29 / 36
第七章
もう一度
しおりを挟む
商店街、肉屋の前からスタート。
大通りと交差する小道をだいたい五分、やがてポストが見えてくるだろう。
その斜め前にある、ファンシーではけしてない青い屋根の古い日本家屋。
そこがどうやら、黒猫の消したくない思い出がすべてつまった、大事な場所。
「行きましょ」
ざざざと背中をこすらせながら生垣の隙間を白猫と二匹くぐると、相変わらずよく手入れされた庭が黒猫を出迎えた。祖父から手入れの方法をどんどん教えてもらっているのだと彩は誇らしげにしていたっけ。落ち葉がひらひらと降り始め、咲いている花も夏とは様変わりをしていたが、顔なじみは同じ場所にちょこんと佇んでいた。
「……ちょっと大きくなった?」
ビワ蔵にささやく。もちろん返事は帰ってこないが、風で揺れて頷いているようにも見えた。葉っぱの数が増えている。当たり前なことだけど、自分がいない間も、この庭では時が流れていたのだ。
ふぅ、と息をつく。それから、すうぅ、と大きく息を吸い込んだ。緑の匂いが染み渡るようで気持ちいい。
この庭に、ずっと会いたかった。そして、この庭の主にも。
「彩ちゃん、きっと喜ぶわ。いつもいつも黒猫さんの話をしてたのよ。心配してた」
「……うん」
同時に会いたくなかったとおもう。会えば、心がかき乱されてしまうとわかっていたから。
『明日、彩ちゃんちに行くんだろう? ゆっくり考えておいで』
山田はそう言って、答えを口にできないままの黒猫を送り出した。
次の朝目覚めてみれば、あのときの戸惑いは何だったんだろうというぐらいに黒猫の心は決まっていた。
黒猫には鈴が必要だ。ただの猫で生きていけるはずがない。そう思い知るのに十分な目にあった。
――それに。
鈴がただの鈴になろうとしているなら、なおさら決定は早くないといけない。
じっと見つめていると、気配に気づいたらしい白い横顔がこちらを向いた。
「なに?」
一点の曇りもない、まっすぐな眼差しに身がすくむ。
『鈴』を選べば、白猫の前から去らなければならない。
『特別』を選べば、魔法は完全に解け、白猫のなかの黒猫への恋心は消える。
どのみちお別れなのだ。それでも、とおもう。
『特別』を選べば、ほんとうの自分になるのは、黒猫だけではない。
魔法の力が完全に失われたとき、白猫の瞳はどんな色で自分を見るのか。それを想像することが、黒猫は一番恐ろしかった。
偽りの感情でいい。自分を好きでいてほしい。それがどれだけ、醜くて、ひとりよがりな思いだとわかっていても。
自分のついた愚かで残酷な嘘を知ってほしくなかった。
このまま会えなくなるほうが、ずっといい。
「あのさ……魚肉ソーセージ、食べられるといいね」
「ほんとうに!」
今日を最後の日にするつもりだった。
彩とも、花とも、お別れだ。
黒猫は地面に突っ伏すように黒い前足に顔を埋めた。
「今日は天気もいいし日向ぼっこに最適ね。彩ちゃんが学校から帰ってくるまでひと眠りしましょ」
白猫の呑気な声を背に、ゆっくりと目をつむる。背中が陽射しであたたかい。
(もう少しの間だけでいい、穏やかな時間を――)
「――待ちなさい!」
思わず跳び上がるようにして立つ。背にしていた家を見上げ、白猫と目を見合わせた。このパターンには身に覚えがあった。
今のは確か彩の祖母の声……と思っているうちに、どたどたとした足音があとに続いた。
「帰ってきていきなり、今度は大阪ってどういうことなの?」
「ごめん、あんまりゆっくり説明してる暇ない。それに仕事の内容を説明したって母さんには分からないだろ?」
「それはそうかもしれないけど……。だいたい行くっていつなの」
「今だよ。だから帰って来たんだ。仕様が急に変更になったから現場がひどいことになってる。納期も短いし人がとにかく足りないんだ。できるだけ早く合流――」
「急にもほどがあるでしょう!」
祖母の声が再び険しくなる。
「ねえ、せめて彩に会ってから……」
「母さん」父親の声はどこまでも静かだった。
「言いたいことはわかるよ。でも、仕事なんだ。彩にはあとで電話する。迷惑かけて申し訳ないけど、あの子のことをよろしく頼むよ。じゃあ、もう準備するから」
ばたん、と音がして、しばらくは何ごとかを発し続けていた祖母の声も、やがてため息を最後にしなくなった。
「……なんだそれ」
黒猫は縁側の向こうにある世界を見つめた。
人間の話はよくわからない。オーサカがどこかも知らない。だけど、話しぶりからして簡単には会えない距離だということはわかる。
がちゃり、と扉が開き、小ぶりのスーツケースを転がしながら父親が廊下を歩いていく。
迷いをちらりとも感じさせない、容赦のない足音だ。きっとその足音の後ろに、振り返らない父親の背中を目で追い続けている彩の姿があった。父親の姿がやがて遠く離れ、見えなくなるまで。見えなくなっても。
「じゃあ、行ってくるから」
――行ってしまう。
ガラガラと引き戸が開く音がしようというとき、ちりりん! 鈴の音が庭に鳴り響いた。黒猫はすがるように願い事を口にする。
『彩を置いていくな! ひとりにするな! ここにいろよ!』
戸はガラガラと開き、やがてピシャンと閉じられた。現れた父親は庭で立ち尽くす黒猫に気づくこともなく、足早に歩き去って行った。
しばらく呆けたように、そのピシャンという音のまぬけな余韻を追い続けた。
「……ちくしょう」
鈴の使えない僕なんて、ほら。なんの意味もない。
ふっと笑いを漏らした途端、気が抜けた。何をムキになっていたんだろう、という気さえしてくる。
縁側の下にそっと並んだ、大きな突っ掛けと小さな突っ掛けが目に入る。
(それがどうしたっていうんだ)
考えてもみろ。どうせ会っても、間に合っても、きっといつものあの気まずい時間があるだけだ。あの親子は最初からずっとぎこちなかった。会えばお互い緊張して、会話はかみ合わなくて、沈黙ばかりが満ちて。そんな時間にどんな意味があるっていうんだろう。
これでよかったんだ。と心のなかで呟いた。
言い聞かせるように、なだめるように、抑え込むように。
これでよかった。だってこれ以上、自分に何ができる?
聞き覚えのある足音がこちらに近づいてきたのは、そのときだった。
植木鉢の影にさっと体を隠すと、カラカラと引き戸を開く音に続いて「ただいま……」辛気臭く懐かしい声が聞こえた。
「彩! ああ、今、浩史とすれ違わなかった?」
「え、パパ……? 会ってないけど……」
困惑した様子の彩に祖母が事情を告げる。彩はしばらく黙りこんだあとに、一言「わかった」と告げた。
納得したはずの頭の中で、ぶつん、何かが切れた。
「えっ、黒猫さん!?」
戸惑う白猫を置き去りに、植木鉢の影から飛び出した。
戸口の前、祖母から二言、三言声をかけられ、頷くその後姿を見る。顔を見なくてもわかった。あの気味の悪い笑顔を浮かべてること。次に続く言葉は『わたしは大丈夫』なんだろう。地を蹴って、駆け出した。
ああ! 意味なんてもうどうでもいい。ただ。とにかく。もうひたすらに。
「――僕はその顔を浮かべてるおまえが、大っ嫌いなんだよ!」
黒猫は立ち尽くしたままの彩のふくらはぎを靴下ごしに思いっきり引っ掻いた。
「痛ッ!」
悲鳴をあげて振り返るその瞳が驚きに見開かれる。
再会を喜ぶ隙など与えずに、黒猫はふたたび走り出す。一度だけ振り向いた。それで彩には十分伝わるはずだ、と妙な確信があった。
祖母が呼び止める声を振り切ったんだろう、背中の向こうで駆ける足音が確かに届く。
黒猫は商店街を目指した。父親が向かった方向などわからない。もう近くにはいないのかもしれない。それでも、人が多い場所、少しでも可能性のあるところに行きたかった。
小道の終点、商店街肉屋前。夕暮れ前の道はまだ人通りは少ない。あたりを見回しても、父親らしき影は見当たらない。それでも。
(これでよかった――なんて猫が逆立ちしたって思えるはずがないだろ、ばかやろう!)
黒猫はがむしゃらに首を振った。鈴の音が響きわたる。叶うはずがない。
もう、力なんてない。だからこれはただの祈りだ。
世界がこうあってほしい、という、ちっぽけなただの猫が願う祈りだった。
『彩の父親! いるなら出てこい!』
黒猫は変化を待った。一秒、二秒、時間は無情にも経過していく。あたりにそれらしき影は現れない。
(――やっぱり、だめか)
うなだれる黒猫の後ろ、ようやく追いついた彩がぜえぜえと息を荒くするのが聞こえた。振り返る気にもなれないでいると、突然息が詰まったように静かになった。
なんだか不自然に感じて振り返ると、彩の目はまっすぐに一点を見つめていた。その視線を追いかける。
薬局の自動ドアが開きっぱなしだった。マットの上に黒の革靴。スーツケースを持つ手にビニール袋を下げた父親が、そこに立ち尽くしていた。
大通りと交差する小道をだいたい五分、やがてポストが見えてくるだろう。
その斜め前にある、ファンシーではけしてない青い屋根の古い日本家屋。
そこがどうやら、黒猫の消したくない思い出がすべてつまった、大事な場所。
「行きましょ」
ざざざと背中をこすらせながら生垣の隙間を白猫と二匹くぐると、相変わらずよく手入れされた庭が黒猫を出迎えた。祖父から手入れの方法をどんどん教えてもらっているのだと彩は誇らしげにしていたっけ。落ち葉がひらひらと降り始め、咲いている花も夏とは様変わりをしていたが、顔なじみは同じ場所にちょこんと佇んでいた。
「……ちょっと大きくなった?」
ビワ蔵にささやく。もちろん返事は帰ってこないが、風で揺れて頷いているようにも見えた。葉っぱの数が増えている。当たり前なことだけど、自分がいない間も、この庭では時が流れていたのだ。
ふぅ、と息をつく。それから、すうぅ、と大きく息を吸い込んだ。緑の匂いが染み渡るようで気持ちいい。
この庭に、ずっと会いたかった。そして、この庭の主にも。
「彩ちゃん、きっと喜ぶわ。いつもいつも黒猫さんの話をしてたのよ。心配してた」
「……うん」
同時に会いたくなかったとおもう。会えば、心がかき乱されてしまうとわかっていたから。
『明日、彩ちゃんちに行くんだろう? ゆっくり考えておいで』
山田はそう言って、答えを口にできないままの黒猫を送り出した。
次の朝目覚めてみれば、あのときの戸惑いは何だったんだろうというぐらいに黒猫の心は決まっていた。
黒猫には鈴が必要だ。ただの猫で生きていけるはずがない。そう思い知るのに十分な目にあった。
――それに。
鈴がただの鈴になろうとしているなら、なおさら決定は早くないといけない。
じっと見つめていると、気配に気づいたらしい白い横顔がこちらを向いた。
「なに?」
一点の曇りもない、まっすぐな眼差しに身がすくむ。
『鈴』を選べば、白猫の前から去らなければならない。
『特別』を選べば、魔法は完全に解け、白猫のなかの黒猫への恋心は消える。
どのみちお別れなのだ。それでも、とおもう。
『特別』を選べば、ほんとうの自分になるのは、黒猫だけではない。
魔法の力が完全に失われたとき、白猫の瞳はどんな色で自分を見るのか。それを想像することが、黒猫は一番恐ろしかった。
偽りの感情でいい。自分を好きでいてほしい。それがどれだけ、醜くて、ひとりよがりな思いだとわかっていても。
自分のついた愚かで残酷な嘘を知ってほしくなかった。
このまま会えなくなるほうが、ずっといい。
「あのさ……魚肉ソーセージ、食べられるといいね」
「ほんとうに!」
今日を最後の日にするつもりだった。
彩とも、花とも、お別れだ。
黒猫は地面に突っ伏すように黒い前足に顔を埋めた。
「今日は天気もいいし日向ぼっこに最適ね。彩ちゃんが学校から帰ってくるまでひと眠りしましょ」
白猫の呑気な声を背に、ゆっくりと目をつむる。背中が陽射しであたたかい。
(もう少しの間だけでいい、穏やかな時間を――)
「――待ちなさい!」
思わず跳び上がるようにして立つ。背にしていた家を見上げ、白猫と目を見合わせた。このパターンには身に覚えがあった。
今のは確か彩の祖母の声……と思っているうちに、どたどたとした足音があとに続いた。
「帰ってきていきなり、今度は大阪ってどういうことなの?」
「ごめん、あんまりゆっくり説明してる暇ない。それに仕事の内容を説明したって母さんには分からないだろ?」
「それはそうかもしれないけど……。だいたい行くっていつなの」
「今だよ。だから帰って来たんだ。仕様が急に変更になったから現場がひどいことになってる。納期も短いし人がとにかく足りないんだ。できるだけ早く合流――」
「急にもほどがあるでしょう!」
祖母の声が再び険しくなる。
「ねえ、せめて彩に会ってから……」
「母さん」父親の声はどこまでも静かだった。
「言いたいことはわかるよ。でも、仕事なんだ。彩にはあとで電話する。迷惑かけて申し訳ないけど、あの子のことをよろしく頼むよ。じゃあ、もう準備するから」
ばたん、と音がして、しばらくは何ごとかを発し続けていた祖母の声も、やがてため息を最後にしなくなった。
「……なんだそれ」
黒猫は縁側の向こうにある世界を見つめた。
人間の話はよくわからない。オーサカがどこかも知らない。だけど、話しぶりからして簡単には会えない距離だということはわかる。
がちゃり、と扉が開き、小ぶりのスーツケースを転がしながら父親が廊下を歩いていく。
迷いをちらりとも感じさせない、容赦のない足音だ。きっとその足音の後ろに、振り返らない父親の背中を目で追い続けている彩の姿があった。父親の姿がやがて遠く離れ、見えなくなるまで。見えなくなっても。
「じゃあ、行ってくるから」
――行ってしまう。
ガラガラと引き戸が開く音がしようというとき、ちりりん! 鈴の音が庭に鳴り響いた。黒猫はすがるように願い事を口にする。
『彩を置いていくな! ひとりにするな! ここにいろよ!』
戸はガラガラと開き、やがてピシャンと閉じられた。現れた父親は庭で立ち尽くす黒猫に気づくこともなく、足早に歩き去って行った。
しばらく呆けたように、そのピシャンという音のまぬけな余韻を追い続けた。
「……ちくしょう」
鈴の使えない僕なんて、ほら。なんの意味もない。
ふっと笑いを漏らした途端、気が抜けた。何をムキになっていたんだろう、という気さえしてくる。
縁側の下にそっと並んだ、大きな突っ掛けと小さな突っ掛けが目に入る。
(それがどうしたっていうんだ)
考えてもみろ。どうせ会っても、間に合っても、きっといつものあの気まずい時間があるだけだ。あの親子は最初からずっとぎこちなかった。会えばお互い緊張して、会話はかみ合わなくて、沈黙ばかりが満ちて。そんな時間にどんな意味があるっていうんだろう。
これでよかったんだ。と心のなかで呟いた。
言い聞かせるように、なだめるように、抑え込むように。
これでよかった。だってこれ以上、自分に何ができる?
聞き覚えのある足音がこちらに近づいてきたのは、そのときだった。
植木鉢の影にさっと体を隠すと、カラカラと引き戸を開く音に続いて「ただいま……」辛気臭く懐かしい声が聞こえた。
「彩! ああ、今、浩史とすれ違わなかった?」
「え、パパ……? 会ってないけど……」
困惑した様子の彩に祖母が事情を告げる。彩はしばらく黙りこんだあとに、一言「わかった」と告げた。
納得したはずの頭の中で、ぶつん、何かが切れた。
「えっ、黒猫さん!?」
戸惑う白猫を置き去りに、植木鉢の影から飛び出した。
戸口の前、祖母から二言、三言声をかけられ、頷くその後姿を見る。顔を見なくてもわかった。あの気味の悪い笑顔を浮かべてること。次に続く言葉は『わたしは大丈夫』なんだろう。地を蹴って、駆け出した。
ああ! 意味なんてもうどうでもいい。ただ。とにかく。もうひたすらに。
「――僕はその顔を浮かべてるおまえが、大っ嫌いなんだよ!」
黒猫は立ち尽くしたままの彩のふくらはぎを靴下ごしに思いっきり引っ掻いた。
「痛ッ!」
悲鳴をあげて振り返るその瞳が驚きに見開かれる。
再会を喜ぶ隙など与えずに、黒猫はふたたび走り出す。一度だけ振り向いた。それで彩には十分伝わるはずだ、と妙な確信があった。
祖母が呼び止める声を振り切ったんだろう、背中の向こうで駆ける足音が確かに届く。
黒猫は商店街を目指した。父親が向かった方向などわからない。もう近くにはいないのかもしれない。それでも、人が多い場所、少しでも可能性のあるところに行きたかった。
小道の終点、商店街肉屋前。夕暮れ前の道はまだ人通りは少ない。あたりを見回しても、父親らしき影は見当たらない。それでも。
(これでよかった――なんて猫が逆立ちしたって思えるはずがないだろ、ばかやろう!)
黒猫はがむしゃらに首を振った。鈴の音が響きわたる。叶うはずがない。
もう、力なんてない。だからこれはただの祈りだ。
世界がこうあってほしい、という、ちっぽけなただの猫が願う祈りだった。
『彩の父親! いるなら出てこい!』
黒猫は変化を待った。一秒、二秒、時間は無情にも経過していく。あたりにそれらしき影は現れない。
(――やっぱり、だめか)
うなだれる黒猫の後ろ、ようやく追いついた彩がぜえぜえと息を荒くするのが聞こえた。振り返る気にもなれないでいると、突然息が詰まったように静かになった。
なんだか不自然に感じて振り返ると、彩の目はまっすぐに一点を見つめていた。その視線を追いかける。
薬局の自動ドアが開きっぱなしだった。マットの上に黒の革靴。スーツケースを持つ手にビニール袋を下げた父親が、そこに立ち尽くしていた。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
1
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる