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第二部 第二章 闇の咎─淫獄の魔女─
侵食 1
しおりを挟む「私は……私は誰……なの……?」
桃色の短い髪に褐色の肌。深い緑色の瞳をした女性が、虚ろな目で空を見上げる。
「ジェシカ姉ー! 大変! 大変だよぉー!!」
その女性の背後から「ジェシカ姉」と呼ぶ声がして……
桃色の髪がざわざわと黒髪へ戻る。褐色の肌に黒い短髪、いつも通りのジェシカへと。
ジェシカが振り返ると目の前には、ヴァンヘル孤児院で預かっている孤児の少女、メイリーが息を切らして立っていた。
「メイリー。そんなに慌てたら転んで怪我をするぞ?」
「あれ? ジェシカ姉……今……髪の色が違ったような……気の所為?」
ロキの手引きでイルネルベリへとジェシカが逃げ込んでから、一ヶ月。ここからおよそ一ヶ月程で次元崩壊は収まることになるのだが……
「どう……なんだろうな。なぁメイリー。私は……私か?」
「え? ジェシカ姉はジェシカ姉だよ!」
「そう……だよな……」
そう言ったジェシカの記憶の中に、見覚えのない光景が浮かぶ。薄汚れたテントの中、ゴワゴワの白髪混じりの髪に浅黒い肌の男が下卑た笑い声を上げ……
大きな斧を持った黒髪の少年に、足を両断される光景。
怖い……と思うと同時、強く惹かれる感情が湧き上がる。目の前の少年に心を奪われ、目が離せない。その少年が手持ちのダガーを差し出し、「そのダガー好きに使ってくれ。こんな糞に汚されて生きてけねぇってんなら死ねばいいし、許せねぇってんならその糞を殺せばいい」と、酷く悲しそうな顔で言い放つ。
ああ、なんて悲しそうな顔なんだろう……
私に何かしてあげられることはないだろうか……
この少年は私に選択肢をくれた……
それなら私は……
この少年の悲しそうな顔を笑顔に変えてあげたい……
一緒にハッピーエンドを……
「ノヒン……姉さん……」
「ノヒン姉さん? え? さっきからジェシカ姉は何言ってるの……って違う違う! 大変なんだって!」
「大変……? 何がだ?」
「魔獣! 魔獣だよ! と、とにかく一緒に来て!」
ジェシカがメイリーに腕を引っ張られ、ヴァンヘル孤児院の倉庫の前まで連れていかれる。倉庫の前にはメイリーと同い年の孤児であるコブスと、イルネルベリ憲兵が数人。何やら必死に扉を抑えている。
抑えている扉からは、ゴンゴンと何かが体当たりでもしているような音が響く。幸いにも扉は鉄製であり、簡単に壊れることはないのだろうが……
「コブスがね、掃除用具を取りに倉庫を開けたら……」
「あー! よかった! ジェシカ姉だ! た、大変なんだ! 中に掃除用具を取りに入ったらゴブリンがいて!」
メイリーが説明しようとしたところに、コブスが割って入る。
「もう! 私が説明しようとしてたのに!」
「う、うるせぇな! と、とにかくヤバいんだって!」
「ゴブリン如きで何故それほど焦っているんだ? ゴブリンならば憲兵達だけで大丈夫だろう?」
「ち、違うんだ! ちょっと大き……ってうわぁっ!!」
ゴガンッという大きな音と共に、鉄製の扉が勢いよく吹き飛ぶ。それに巻き込まれ、コブスや憲兵達も吹き飛ばされた。中からは体長三メートルほどだろうか、緑色の体色の巨大なゴブリンが現れる。小型のゴブリンと比べ、ギチギチの筋肉質な体だ。
「なん……だ? これほど巨大なゴブリンなど見た事が……」
「ニンゲ……ン……オン……ナ……オン……ナァァァァァァァァァァァァァァァァァァァッ!!」
「つぅっ!!」
ジェシカを見た巨大なゴブリンが、問答無用で飛びかかる。小型のゴブリンと比べ、凄まじい速度と力。ジェシカがギリギリのところで二刀のシャムシールを抜き、自身の前で交差させてなんとか攻撃を防ぐが……
凄まじい力でジリジリと後ろへ押される。シャムシールもメシメシと音を立て、下手をすれば折れてしまいそうだ。
「ちっ! 馬鹿力がっ!!」
「ア゛ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!」
ジェシカが局部を蹴り上げ、ゴブリンがたまらず汚い叫びをあげる。
「行くぞっ!!」
掛け声と共にジェシカの体から黒い霧が滲む。魔素を全身に巡らせ、身体能力が限界を突破する豹魔だ。
「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
体から黒い霧が滲んだと同時、ジェシカの姿が消えた。もちろん文字通り消えたのではなく、限界を突破した身体能力により──
目にも留まらぬのだ。
スヒスヒンと二刀のシャムシールによる空を切る音がし、ゴブリンの両の腕が胴から離れる。たまらず叫びを上げようとしたゴブリンの首がギャンッ! という音と共に叫びの表情のまま地面へと落下。
ここまで僅か数秒。あまりの速さになにが起きたのかすら誰も理解出来ない。見ればゴブリンの両の足はシャムシールで地面に固定され、魔石があったであろう心臓の位置にはぽっかりと穴が空いている。
そこからほんの少しの間をおいて、ゴブリンの体からは鮮血が吹き出した。
「やはりこれは字名持ち……ということか? だが言葉を発したのはどういう……」
ゴブリンから少し上、中空に浮いたジェシカがロングソードとゴブリンの魔石を手に持ち、呟く。その背中には霧状の黒い翼が広げられ、これがただの豹魔でないことは見てとれる。
そう、これは──
神話大戦の三英雄ヘルが使用したとされる、魔素を全身に巡らせることで凄まじい身体強化を行う死の女神だ。
「す……すげぇ! すげぇよジェシカ姉! 全っ然見えなかったけどすげぇ! と、とにかくすげぇ!」
「す、凄かったねジェシカ姉! ジェシカ姉がいればイルネルベリは安泰だよ!」
コブスとメイリーがぴょんぴょん跳ねながらはしゃぐ。
「そう……だな……」
はしゃぐ二人とは対照的に、ジェシカの表情は暗い。そのままゆっくりと地面へ降り立ち、黒い翼は霧散した。
「なんでジェシカ姉そんなに元気ないんだ?」
「どこか具合悪いのジェシカ姉?」
コブスとメイリーが心配そうにジェシカの顔を覗き込む。
「い、いや、なんでもない……(……ロキが言っていた呪いとはこのことか……? つまりこのゴブリンは私のせい……?)……わ、悪い! コブス! メイリー! 私はちょっとセティーナの所へ行ってくる。街中に字名持ちの魔獣が現れたとなっては、対策しなければならないからな!」
「えー!?」「やだー!!」
コブスとメイリーが分かりやすく不満な顔をする。
「わ、悪いな! ああそれとジョシュア!」
ジョシュアとは、イルネルベリ憲兵の部隊長の一人。
「な、なんでしょうかジェシカ様!」
「さ、様はやめてくれないか? と、とりあえずここは任せていいか?」
「はい! ジェシカ様の命とあらば死ぬ気で任されます! ですが……一つだけ! 一つだけお願いがあります!」
「な、なんだ?」
「あ、握手を! 握手をお願い出来ないでしょうか!!」
「あ、握手? なんだ? 憲兵の間で流行ってるのか?」
ここ最近、ジェシカはイルネルベリ憲兵から頻繁に握手を求められていた。そう……
ファンなのだ。ジェシカはイルネルベリ救国の英雄。その美貌も相まって、ここイルネルベリでの人気は凄まじい。ジェシカ派かセティーナ派かで諍いが起きているという噂もちらほらある。
ジェシカが差し出されたジョシュアの手を握ると、ジョシュアは顔を真っ赤にして喜んでいた。
「と、とにかくここは任せたぞ? 次元崩壊が落ち着いてきたとはいえ、未だ魔素は濃い。また新たに魔獣など発生したら、すぐに連絡してくれ」
「はい!」
「コブスとメイリーもちゃんと言うことを聞くんだぞ?」
「分かってるよ!」「はーい!」
「二人とも! 返事は『はい』だ!」
コブスとメイリーが不服そうに「はーい」と返事をし、ジェシカはイルネルベリ城のセティーナの元へと向かった。
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