくらいだ。そして正面には、内階段がある。ここの団地の階段は全て外側に突き出ていて、内側に階段があることは初めて知った。
「この階段はここだけだよ。四階から下にはないの」
「あ、そうなんだ」
 内階段は団地の屋上に繋がっていた。鍵は開いていて、ベンチが一つとその周りに植木鉢がいくつか置かれている。俺たちの他には誰もいない。
「太智、あれ見て」
 トモに呼ばれて左を向いた俺は、まばゆさに負けないほどに目を見開いた。
「う……わ、すっげえ……」
 吸い寄せられるように自然と足が動いた。胸の高さまである柵まで近づけば遮るものは何もない。オレンジに彩られた、大きな夕陽のパノラマが眼前に広がっていた。
「階段からだと他の建物が邪魔して、こんな綺麗には見えないんだよ」
 後ろからトモの声が聞こえた。俺の右側に来て、柵に手をかけた。
「俺ね、ばーちゃんと二人でこの団地に暮らしてるんだけど、ここは俺が小さい時にばーちゃんが教えてくれたんだ。あの時は、普段見てる家がミニチュアみたいに思えておもしろかった。今も気持ちが沈んだ時とかに、よくここに来る」
 鍵は基本的に開いていて、出入りは自由らしい。防犯上どうなのかと思ったけれど、ここは外の階段とは別になっているため、悪用されにくいのだとか。
「これ見るとさ、無性に自分を褒めたくなるんだよ。今日も一日生きたぞ、お疲れーって」
「何かを頑張ったとかじゃなくて?」
「いいじゃんかよ。今の時代、生きるだけで立派だ」
「ははっ。そうかもね」
 鮮やかな夕日は言葉にできないくらいに綺麗だった。でも、それと同じくらい哀愁を滲ませているように感じてしまうのは、今の俺の気持ちの問題だろうか。
「……今回の引っ越しさ、母さんは何も言わないけど、少し前の離婚が原因だと思うんだ」
 気づけば、胸の奥にしまっていた思いがこぼれていた。夕日を見つめながら、俺の口は喋り続ける。
「母さんは、単に『異動になったから』って言ってた。でもその前に父さんと離婚して、同じところに居づらくなったんじゃないかな、って」
 二人が勤めるのは、父さんの親父さんの会社だ。長男ではない父さんは会社を継ぐ予定はないけど、都内の本社から動くこともないと思う。転校したくないなら都内に引っ越した父さんの方に行くのが賢明な判断だけど、俺はそうしなかった。
「親父さんとは一緒に住みたくない……とか?」
 俺は首を横に振った。
「父さんのことは嫌いじゃないよ。社長の息子ってだけあって付き合いが多かったのに、家庭を大事にしてくれたと思う。でも……」
 ゆっくりと、気持ちを整理しながら吐き出した。
「俺が向こうに残れば母さんは一人になる、って思ったらなんか罪悪感が、さ……」
 今さらながら、この選択に自信がなくなってきた。
 あの団地を選んだということは、父さんから母さんに渡った金はゼロ、もしくはかなり少ない。父さんが渡さないはずはないから、多分母さんが受け取ろうとしなかったのだろう。けれど自分がついて来たことにより、家計が苦しくなっているのは確かだ。
 本当に母さんを想うなら、少しでも楽な道を残した方がよかったのではないか。
「うんにゃ、嬉しかったと思うよ、太智のお袋さん」
 俺はいつの間にか落ちていた視線を、トモに向けた。
 まるで、心を読まれたかのようだ。この上なく優しい瞳が、鮮やかなオレンジに染め上げられている。穏やかな風がトモの少し長めの髪をなびかせ、輝いているようだった。
「俺さ、ばーちゃんに聞かされたことあるんだ。俺の母親、事故で死にかけたことあるんだって。裕福じゃないのに手術費用は莫大。でも、母さんが助かるならそれくらいどってことなかったってさ。それと似たようなもんじゃない?」
「そう……かな?」
「そうそう。一緒にいたら乗り越えられることもあんだよ、例え他に苦しいことがあってもさ。俺のばーちゃんもおんなじこと言うよ、太智は間違ってないって」
 トモの話を聞いて、胸のあたりがじんわりと温かくなるのを感じた。彼の微笑みが眩しくて、さりげなく夕日に視線を戻した。
 正しかったのかどうかは分からない。ただ、母さんにとっていい選択だったらいいなと強く願った。
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