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第七章
ほんとうの願い
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満月だった。遠く輝くその明かりに続くような、電灯の連なりの下を歩いている。
通りすがると必ず吠える犬。迷いインコのチラシが貼りつけられた電信柱。ツタで覆われた空き家。前を歩く白猫の、上機嫌に空を仰ぐ尻尾。
「――黒猫さん?」
はっと我に返ると、おかしそうな顔で白猫がこちらを見ていた。
「食べ過ぎて眠くなっちゃった? ぼんやりしてる。子猫みたい」
そうかもしれない。なんだか頭が回らない。庭であの絵を見てからだ。
山盛りの魚肉ソーセージ。「またね」と手を振る彩。背にちくちく刺さる生垣の葉。ちゃんと思い出せるのに、そのどれもがどこか遠く感じた。
そっとしておこうと考えたらしい白猫は、こちらを振り返ることもなく前を進んでいく。
ふと横を見ると、古びたマンションの間に隙間としか言いようのない細道があった。
ああ、と黒猫はおもう。今だ。
彩に会えた。ずっと気になっていた黒猫の絵を見ることも叶った。心残りはもうない。
姿を消すなら、選ぶなら、今なんだ。
そのとき、背後からふいてきた風で黒猫のひげが揺れた。少し肌寒いけど、そんなに強くはない。そう、ささやかでばかばかしいくらいの風だ。
その風が運んできたんだ。あの花の――キンモクセイのかおりを。
「花」
白猫が振り向く。「なあに」と言いたげに目を細めて。
「――僕、きみに出会ったとき、きみに『力』を使った」
吹いた風が道の端の落ち葉を運んでいく、乾いた音がした。
「この鈴、魔法の鈴なんだ。鈴を鳴らして、願い事をつぶやくだけでいい。それだけでなんだって叶う。魚屋の男に好きな魚をこっそりもらうことも、僕をよく思わないやつに悪いことが起きるようにすることも、いいなって思った雌猫が――僕を好きになるように仕向けることも」
その二匹を見かけたのは偶然だった。仲睦まじいブチ猫と白猫の連れ合い。
「雌猫には恋猫がいたけど、なんの問題もなかった。だって魔法の鈴があったから。願いを口にするだけでよかった。だから僕は願った――」
過去の自分の口の動きに重ねるように、つぶやいた。
「『あの猫が僕のことを好きになりますように』」
それが、どれだけ残酷なことか知りもしないで。
「何も知らなかったんだ。誰かを好きになる嬉しさも、失うこととの痛みも」
何でも思い通りになる代わりに、何にも思い入れがなかった。
すべてが黒猫を通り過ぎていくばかりだった。
だけど――足を止めて、黒猫を見つけてくれる存在ができた。世界はただの景色に過ぎない場所じゃなくなった。
「きみと、彩と、過ごす時間が、僕にとってはじめて『特別』になった。そして……力を失った。この鈴の力は『特別』が代償だったから」
「僕は、ただの猫になった」ぽつり、と黒猫はつぶやく。
「あとの顛末はきみも知ってるだろ? なぜかきみにかけた魔法は解けなかったけど、僕はずっとびくびくしてた。きみが僕を好きな気持ちがにせものだって気づいてしまったらどうしようって……」
喉が震えたけど、続けた。
「きみがほんとうに好きなのは――ブチ猫だから」
そして、あいつは死んでしまった。一生取り戻せない、黒猫の過ち。
「そうしたらさ、山田が言うんだ。僕の『力』、元に戻るんだって。きみと彩を……『特別』を捨てれば、また元通りの無敵な僕に戻れるんだって! だから僕は……僕は……」
選ぼうとした。鈴を。
捨てていくつもりだった。何もかも。
こわかったから。怖くて怖くて仕方なかったから。
「でも、」黒猫はぎゅっと目をつむった。
「彩が――僕の絵を描いてくれた」
まぶたの裏に焼きついて消えない一枚の絵。
彩は黒猫といると勇気がもらえるのだと言った。
だけど、それは、いつだってこっちのセリフだった。
「あいつの絵ってすごいんだ。鈴にも叶えられない、僕のほんとうの願いを知ってたんだ」
スケッチブックの黒をけずりとるたび、中からあふれるように、色とりどりの花が次々咲いていくのをただ見ていた。その手はやがて黒猫自身にまで及び、すべてを覆い隠そうとした『黒』をもけずり出していく。その下にあった『色』に出ておいでと語りかけるように。
「ずっと恐れから選んできた。だってそうしないと生きていけない、僕は弱い猫だから」
おそるおそる『色』は顔を出す。やがて種から芽が生え、茎が伸びていく。
「でも、ずっと考えてたんだ。もし恐れから選ばなくていいのなら、僕は本当は何を選びたかったんだろうって。本当はどんな自分になりたかったんだろうって……」
つぼみから花開くように、黒猫は願いを口にした。
「僕は、僕になりたかった。僕のなりたい、僕になりたかった」
たとえば、絶対に負けると分かっていながら決闘を挑んできたブチ猫のように。
たとえば、いじめられていた相手にカチューシャを返してあげた彩のように。
たとえば、あなたの秘密基地になりたいと言ってくれた白猫のように。
笑って、口にした。
「花、大好きだ」
黒猫は首輪に噛みつくと、それを力任せに引っ張った。呆気なく首輪を外れ、地に鈴が落ちて鳴る。
ちりん、ちりりんと。
「きみのなりたい、きみになって」
すごくシンプルで、こわくて、できなかった。ほんとうの意味で向き合うこと。
黒猫は土に押し付けるほどに深く頭を下げた。
ひゅっと風を切る音がして、次の瞬間右頬に強い痛みを感じた。
白猫の前足がしなり、黒猫の頬を打ったのだと遅れて理解する。
今度は反対の頬を張られる。
爪を立ててひっかかれたせいか、頬が燃えるように熱かった。
「あなたは臆病者だから、ずっと言わないと思ってた」
ざあっと風が頭上の葉を震わせた。
衝撃のあまりあんぐりと口を開けたままの黒猫をちらりと見て、白猫はちいさく笑った。
「嬉しいわ。ずっと、いつ殴ってやろうかと思ってたから」
その言葉で、魔法がだいぶ前から解けていたことを確信した。
「……いつから?」
「夏ごろから……よく思い出すようになったの。ブチ猫さんのこと。歩いている途中だとか、コンクリートに落ちた影が彼の模様に見えたりして、ささいなことばかり。なんで今ごろなのかわからない。でも、思い出したら、今度はなんで忘れていたのか、わからない。気づいたら彼のお墓の前にいて……どうしていいか分からないから、お花を添えたの。自分でも、ちょっとおかしいってわかってたんだけど、やめられなかった」
ブチ猫の墓に添えられていた花が、山田の仕業だと勘違いしていたことに、今さら気づいた。
「――好きだったわ、とても」ぽつり、と雫が滴るような静かな声音だった。
「どじでケンカも強くなくてスズメが飛び立つ音にびっくりして腰抜かしちゃうぐらい頼りないの」
けなしてるのにくすぐったい。いいところをひとつも言わないのに、かけがえのない響きがする。
「ほかにあんなに情けなくて……あんなにやさしい猫を知らない。あんなにあたたかい猫を知らない。彼のそばでわたし、いつも陽だまりにいるみたいだった。わたし、豆ノ助さんが、大好きだった」
近しいものだけが知ることのできる、親愛の証。黒猫はブチ猫の名前をはじめて知った。
「あなたがわたしに『力』を使ったこと、知ってたわ」
はっと顔を上げると、白猫の貫くような眼差しとかち合う。
「というか途中で気づいたの。あなたがいなくなってから。おかしいと気づけなかったことが気づけるようになったから。今思えばあのとき魔法が完全に解けたのね。ああ、出会ったときだって。あんな便利な力、わたしにだけ使わないなんてあるはずないわよね」
冷え切った眼差しに息が詰まりそうになる。
だけど、目をそらさずに白猫を見つめ返す。黒猫がはじめてほんとうに白猫と向き合ったように、今、白猫も黒猫にはじめてほんとうを返してくれているのだと分かったから。
「会えない間、怒りで頭がいっぱいになったり、ブチ猫さんのことを思い出して泣いたり、何も考えたくなくなったり。次にあなたに会ったら、わたし、どうなっちゃうんだろうって思ってた」
だけど、その先に起きたことを黒猫は知っていた。
「……どうして、僕と一緒にいてくれたの……」
たまらず声が震えた。
「植込みの中で怯えるあなたを見た瞬間、考える前に飛び出してた。助けなきゃって。会えて嬉しかった。すごく嬉しかった。ああ、ちゃんと好きだって、好きになってたんだって。最初の気持ちが嘘で消えても、あなたと過ごした日々はわたしの中にちゃんとあるんだって。だから、わたしの気持ちは何も変わらないって言ったの」
すぐ傍を灯をつけた自転車が横切って行った。ちいさな鼻歌が聞こえる。近くの家の換気扇からは夕飯の美味しそうな匂いがもれている。今日はきっと焼き魚だ。
こんなめちゃくちゃな今日は、誰かにとっては何の変哲もない一日で。
世界がみるみる歪みだす。こんなこと、あるわけがないのに。
「わからない。きみは、僕がしたことを、許せるの……?」
そう訊ねた瞬間、白猫の顔がゆがんだ。黒猫は自分の失言に気づく。傷ついてないはずがないのだ。外からは見えなくても内側に癒えない傷があることを黒猫はもう知っている。
「ゆるさない。ゆるせない。多分、一生できない」
当たり前のことだと頷く黒猫に、「でも」と白猫は言葉を重ねた。
「これからも一緒に生きていくのは、あなたがいい」
雫は足元にあとからあとから零れていく。これじゃあまるでどしゃぶりだ。
「あなたは?」
こみあげる嗚咽をどうにか飲み込む。
「ぼっ、ぼくにできることはなんでもするから……いっしょにいてほしい」
鼻水をじゅるじゅるに垂らしながらも告げると、白猫はふっと目を細める。
「安心して、期待してないから。でも、その代わりに……わたしの願いを叶えて。約束したでしょ?」
黒猫は思い出していた。『きみの願いを何でも叶えてあげる』と言った黒猫に、白猫は自分の願いを『当ててみて』と言ったのだ。
今まで気丈にふるまっていた白猫の瞳から涙がこぼれたのは、そのときだった。
「――今度こそひとりにしないで。わたしとずっと一緒にいて」
どん、と体当たりするように泣き出した白猫を抱きとめて、その背中を尻尾で撫でた。
「花、ごめん。ごめん。ごめん……!」
二匹そろってわんわん子猫のように泣き続けた。
足元の鈴は、いつのまにか首輪ごと消えていた。
通りすがると必ず吠える犬。迷いインコのチラシが貼りつけられた電信柱。ツタで覆われた空き家。前を歩く白猫の、上機嫌に空を仰ぐ尻尾。
「――黒猫さん?」
はっと我に返ると、おかしそうな顔で白猫がこちらを見ていた。
「食べ過ぎて眠くなっちゃった? ぼんやりしてる。子猫みたい」
そうかもしれない。なんだか頭が回らない。庭であの絵を見てからだ。
山盛りの魚肉ソーセージ。「またね」と手を振る彩。背にちくちく刺さる生垣の葉。ちゃんと思い出せるのに、そのどれもがどこか遠く感じた。
そっとしておこうと考えたらしい白猫は、こちらを振り返ることもなく前を進んでいく。
ふと横を見ると、古びたマンションの間に隙間としか言いようのない細道があった。
ああ、と黒猫はおもう。今だ。
彩に会えた。ずっと気になっていた黒猫の絵を見ることも叶った。心残りはもうない。
姿を消すなら、選ぶなら、今なんだ。
そのとき、背後からふいてきた風で黒猫のひげが揺れた。少し肌寒いけど、そんなに強くはない。そう、ささやかでばかばかしいくらいの風だ。
その風が運んできたんだ。あの花の――キンモクセイのかおりを。
「花」
白猫が振り向く。「なあに」と言いたげに目を細めて。
「――僕、きみに出会ったとき、きみに『力』を使った」
吹いた風が道の端の落ち葉を運んでいく、乾いた音がした。
「この鈴、魔法の鈴なんだ。鈴を鳴らして、願い事をつぶやくだけでいい。それだけでなんだって叶う。魚屋の男に好きな魚をこっそりもらうことも、僕をよく思わないやつに悪いことが起きるようにすることも、いいなって思った雌猫が――僕を好きになるように仕向けることも」
その二匹を見かけたのは偶然だった。仲睦まじいブチ猫と白猫の連れ合い。
「雌猫には恋猫がいたけど、なんの問題もなかった。だって魔法の鈴があったから。願いを口にするだけでよかった。だから僕は願った――」
過去の自分の口の動きに重ねるように、つぶやいた。
「『あの猫が僕のことを好きになりますように』」
それが、どれだけ残酷なことか知りもしないで。
「何も知らなかったんだ。誰かを好きになる嬉しさも、失うこととの痛みも」
何でも思い通りになる代わりに、何にも思い入れがなかった。
すべてが黒猫を通り過ぎていくばかりだった。
だけど――足を止めて、黒猫を見つけてくれる存在ができた。世界はただの景色に過ぎない場所じゃなくなった。
「きみと、彩と、過ごす時間が、僕にとってはじめて『特別』になった。そして……力を失った。この鈴の力は『特別』が代償だったから」
「僕は、ただの猫になった」ぽつり、と黒猫はつぶやく。
「あとの顛末はきみも知ってるだろ? なぜかきみにかけた魔法は解けなかったけど、僕はずっとびくびくしてた。きみが僕を好きな気持ちがにせものだって気づいてしまったらどうしようって……」
喉が震えたけど、続けた。
「きみがほんとうに好きなのは――ブチ猫だから」
そして、あいつは死んでしまった。一生取り戻せない、黒猫の過ち。
「そうしたらさ、山田が言うんだ。僕の『力』、元に戻るんだって。きみと彩を……『特別』を捨てれば、また元通りの無敵な僕に戻れるんだって! だから僕は……僕は……」
選ぼうとした。鈴を。
捨てていくつもりだった。何もかも。
こわかったから。怖くて怖くて仕方なかったから。
「でも、」黒猫はぎゅっと目をつむった。
「彩が――僕の絵を描いてくれた」
まぶたの裏に焼きついて消えない一枚の絵。
彩は黒猫といると勇気がもらえるのだと言った。
だけど、それは、いつだってこっちのセリフだった。
「あいつの絵ってすごいんだ。鈴にも叶えられない、僕のほんとうの願いを知ってたんだ」
スケッチブックの黒をけずりとるたび、中からあふれるように、色とりどりの花が次々咲いていくのをただ見ていた。その手はやがて黒猫自身にまで及び、すべてを覆い隠そうとした『黒』をもけずり出していく。その下にあった『色』に出ておいでと語りかけるように。
「ずっと恐れから選んできた。だってそうしないと生きていけない、僕は弱い猫だから」
おそるおそる『色』は顔を出す。やがて種から芽が生え、茎が伸びていく。
「でも、ずっと考えてたんだ。もし恐れから選ばなくていいのなら、僕は本当は何を選びたかったんだろうって。本当はどんな自分になりたかったんだろうって……」
つぼみから花開くように、黒猫は願いを口にした。
「僕は、僕になりたかった。僕のなりたい、僕になりたかった」
たとえば、絶対に負けると分かっていながら決闘を挑んできたブチ猫のように。
たとえば、いじめられていた相手にカチューシャを返してあげた彩のように。
たとえば、あなたの秘密基地になりたいと言ってくれた白猫のように。
笑って、口にした。
「花、大好きだ」
黒猫は首輪に噛みつくと、それを力任せに引っ張った。呆気なく首輪を外れ、地に鈴が落ちて鳴る。
ちりん、ちりりんと。
「きみのなりたい、きみになって」
すごくシンプルで、こわくて、できなかった。ほんとうの意味で向き合うこと。
黒猫は土に押し付けるほどに深く頭を下げた。
ひゅっと風を切る音がして、次の瞬間右頬に強い痛みを感じた。
白猫の前足がしなり、黒猫の頬を打ったのだと遅れて理解する。
今度は反対の頬を張られる。
爪を立ててひっかかれたせいか、頬が燃えるように熱かった。
「あなたは臆病者だから、ずっと言わないと思ってた」
ざあっと風が頭上の葉を震わせた。
衝撃のあまりあんぐりと口を開けたままの黒猫をちらりと見て、白猫はちいさく笑った。
「嬉しいわ。ずっと、いつ殴ってやろうかと思ってたから」
その言葉で、魔法がだいぶ前から解けていたことを確信した。
「……いつから?」
「夏ごろから……よく思い出すようになったの。ブチ猫さんのこと。歩いている途中だとか、コンクリートに落ちた影が彼の模様に見えたりして、ささいなことばかり。なんで今ごろなのかわからない。でも、思い出したら、今度はなんで忘れていたのか、わからない。気づいたら彼のお墓の前にいて……どうしていいか分からないから、お花を添えたの。自分でも、ちょっとおかしいってわかってたんだけど、やめられなかった」
ブチ猫の墓に添えられていた花が、山田の仕業だと勘違いしていたことに、今さら気づいた。
「――好きだったわ、とても」ぽつり、と雫が滴るような静かな声音だった。
「どじでケンカも強くなくてスズメが飛び立つ音にびっくりして腰抜かしちゃうぐらい頼りないの」
けなしてるのにくすぐったい。いいところをひとつも言わないのに、かけがえのない響きがする。
「ほかにあんなに情けなくて……あんなにやさしい猫を知らない。あんなにあたたかい猫を知らない。彼のそばでわたし、いつも陽だまりにいるみたいだった。わたし、豆ノ助さんが、大好きだった」
近しいものだけが知ることのできる、親愛の証。黒猫はブチ猫の名前をはじめて知った。
「あなたがわたしに『力』を使ったこと、知ってたわ」
はっと顔を上げると、白猫の貫くような眼差しとかち合う。
「というか途中で気づいたの。あなたがいなくなってから。おかしいと気づけなかったことが気づけるようになったから。今思えばあのとき魔法が完全に解けたのね。ああ、出会ったときだって。あんな便利な力、わたしにだけ使わないなんてあるはずないわよね」
冷え切った眼差しに息が詰まりそうになる。
だけど、目をそらさずに白猫を見つめ返す。黒猫がはじめてほんとうに白猫と向き合ったように、今、白猫も黒猫にはじめてほんとうを返してくれているのだと分かったから。
「会えない間、怒りで頭がいっぱいになったり、ブチ猫さんのことを思い出して泣いたり、何も考えたくなくなったり。次にあなたに会ったら、わたし、どうなっちゃうんだろうって思ってた」
だけど、その先に起きたことを黒猫は知っていた。
「……どうして、僕と一緒にいてくれたの……」
たまらず声が震えた。
「植込みの中で怯えるあなたを見た瞬間、考える前に飛び出してた。助けなきゃって。会えて嬉しかった。すごく嬉しかった。ああ、ちゃんと好きだって、好きになってたんだって。最初の気持ちが嘘で消えても、あなたと過ごした日々はわたしの中にちゃんとあるんだって。だから、わたしの気持ちは何も変わらないって言ったの」
すぐ傍を灯をつけた自転車が横切って行った。ちいさな鼻歌が聞こえる。近くの家の換気扇からは夕飯の美味しそうな匂いがもれている。今日はきっと焼き魚だ。
こんなめちゃくちゃな今日は、誰かにとっては何の変哲もない一日で。
世界がみるみる歪みだす。こんなこと、あるわけがないのに。
「わからない。きみは、僕がしたことを、許せるの……?」
そう訊ねた瞬間、白猫の顔がゆがんだ。黒猫は自分の失言に気づく。傷ついてないはずがないのだ。外からは見えなくても内側に癒えない傷があることを黒猫はもう知っている。
「ゆるさない。ゆるせない。多分、一生できない」
当たり前のことだと頷く黒猫に、「でも」と白猫は言葉を重ねた。
「これからも一緒に生きていくのは、あなたがいい」
雫は足元にあとからあとから零れていく。これじゃあまるでどしゃぶりだ。
「あなたは?」
こみあげる嗚咽をどうにか飲み込む。
「ぼっ、ぼくにできることはなんでもするから……いっしょにいてほしい」
鼻水をじゅるじゅるに垂らしながらも告げると、白猫はふっと目を細める。
「安心して、期待してないから。でも、その代わりに……わたしの願いを叶えて。約束したでしょ?」
黒猫は思い出していた。『きみの願いを何でも叶えてあげる』と言った黒猫に、白猫は自分の願いを『当ててみて』と言ったのだ。
今まで気丈にふるまっていた白猫の瞳から涙がこぼれたのは、そのときだった。
「――今度こそひとりにしないで。わたしとずっと一緒にいて」
どん、と体当たりするように泣き出した白猫を抱きとめて、その背中を尻尾で撫でた。
「花、ごめん。ごめん。ごめん……!」
二匹そろってわんわん子猫のように泣き続けた。
足元の鈴は、いつのまにか首輪ごと消えていた。
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