すべてが叶う黒猫の鈴

雪町子

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第七章

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 さっきから箱のふたを開けたり閉めたり、彩は忙しい。何度でもあふれてこぼれそうな顔をする。世にもまぬけな顔。
 再び訪れた庭で黒猫は、縁側に腰を下ろした彩の隣に座り込んでいた。白猫は積もる話もあるでしょうと気をきかせたつもりか、庭の花巡りをはじめてしまった。
「ジョーン、ブリヤンって……ふふ、変な名前。日向ぼっこしたくなる色だ。パーマ、ネント、グリーン……は日かげの草の色。コンポー、ズブルー……は夏の空の色」
 ぶつぶつとうるさいな、と思うのに、黒猫はその声に耳をすませた。
 自分は風を起こすことができたんだろうか。ささやかでばかばかしいぐらいの、風。
 そうだったらいい、と黒猫は思った。そうだったら――心置きなく、自分はこの場所を去っていける。
「……黒猫くん、もう来ないのかなって思ってたんだ」
 まだ箱の中身に夢中だと思っていたはずの彩が唐突に話を向けてきたので、黒猫はびくりとした。
「あっ、来たくなかったら、いつでも来なくていいんだよ! もちろん」
 慌てて付け足すと、それも違うと思ったのか首をひねって、そのあげくに困ったように笑った。手のなかでチューブを転がしながら。
「きっと明日もいない、明日もいないって自分に言い聞かせながら寝てた。いつもそうなの。願って叶わなかったら余計さみしいから。でもね、ちがうんだ本当は。だから今……すごく、嬉しい」
 黒猫はうつむいて、庭に落ちた陽だまりが揺れるのをじっと見つめていた。新たな落ち葉がひらひらと加わる。この庭の木の葉がすべて落ちても、立ち上がれる気がしない。
「白猫ちゃんもずっと心配してたんだよ。たまにひとりで来てきょろきょろしてた」
 背中がこわばったのかもしれない、心配げに彩が続ける。
「もしかして……ケンカしてたの?」
 沈黙を肯定と捉えたのか、「やっぱり?」彩はあわあわと落ち着きがなくなった。やっぱりも何も、ちがうし。そもそも猫に返事を期待すること自体が間違っているのだが。
「ケンカってすごく落ち込むよね……わかるよ。相手が好きな分だけ、嫌われたかなって考えると、落ち込んで、どんどん落ち込んで……ばかだなあって、なんでもっとちゃんとって。大切だったのに」
 口にしながら思い出したんだろう、項垂れていく。
 カチューシャをつけた女の子。きっと二人にもあったはずの、色を世界にたとえて遊ぶようなまばゆい日々。
「わたしね……黒猫くんと白猫ちゃんがふたり並んでいるところを見るのがすごく好きなんだぁ」
 彩はハの字に眉毛を垂らして微笑んだ。
「杏ちゃんのことがあって、わたしやっぱりまだクラスの子がこわい。ひとりのほうがいいって思っちゃうところあるんだけどね、黒猫くんたち見てると、いいなあって思うの。わたしにもそういう相手がいたらいいなあって。そんな素敵なふたりなの。だからね……」
 勢いつけて彩は黒猫の顔をのぞきこむ。伝われ、と言わんばかりの強い瞳で。
「きっとふたりはだいじょうぶ。今日ふたりの姿を見て『やっぱり』っておもったよ。またケンカしちゃっても、ごめんねって言ったら、きっとだいじょうぶ。わたしは、ふたりが大好きだよ」
 だからそういう話じゃないんだってば。確かにそう思うのに、どうしてだろう。胸の奥から何かがこみ上げて、こぼれてしまいそうだった。
 ふとなにか思いついたように立ち上がると、彩は家の中へと消えて行った。ばたばたと駆け足で戻ってきたときには、スケッチブックと……なぜか一枚硬貨を手にしていた。
「すっかり忘れてた――あのね、描けたんだ。黒猫くんの絵」
 心臓がどきんと脈打った。
 逃げようか。断ち切るためにここまで来たのに、これ以上胸をかき乱されるようなことはごめんだ。
 だけど――これを限りにこの庭にもう訪れることはないのだから、と思い直す。
 考えてみたら、この庭で過ごした日々は、すなわち彩が黒猫の絵を描くための日々だったのだ。最後を見届けるのは道理だろう。おしまいの日にぴったりだ。
 黒猫の心中を知るはずもない彩は、照れ笑いを浮かべながらページを最初からめくっていく。カラフルな線で描かれた黒猫のスケッチが次々に現れる。そのどれもが気の抜けた顔や仕草をしていて、妙に腹立たしい。何も知らずにいい気なものだ。白猫と寄り添うものまであって、思わず目を背けたくなる。
 やがてスケッチではなく、ちゃんとした絵を描こうとした形跡が現れ始める。描きかけて途中でやめてしまったり、中にはこれじゃないとばかりに乱雑な線が重ねられたものもある。きっと黒猫が姿を現さなくなったあとも続けられていたんだろう、試行錯誤の山。
 圧倒されたように見入る黒猫のまえに、その絵は突然現れた。
「……見せたかったのは、この絵」
 沢山の失敗作の果てに生まれたとは思えない、恐ろしくシンプルな一枚だった。
 おおよそ色彩に溢れた彩の絵とはとても思えない。白い紙のなか画面いっぱいに描かれた黒猫が天を仰いでいる――たったそれだけ。
 だけど、黒猫はそれを見た瞬間……確かにこれは自分だと思った。
 この猫は孤独そのものだ。この猫の傍には黒しかいない。
 それはなにもかもが黒猫自身とおんなじだった。
 すべてを自分の色に変えることができる代わり、自分にはなんにも色がない。
 鈴の力を失っていくかわり自分が手に入れたもの、山田はそれを『特別』だと言った。
(――ねえ、山田。特別って、もしかしたら『色』だったんじゃないか)
 重なるのはあの日の記憶。服が汚れるのも気にせず座り込んで絵を描く、冴えない三つ編みの女の子。スケッチブックのなかの息を呑む光景。なんでこんなつまらない場所がこんなにも美しく描けるのだと不思議に思った。
 世界を彩る魔法のような手に憧れた。欲しくなった。
『この絵のように世界を見ることのできる瞳を、自分に』
 あのときは何もわからず願いを口にした。
 だけど、きっと。『色』を取り戻したいと願ったんじゃないか。僕の、僕だけの、特別な景色を見るために。
 だとしたら、なんて今の自分にぴったりなのだろう。色を捨てて、黒だけを抱いて生きていこうとするこの絵は――。
「完成させるのは、黒猫くんと一緒のときにやりたかったの」
 物思いから呼び覚ましたのは、彩の嬉しそうな声だった。
 笑って手にしたのは、さっき一緒に持ってきた十円玉だ。
 完成? どういうこと? 困惑のまっただなかにいる黒猫をよそに、彩はおもむろにその絵を硬貨で削りはじめた。驚きのあまり、声もなく絵と彩を交互に見る。
 しかし、そのけずった跡を見るやいなや黒猫は息を呑んだ。
 黒のクレヨンの下から、あるはずもない色が浮かび上がっていた。
 色を塗った上に黒を重ねて塗っていたのだと気づいたのはしばらくあとのことだ。どうやって、は頭からすっかり消し飛んでいた。そのまえに思い当たったからだ。その手が何をしようとしているのか。
 彩は――『黒』のなかに絵を描こうとしていた。
 最初に描かれたのは、ちいさな花だった。
 彩はひとつ、ひとつ、かたちの違う花を丁寧に描き足していく。見たことがある。この庭で咲き誇っていた。ともにこの庭で特別な時間を過ごした花たちだった。
「わたしの目に映る黒猫くんはね、」彩がぽつりとつぶやいた。
「すごく強くてすごくクール。ひとりで平気だって顔でつんとして、気安く近寄るなって、いつもちょっと遠い場所にいる。でもね……じっと見てたら、すぐわかった。本当は優しくて、こわがりなところもあって、白猫ちゃんをすごく大事にしてて……いろんな気持ちが、なかにたくさん隠れてるんだってこと」
 下にすでに塗っておいた色が、次々と浮かび上がる。
 青に黄色に、ピンクと紫と。数えきれない色の混じる、無数の色を持つ花が黒猫の胸に咲いていく。
「黒猫くんは不思議。一緒にいると勇気をもらえるの。今日頑張ろうって、明日もこわくないぞって。いつも、そうなんだ。黒猫くんはわたしのヒーロー。黒猫くんのことを思い出すと、ちょっとだけなんだけど……つよくなれる。杏ちゃんの前で、逃げずに言いたかったこと言えた。お父さんのことを追いかけて、『待ってる』って伝えられた。すごいよね。わたしひとりじゃ、絶対できなかった」
 いつか見た水面のように、いつか見た朝日のように、まぶしい色彩。
 それは確か、黒猫がなくしたはずのもの。
「学校でね、昔教わったの。いろんな色の絵具をパレットにいっぱい出して、筆でその上をぐるぐる混ぜると『黒』ができるって。それを知ったとき思ったんだ。ああ、それってすごく――黒猫くんみたいだって」
 その言葉の意味が、説明されるまでもなく理解できた。
 だって、この絵は言っている――『黒』のなかにすべての色があるのだと。
「――できた! どう? 結構……素敵な絵じゃない?」
 もうさみしい絵だなんてちっとも思えない。
 極彩色の花が胸に咲き乱れる、この黒猫はきっと『特別』を知っている。
 最初に見たときとまったく同じことを思った。ああ、確かにこれは自分だと。
 そして、この猫はもう孤独じゃない。
 この猫の傍には色がある。
 この絵は、黒猫の願い、そのものなのだと。
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