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第六章
高台からの景色
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夜が明ける、少し前のことだった。
黒猫はうっすらと目を開いた。隣にあたたかなぬくもり、自分以外の呼吸のリズム。ひとりじゃないことに驚いて、少しずつ記憶が今日へとつながっていく。頭上には葉が重なり合う緑の天井。黒猫を狙う猫に警戒して、寝床を高台の緑地に移したのは昨晩のことだった。もし誰かが襲って来てもわたしが返り討ちにしてやるけど、と長い爪で笑ってみせた勇猛な彼女は、すぴすぴと鼻を鳴らしてまだ夢の中だ。
白猫と再会してから数日、一緒に家々をめぐり、通い猫としてご飯をもらっている。身体には少しずつ力が戻ってきた。ひどく細切れだった睡眠もだいぶ長くとれるようになってきた。たまにうなされて目覚めるときも、大丈夫、と言うように白猫がそっと寄り添う。
まるで、こちらが――今が、夢のなかにいるみたいだった。
白猫を起こさないようにそっと起き上がると、黒猫は大きくひとつ伸びをした。
空が少しずつ色を変えていく。
ふと、以前にもこの場所に白猫と訪れたなと思い出した。
それは確か、河川敷で山田に出会い、忘れていた過去や鈴について知って間もない頃のことだ。町を見下ろしながら、灰色の風景にため息をついたんだった。
『……あいもかわらず、つまんない町』
そう言って。
黒猫はふっと笑いを漏らし、歩きはじめた。確か、こっちだ。肌寒さに少し身震いしながらも足を進めていくと、立ち塞がる木々たちがさっと道を開いたように、突然視界がぱっと開けた。
あった、この町を一望できるスポット。
黒猫は石垣にぴょんと跳び乗ると、目の前に広がる景色を見つめた。しずかにのぼる朝日が、黒猫の世界を照らし始めようとしている。違和感を感じたのはそのときだ。
まぶしい。最初にそう感じた。
町がひかりに飲まれていく。ビルの窓がちらちらと輝き、揺れる。橙、黄、金色の、まばゆい。
ぶるりと震えが走った。ひかりは、今までのひかりじゃなかった。町は、同じ町には見えなかった。縦横無尽にひかりの手は伸びていく。黒猫のひげをそっと撫でるように、瞳の奥をつらぬくように。
溢れるようにその言葉は口からこぼれた。
「……きれいだ」
「うんうん、きれいだねー」
ひとりごとに相槌。さして思ってもなさそうな、うさんくさい声色。憎たらしい聞き覚えのある男の。
石垣を跳び降りると、がさりと足元の落ち葉が音を立てた。目の前にいる男――山田はひらひらと手を振りながら、笑った。
「やあ、黒猫ちゃん。どうもおひさしぶり」
まるで気持ちは突然のどしゃ降りだ。さまざまな思いが一気に降り注ぎ、体中はびしょ濡れでもみくちゃ。わけがわからなくなる。ようやく絞り出したなんてことない言葉は、情けないことに震えた。
「い、今までどこに……」
ふ、と山田が小さく笑う。
「探しててくれたんだ? 嬉しいなあ。ちょっと別件で駆り出されててさ、しばらく上の方にいたんだ。まったく神様も天使使いが荒いよね」
山田は空を指差しながら見上げたが、黒猫は見上げない。じっと山田から目を離さずに、続けた。
「……鈴の力が、使えなくなった」
「らしいね~」
まるで見てきたかのように、いや今見ているんだろう、山田が言った。
「でも、大丈夫だったようで何より何より。白猫ちゃんのおかげだね。あの子はたくましいなあ。今は女の子の時代だよね~」
「――ふざけるな!」
その口ぶりのあまりの軽さに、胸のうちを渦巻いていた感情がついに爆発した。
「あんな……あんなのが大丈夫なわけがないだろ! なんなんだよ、いつも自分だけわかったような顔して……あんた、腐ったもの食べたことあるのかよ。飢えて、幻覚みたりとかしたことあるのかよ!? 少しも、少しもわかってないくせに――」
「うん、ごめん」
あまりにも素直に謝られて、言葉が続かなくなった。
ぶつけどころを失って、足元の土を落ち葉ごと蹴り飛ばす。黄に色を変えた葉がぱらぱらと舞い散る。こころがぐちゃぐちゃだった。この男を責めたところで、なくなった鈴の力が戻ってくるわけでもないのに――。
「あ、ちなみになくなっちゃったわけじゃないよ? 鈴の力は。眠ってるだけ」
補足、と言わんばかりのあっさりとした口調に、思わず聞き逃しそうになる。打ちひしがれていた頭がようやくその意味を理解した瞬間、黒猫は猛烈な勢いで顔を上げた。
「な、なくなったわけじゃないって……それ、ほんと!?」
「うん。大丈夫大丈夫、すぐにまた使えるようになるよ」
山田がにこりと気色の悪い笑みを浮かべる。だけど、今回ばかりはまさしく天の使いのように思えた。
また戻れる。明日に怯えることのない生活に。誰にも負けない、強い自分に。
ほっとするあまり突っ伏してしまいそうになりながら、どうにか山田を見上げる。
「どっ、どうすれば……」
「せかさないでよ。ちゃんと教えるから。ただ、ひとつお願いを聞いてもらってもいいかな?」
「お願い?」
山田は鼻の下をこすりながら言った。
「ちょっと付き合って欲しいところがあるんだ、今日」
瞬間、白猫の笑みがぱっと頭をよぎった。昨夜、彩の家に一緒に行こうと約束したところだった。
「……今日は、約束が……」
口をついて出た言葉に自分で自分が驚く。約束がなんだ。どんなことだって鈴よりは優先順位が低いに決まってるのに。
だけど訂正する間もなく、山田がにこっと笑った。
「大丈夫、白猫ちゃんには俺から説明しておくよ。ちなみに明日彩ちゃんは先生に野暮用を頼まれて遅くなる日だから、明後日のほうがおすすめ」
また勝手に過去を見たな。黒猫が睨むと、楽しげに笑って山田はきびすを返した。
「じゃあ、交渉成立ってことで。夕方四時に、肉屋前のベンチで」
付き合ってほしいことってコロッケかよ。
がっくりときているうちに、山田の背中はまばたきの隙間を縫うように消え失せてしまった。
今のは、夢じゃないよな? 問うように見上げた先で、木々たちはひかりを浴びて歌うように輝く。
黒猫はうっすらと目を開いた。隣にあたたかなぬくもり、自分以外の呼吸のリズム。ひとりじゃないことに驚いて、少しずつ記憶が今日へとつながっていく。頭上には葉が重なり合う緑の天井。黒猫を狙う猫に警戒して、寝床を高台の緑地に移したのは昨晩のことだった。もし誰かが襲って来てもわたしが返り討ちにしてやるけど、と長い爪で笑ってみせた勇猛な彼女は、すぴすぴと鼻を鳴らしてまだ夢の中だ。
白猫と再会してから数日、一緒に家々をめぐり、通い猫としてご飯をもらっている。身体には少しずつ力が戻ってきた。ひどく細切れだった睡眠もだいぶ長くとれるようになってきた。たまにうなされて目覚めるときも、大丈夫、と言うように白猫がそっと寄り添う。
まるで、こちらが――今が、夢のなかにいるみたいだった。
白猫を起こさないようにそっと起き上がると、黒猫は大きくひとつ伸びをした。
空が少しずつ色を変えていく。
ふと、以前にもこの場所に白猫と訪れたなと思い出した。
それは確か、河川敷で山田に出会い、忘れていた過去や鈴について知って間もない頃のことだ。町を見下ろしながら、灰色の風景にため息をついたんだった。
『……あいもかわらず、つまんない町』
そう言って。
黒猫はふっと笑いを漏らし、歩きはじめた。確か、こっちだ。肌寒さに少し身震いしながらも足を進めていくと、立ち塞がる木々たちがさっと道を開いたように、突然視界がぱっと開けた。
あった、この町を一望できるスポット。
黒猫は石垣にぴょんと跳び乗ると、目の前に広がる景色を見つめた。しずかにのぼる朝日が、黒猫の世界を照らし始めようとしている。違和感を感じたのはそのときだ。
まぶしい。最初にそう感じた。
町がひかりに飲まれていく。ビルの窓がちらちらと輝き、揺れる。橙、黄、金色の、まばゆい。
ぶるりと震えが走った。ひかりは、今までのひかりじゃなかった。町は、同じ町には見えなかった。縦横無尽にひかりの手は伸びていく。黒猫のひげをそっと撫でるように、瞳の奥をつらぬくように。
溢れるようにその言葉は口からこぼれた。
「……きれいだ」
「うんうん、きれいだねー」
ひとりごとに相槌。さして思ってもなさそうな、うさんくさい声色。憎たらしい聞き覚えのある男の。
石垣を跳び降りると、がさりと足元の落ち葉が音を立てた。目の前にいる男――山田はひらひらと手を振りながら、笑った。
「やあ、黒猫ちゃん。どうもおひさしぶり」
まるで気持ちは突然のどしゃ降りだ。さまざまな思いが一気に降り注ぎ、体中はびしょ濡れでもみくちゃ。わけがわからなくなる。ようやく絞り出したなんてことない言葉は、情けないことに震えた。
「い、今までどこに……」
ふ、と山田が小さく笑う。
「探しててくれたんだ? 嬉しいなあ。ちょっと別件で駆り出されててさ、しばらく上の方にいたんだ。まったく神様も天使使いが荒いよね」
山田は空を指差しながら見上げたが、黒猫は見上げない。じっと山田から目を離さずに、続けた。
「……鈴の力が、使えなくなった」
「らしいね~」
まるで見てきたかのように、いや今見ているんだろう、山田が言った。
「でも、大丈夫だったようで何より何より。白猫ちゃんのおかげだね。あの子はたくましいなあ。今は女の子の時代だよね~」
「――ふざけるな!」
その口ぶりのあまりの軽さに、胸のうちを渦巻いていた感情がついに爆発した。
「あんな……あんなのが大丈夫なわけがないだろ! なんなんだよ、いつも自分だけわかったような顔して……あんた、腐ったもの食べたことあるのかよ。飢えて、幻覚みたりとかしたことあるのかよ!? 少しも、少しもわかってないくせに――」
「うん、ごめん」
あまりにも素直に謝られて、言葉が続かなくなった。
ぶつけどころを失って、足元の土を落ち葉ごと蹴り飛ばす。黄に色を変えた葉がぱらぱらと舞い散る。こころがぐちゃぐちゃだった。この男を責めたところで、なくなった鈴の力が戻ってくるわけでもないのに――。
「あ、ちなみになくなっちゃったわけじゃないよ? 鈴の力は。眠ってるだけ」
補足、と言わんばかりのあっさりとした口調に、思わず聞き逃しそうになる。打ちひしがれていた頭がようやくその意味を理解した瞬間、黒猫は猛烈な勢いで顔を上げた。
「な、なくなったわけじゃないって……それ、ほんと!?」
「うん。大丈夫大丈夫、すぐにまた使えるようになるよ」
山田がにこりと気色の悪い笑みを浮かべる。だけど、今回ばかりはまさしく天の使いのように思えた。
また戻れる。明日に怯えることのない生活に。誰にも負けない、強い自分に。
ほっとするあまり突っ伏してしまいそうになりながら、どうにか山田を見上げる。
「どっ、どうすれば……」
「せかさないでよ。ちゃんと教えるから。ただ、ひとつお願いを聞いてもらってもいいかな?」
「お願い?」
山田は鼻の下をこすりながら言った。
「ちょっと付き合って欲しいところがあるんだ、今日」
瞬間、白猫の笑みがぱっと頭をよぎった。昨夜、彩の家に一緒に行こうと約束したところだった。
「……今日は、約束が……」
口をついて出た言葉に自分で自分が驚く。約束がなんだ。どんなことだって鈴よりは優先順位が低いに決まってるのに。
だけど訂正する間もなく、山田がにこっと笑った。
「大丈夫、白猫ちゃんには俺から説明しておくよ。ちなみに明日彩ちゃんは先生に野暮用を頼まれて遅くなる日だから、明後日のほうがおすすめ」
また勝手に過去を見たな。黒猫が睨むと、楽しげに笑って山田はきびすを返した。
「じゃあ、交渉成立ってことで。夕方四時に、肉屋前のベンチで」
付き合ってほしいことってコロッケかよ。
がっくりときているうちに、山田の背中はまばたきの隙間を縫うように消え失せてしまった。
今のは、夢じゃないよな? 問うように見上げた先で、木々たちはひかりを浴びて歌うように輝く。
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