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第七章
伝えたかったこと
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どうしてここにいるんだろう、という顔をして。
彩もまた、なんでここまできたんだろう、という顔をして立ち尽くしていた。
二人とも言葉を忘れてしまったかのように、視線だけが静かに行き交った。
「――すみません、通してもらってもいいですかね」
沈黙を断ち切ったのは、父親の後ろから現れた老人だった。声をかけられてようやく自分が薬局の出入り口をふさいでいたのに気づいたらしい、父親は恐縮して頭を下げた。そうして次にこちらに向いたときには、もういつもの父親の顔に戻っていた。
近づいてくる父親を前に、彩はごくりと唾を飲み込んだ。
「いや……まさかいるとは思わなくて、驚いた。おばあちゃんに聞いたのか」
かろうじて、といった感じで頷く。首がもげそうなほど、がっくりと。
「そうか。今度はしばらく大阪だ。彩は……大阪がどこか知ってる?」
少し考えたような間の後で、縦とも横ともつかない微妙な首の振り方をする。
「何か困ったことがあったりほしいものがあれば、いつでも連絡してくれてかまわないから。電話、もう自分でかけられるよな?」
彩はとたんに困ったような顔をした。目線をうろつかせた末に、うつむいてしまう。そのまま、また沈黙が落ちた。
「……べつに用がなかったらかけなくていいんだよ」
きっといつも通りの反応なんだろう。父親は慣れた様子で小さく笑うと、そっと彩の頭に手のひらをのせた。
「じゃあ、行ってくるよ」
がらがら、とスーツケースが音をたてて横を通り過ぎる。一瞬その目が黒猫を捉えた気がしたが、すぐに逸れてしまった。あの夜のことはきっともう覚えてさえいないのだろう。
うつむいたまま彩は顔を上げる気配を見せない。父親の背中は一歩、また一歩と離れていく。小さくなっていく。行ってしまう。もう止められない。
(やっぱり、こんな時間意味なんてなかったんだ)
そのときだった。
「う、」
隣りで、声がした。
「あ、あ、あ、あ、あ、ま、う、うう」
言葉にならないそれは、まるでうめきのようだった。
音が形を探すみたいに。言葉が心を探すみたいに。心が音とひとつになりたがるみたいに。
「――ぱ、パパ……!」
ひねり出したその声は、たいした大きさじゃなかったはずだ。
だけど、父親は振り向いた。まさか呼び止められるとは思っていなかったんだろう、どこか戸惑った眼差しでこちらを見つめている。
「あっあの、あの、あの……」
手のひらが落ち着きなく、服の裾を行き来する。顔は真っ赤になって、額に汗までかいて。
だけど、彩はあきらめなかった。口のなかで消えてしまった言葉たち。言えなかったこと、伝えられなかったこと、うしろにあること、戻れないこと。そのすべてを手のひらに握りしめて、まっすぐに父親を見つめ返した。
「ま、ま……待ってる、ね。おばあちゃんたちと、い、いっしょに」
ずいぶん当たり前のことを口にして、彩は笑った。
なんとか筋肉を動かしただけ、といった感じのぶさいくな顔。
でも、こびるような笑顔じゃない。なにかをごまかして隠す笑顔じゃない。ふいにこぼれた笑顔でもない。震える足を押しとどめて、何かを必死に伝えようとする笑顔だった。
父親は根が生えたように立ち尽くしていた。口がぴくりと動いたけれど、何も出てこない。やがて何を思ったのか、その視線が手元のスーツケースに注がれた。
まさかここで仕事がらみじゃないだろうな? うろんげな黒猫の視線をよそに、何かを取り出した父親は彩に歩み寄る。どことなくきまり悪そうに紙袋を差し出しながら。
「……これ、渡しそびれてたんだけど」
「え? クレヨンなら……この前もらったよ」
戸惑う彩の前で、もっと戸惑った顔をした父親が言う。
「いらなかったら捨てていいから」
「やだ! いる!」
思いがけず強い口調で返してしまったことに自分でも驚いたのか、彩は慌てた様子で紙袋を胸に寄せた。
「えっと……見てもいい?」
「……どうぞ」
こわごわとした様子で紙袋を覗き込む娘を、父親もどこか息を詰めたように見ている。
「これって、絵の具?」
透明な包装を剥がし、赤色の小箱の蓋を開けると、現れたのはチューブ型の十八色の絵の具だった。所狭しと並べられた色彩の群れにきらきらと瞳を輝かせながらも、目があちこちをさまよう。
「あ、あ、ありがとう。でも、あの、学校用にもう買ってもらったのに……」
「ああ、それは違う絵の具なんだ」
「……ちがう絵の具?」
父親はどう説明したものか、といった様子で言葉に詰まる。
「……ええと、学校で使う絵の具は『不透明水彩』って言うんだけど、これは『透明水彩』って言って……色の混ざり方や、発色の仕方が全然違うんだ。見ればきっとわかるんだけど。しまったな、本も買っておけばよかった」
いつも言葉少なな父親が、落ち着きなく言葉を探している。その姿が、彩の瞳のなかに映り込んでは揺れていた。
「店に行ったとき見本の映像が流れていたんだけど、それが、なんだか水面みたいに綺麗で……つい買ってしまったんだ。子ども用のプレゼントじゃないって、あとで我に返ってそれだけ取り出したんだけど。自分がいいと思ったものを買うなんて、親のエゴだろ」
じゃあなんで渡すんだ、という答えに自分でも答えられないのだろう、父親はため息をついた。
「おかしなことを言ってるな、僕は。ごめん。彩の年齢にちょうどいい学校指定の絵の具がもうあるのに。渡されても困るよな。無理に使わなくていいから……」
「ううん、使う」間髪入れずに彩が言った。
「でも……」
「使い方は、先生に聞く。絵は学校じゃなくても描いてるから、平気」
きっぱり言い切ると、ふわっとこぼれるように眉毛を下げて笑った。
「……うれしい」
やがてほどけるように父親も笑う。おなじように眉毛を下げて。ばかみたいにそっくりな、親子の笑顔だった。
それ以上交わす言葉も見つからないようで、父親は唐突に「じゃあ」と切り出した。彩も頷く。あっけない別れだった。
早足でがらがらとスーツケースを転がして、今度こそ遠く背中が離れていく。
だけど、と黒猫はおもう。完全に見えなくなるまで見送り続けるその胸に、宝物のような小箱がひとつ。やがて見えなくなってしまっても、その背中とはきっと細いほそい糸がつながっているはずだと。
彩もまた、なんでここまできたんだろう、という顔をして立ち尽くしていた。
二人とも言葉を忘れてしまったかのように、視線だけが静かに行き交った。
「――すみません、通してもらってもいいですかね」
沈黙を断ち切ったのは、父親の後ろから現れた老人だった。声をかけられてようやく自分が薬局の出入り口をふさいでいたのに気づいたらしい、父親は恐縮して頭を下げた。そうして次にこちらに向いたときには、もういつもの父親の顔に戻っていた。
近づいてくる父親を前に、彩はごくりと唾を飲み込んだ。
「いや……まさかいるとは思わなくて、驚いた。おばあちゃんに聞いたのか」
かろうじて、といった感じで頷く。首がもげそうなほど、がっくりと。
「そうか。今度はしばらく大阪だ。彩は……大阪がどこか知ってる?」
少し考えたような間の後で、縦とも横ともつかない微妙な首の振り方をする。
「何か困ったことがあったりほしいものがあれば、いつでも連絡してくれてかまわないから。電話、もう自分でかけられるよな?」
彩はとたんに困ったような顔をした。目線をうろつかせた末に、うつむいてしまう。そのまま、また沈黙が落ちた。
「……べつに用がなかったらかけなくていいんだよ」
きっといつも通りの反応なんだろう。父親は慣れた様子で小さく笑うと、そっと彩の頭に手のひらをのせた。
「じゃあ、行ってくるよ」
がらがら、とスーツケースが音をたてて横を通り過ぎる。一瞬その目が黒猫を捉えた気がしたが、すぐに逸れてしまった。あの夜のことはきっともう覚えてさえいないのだろう。
うつむいたまま彩は顔を上げる気配を見せない。父親の背中は一歩、また一歩と離れていく。小さくなっていく。行ってしまう。もう止められない。
(やっぱり、こんな時間意味なんてなかったんだ)
そのときだった。
「う、」
隣りで、声がした。
「あ、あ、あ、あ、あ、ま、う、うう」
言葉にならないそれは、まるでうめきのようだった。
音が形を探すみたいに。言葉が心を探すみたいに。心が音とひとつになりたがるみたいに。
「――ぱ、パパ……!」
ひねり出したその声は、たいした大きさじゃなかったはずだ。
だけど、父親は振り向いた。まさか呼び止められるとは思っていなかったんだろう、どこか戸惑った眼差しでこちらを見つめている。
「あっあの、あの、あの……」
手のひらが落ち着きなく、服の裾を行き来する。顔は真っ赤になって、額に汗までかいて。
だけど、彩はあきらめなかった。口のなかで消えてしまった言葉たち。言えなかったこと、伝えられなかったこと、うしろにあること、戻れないこと。そのすべてを手のひらに握りしめて、まっすぐに父親を見つめ返した。
「ま、ま……待ってる、ね。おばあちゃんたちと、い、いっしょに」
ずいぶん当たり前のことを口にして、彩は笑った。
なんとか筋肉を動かしただけ、といった感じのぶさいくな顔。
でも、こびるような笑顔じゃない。なにかをごまかして隠す笑顔じゃない。ふいにこぼれた笑顔でもない。震える足を押しとどめて、何かを必死に伝えようとする笑顔だった。
父親は根が生えたように立ち尽くしていた。口がぴくりと動いたけれど、何も出てこない。やがて何を思ったのか、その視線が手元のスーツケースに注がれた。
まさかここで仕事がらみじゃないだろうな? うろんげな黒猫の視線をよそに、何かを取り出した父親は彩に歩み寄る。どことなくきまり悪そうに紙袋を差し出しながら。
「……これ、渡しそびれてたんだけど」
「え? クレヨンなら……この前もらったよ」
戸惑う彩の前で、もっと戸惑った顔をした父親が言う。
「いらなかったら捨てていいから」
「やだ! いる!」
思いがけず強い口調で返してしまったことに自分でも驚いたのか、彩は慌てた様子で紙袋を胸に寄せた。
「えっと……見てもいい?」
「……どうぞ」
こわごわとした様子で紙袋を覗き込む娘を、父親もどこか息を詰めたように見ている。
「これって、絵の具?」
透明な包装を剥がし、赤色の小箱の蓋を開けると、現れたのはチューブ型の十八色の絵の具だった。所狭しと並べられた色彩の群れにきらきらと瞳を輝かせながらも、目があちこちをさまよう。
「あ、あ、ありがとう。でも、あの、学校用にもう買ってもらったのに……」
「ああ、それは違う絵の具なんだ」
「……ちがう絵の具?」
父親はどう説明したものか、といった様子で言葉に詰まる。
「……ええと、学校で使う絵の具は『不透明水彩』って言うんだけど、これは『透明水彩』って言って……色の混ざり方や、発色の仕方が全然違うんだ。見ればきっとわかるんだけど。しまったな、本も買っておけばよかった」
いつも言葉少なな父親が、落ち着きなく言葉を探している。その姿が、彩の瞳のなかに映り込んでは揺れていた。
「店に行ったとき見本の映像が流れていたんだけど、それが、なんだか水面みたいに綺麗で……つい買ってしまったんだ。子ども用のプレゼントじゃないって、あとで我に返ってそれだけ取り出したんだけど。自分がいいと思ったものを買うなんて、親のエゴだろ」
じゃあなんで渡すんだ、という答えに自分でも答えられないのだろう、父親はため息をついた。
「おかしなことを言ってるな、僕は。ごめん。彩の年齢にちょうどいい学校指定の絵の具がもうあるのに。渡されても困るよな。無理に使わなくていいから……」
「ううん、使う」間髪入れずに彩が言った。
「でも……」
「使い方は、先生に聞く。絵は学校じゃなくても描いてるから、平気」
きっぱり言い切ると、ふわっとこぼれるように眉毛を下げて笑った。
「……うれしい」
やがてほどけるように父親も笑う。おなじように眉毛を下げて。ばかみたいにそっくりな、親子の笑顔だった。
それ以上交わす言葉も見つからないようで、父親は唐突に「じゃあ」と切り出した。彩も頷く。あっけない別れだった。
早足でがらがらとスーツケースを転がして、今度こそ遠く背中が離れていく。
だけど、と黒猫はおもう。完全に見えなくなるまで見送り続けるその胸に、宝物のような小箱がひとつ。やがて見えなくなってしまっても、その背中とはきっと細いほそい糸がつながっているはずだと。
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