すべてが叶う黒猫の鈴

雪町子

文字の大きさ
上 下
23 / 36
第五章

たくさんの名前

しおりを挟む
「おじーちゃん、お願いっ! どうしても欲しい服があんの。ほんのちょっとでいいから……」
「やらん」
「そこをなん……」
「何度言われてもやらんもんはやらん! 小遣いはちゃんともらってるんだろう。それで足りないならバイトでもなんでもしたらどうだ。いつまでもじじばばが孫に甘いと思うなよ」
 白猫に連れられるままやってきたその場所で、まず耳に入ってきたのはそんな会話だった。
 正座をして拝むように頼み込む孫をちらとも見ることなく、縁側に腰を下ろした男はバサッと音を立てて新聞をめくる。
 そのバサッが孫の癇に障ったらしい。
「……クソジジイ。大っ嫌い!」
「なっ……」
 男が振り向くころには娘の姿はもうなく、間もなくバン! と玄関のドアが勢いよく閉まる音が続いた。大きなため息を一つつくと、男はまた気難しげな顔で新聞に目を落とす。
「あの人は洋一さん。とっても優しいひとよ」
 眉間に深く刻まれた皺、ぎょろりとした瞳、への字の口、止むことのない貧乏ゆすり、極めつけに今の会話。『優しい』はどこに? とりあえずどこにも猫のつけ入る隙間なんてなさそうだ。しかし、そう黒猫が考えている間にもう白猫は洋一に歩み寄っていた。
「こんにちは、洋一さん」
 人間の耳にはにゃあとしか聞こえないであろうに、律儀に挨拶をして。
 バサリ。音がして新聞から洋一が顔を上げた。
 そのとき、黒猫は自分の目を疑った。
 洋一の顔が溶けたのかと思ったのだ。目尻が、鼻の下が、口角が、とろとろとろっと。
「モモカッ、モモカじゃないかっ! おいおい、しばらくぶりだな。元気か? 元気なのか、おお? よーしよしよしよし」
 大きな掌でがしがしと乱暴に撫でられながらも、慣れたものなのか白猫は嬉しそうに尻尾を振っている。
 ……本当に、さっきと同じ生物か?
 にわかには信じがたい光景に瞬きを繰り返していると、離れたところから様子を伺っていた黒猫の存在に洋一が気づいた。鋭い瞳がこちらを見る。思わずぎくりと後ずさった。
「今日は連れがいるのか。前に連れてきたブチ猫以来だな」
 ちょいちょいと手招きされるが、黒猫は固まったまま動かない。そのままの位置で、しばらく見つめあう。
 と、洋一はふっと目元を緩め、よっこいしょと腰を上げた。
 しばらくして戻ってきた洋一の手には、鰹節のパックがあった。
「悪いが今日はこれぐらいしかなくてな。半分こだ」
 ごくり、と喉が鳴った。まるで黄金の香りだ。空っぽの胃がきゅうと縮まる。庭石にもさっと積まれた鰹節を、目が自動的に追ってしまう。
 白猫がこちらを振り返る。尻尾がおいでおいでと揺れている。
 さっきの言葉が耳によみがえった。
『わたしにまかせて』
 黒猫はおそるおそる白猫に並ぶと、積まれた鰹節をぺろりとひと舐めした。一瞬で、口どころか全身に味が染みわたった。頭に星がはじけたみたいだ。夢中で石の表面まで舐めつくして、ようやく息をついた。
 顔をあげると、いつの間にか白猫は庭石の上に横になり、お腹まで撫でさせていた。洋一はバターみたいにとろけてどこまでも流れていきそうな顔をしている。
 ガチャガチャ、バタン!
 玄関からドアの開閉音が聞こえたとたん、その顔は瞬く間に引き締まった。
 家中を走り回る足音に「ねえ、あたしの携帯知らなーい?」と孫の声が続く。
「……またか。お前はなんでもすぐになくす」
「ねーえ、電話かけてよー」
 むっつりとした顔、ぶすっとした口調。元通りの頑固爺の顔に戻って立ち上がると、白猫をちらりと横目で見る。ほんの少しだけ名残惜しそうな色をにじませて。
「モモカ、またいつでも来いよ。……お前もな」
 最後は黒猫に向けての言葉らしかった。ぶつぶつと言いながら、洋一は部屋の中へ戻っていく。あっけにとられている黒猫の横で、白猫はうーんと勢いよく伸びをした。
「じゃあ次、行きましょうか」
「……次?」
 白猫は言葉どおり次々に黒猫を人間の家へと連れて行った。
 たとえば片思いの女の子の名前をつけて『サヤ』と呼ぶたび照れる青年のアパートの窓。たとえば旦那と時を近くして亡くなった猫の『ティンク』が天国から会いに来たと喜ぶおばあさんのイングリッシュガーデン。
 そこで出会う人間たちは老若男女様々で、共通点があるとしたら、どの人間も白猫が可愛くて仕方ないらしいことだった。そして白猫もまた、ひどく楽しげにその人間について話すのだ。黒猫のように、ただ一度食べ物を得るだけでない『関係』を白猫は築いていた。
 こちらを振り返り微笑む白猫を、黒猫は不思議な思いで見つめていた。
(知らなかった。何も。知ろうとさえしてなかったんだ、僕は)
 ばかみたいだとおもう。ずっと一緒にいたのに、今、初めて白猫に出会っているような気がするなんて。
「――じゃあ、次は……」
 はっと我に返った。もう白猫は歩みを進めはじめている。
「も、もういいよ! もう十分、お腹いっぱいになったから……」
 焦ってそう言うと、白猫は「ほんとに? 遠慮してない?」と顔を近づけてくる。黒猫がこくこく頷くと、ようやく納得したように体を引いた。
「きみは……ほかにもまだ、こういう家があるの?」
「ええと、そうね……あと十軒ぐらい、あるかな」
「そんなに!?」
 驚くと、白猫は苦笑した。「今日はすごくいいほうだったの」
「人間がよく家にいる日だったし。日によっては誰もいなかったり、いても頭を撫でられるだけだったり、引っ越してしまったり……だから、できるだけ数は持っていたほうがいいの。ごはんに釣られて捕まって、気づいたら耳を少し切られてたり、こわいこともあったんだけどね」
「昔から、そうやって生きてきたの?」
 尋ねると、白猫は少しだけ遠い目をして、それから優しく微笑んだ。
「ねえ、黒猫さん。もう一か所だけ、連れて行きたいところがあるんだけど……いい?」
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

独身寮のふるさとごはん まかないさんの美味しい献立

水縞しま
ライト文芸
旧題:独身寮のまかないさん ~おいしい故郷の味こしらえます~ 第7回ライト文芸大賞【料理・グルメ賞】作品です。 ◇◇◇◇ 飛騨高山に本社を置く株式会社ワカミヤの独身寮『杉野館』。まかない担当として働く有村千影(ありむらちかげ)は、決まった予算の中で献立を考え、食材を調達し、調理してと日々奮闘していた。そんなある日、社員のひとりが失恋して落ち込んでしまう。食欲もないらしい。千影は彼の出身地、富山の郷土料理「ほたるいかの酢味噌和え」をこしらえて励まそうとする。 仕事に追われる社員には、熱々がおいしい「味噌煮込みうどん(愛知)」。 退職しようか思い悩む社員には、じんわりと出汁が沁みる「聖護院かぶと鯛の煮物(京都)」。 他にも飛騨高山の「赤かぶ漬け」「みだらしだんご」、大阪の「モダン焼き」など、故郷の味が盛りだくさん。 おいしい故郷の味に励まされたり、癒されたり、背中を押されたりするお話です。 

あなたと私のウソ

コハラ
ライト文芸
予備校に通う高3の佐々木理桜(18)は担任の秋川(30)のお説教が嫌で、余命半年だとウソをつく。秋川は実は俺も余命半年だと打ち明ける。しかし、それは秋川のついたウソだと知り、理桜は秋川を困らせる為に余命半年のふりをする事になり……。 ―――――― 表紙イラストはミカスケ様のフリーイラストをお借りしました。 http://misoko.net/

心の落とし物

緋色刹那
ライト文芸
・完結済み(2024/10/12)。また書きたくなったら、番外編として投稿するかも ・第4回、第5回ライト文芸大賞にて奨励賞をいただきました!!✌︎('ω'✌︎ )✌︎('ω'✌︎ ) 〈本作の楽しみ方〉  本作は読む喫茶店です。順に読んでもいいし、興味を持ったタイトルや季節から読んでもオッケーです。  知らない人、知らない設定が出てきて不安になるかもしれませんが、喫茶店の常連さんのようなものなので、雰囲気を楽しんでください(一応説明↓)。 〈あらすじ〉  〈心の落とし物〉はありませんか?  どこかに失くした物、ずっと探している人、過去の後悔、忘れていた夢。  あなたは忘れているつもりでも、心があなたの代わりに探し続けているかもしれません……。  喫茶店LAMP(ランプ)の店長、添野由良(そえのゆら)は、人の未練が具現化した幻〈心の落とし物(こころのおとしもの)〉と、それを探す生き霊〈探し人(さがしびと)〉に気づきやすい体質。  ある夏の日、由良は店の前を何度も通る男性に目を止め、声をかける。男性は数年前に移転した古本屋を探していて……。  懐かしくも切ない、過去の未練に魅せられる。 〈主人公と作中用語〉 ・添野由良(そえのゆら)  洋燈町にある喫茶店LAMP(ランプ)の店長。〈心の落とし物〉や〈探し人〉に気づきやすい体質。 ・〈心の落とし物(こころのおとしもの)〉  人の未練が具現化した幻。あるいは、未練そのもの。 ・〈探し人(さがしびと)〉  〈心の落とし物〉を探す生き霊で、落とし主。当人に代わって、〈心の落とし物〉を探している。 ・〈未練溜まり(みれんだまり)〉  忘れられた〈心の落とし物〉が行き着く場所。 ・〈分け御霊(わけみたま)〉  生者の後悔や未練が物に宿り、具現化した者。込められた念が強ければ強いほど、人のように自由意志を持つ。いわゆる付喪神に近い。

極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~

恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」 そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。 私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。 葵は私のことを本当はどう思ってるの? 私は葵のことをどう思ってるの? 意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。 こうなったら確かめなくちゃ! 葵の気持ちも、自分の気持ちも! だけど甘い誘惑が多すぎて―― ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。

私と継母の極めて平凡な日常

当麻月菜
ライト文芸
ある日突然、父が再婚した。そして再婚後、たった三ヶ月で失踪した。 残されたのは私、橋坂由依(高校二年生)と、継母の琴子さん(32歳のキャリアウーマン)の二人。 「ああ、この人も出て行くんだろうな。私にどれだけ自分が不幸かをぶちまけて」 そう思って覚悟もしたけれど、彼女は出て行かなかった。 そうして始まった継母と私の二人だけの日々は、とても淡々としていながら酷く穏やかで、極めて平凡なものでした。 ※他のサイトにも重複投稿しています。

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

【完結】愛も信頼も壊れて消えた

miniko
恋愛
「悪女だって噂はどうやら本当だったようね」 王女殿下は私の婚約者の腕にベッタリと絡み付き、嘲笑を浮かべながら私を貶めた。 無表情で吊り目がちな私は、子供の頃から他人に誤解される事が多かった。 だからと言って、悪女呼ばわりされる筋合いなどないのだが・・・。 婚約者は私を庇う事も、王女殿下を振り払うこともせず、困った様な顔をしている。 私は彼の事が好きだった。 優しい人だと思っていた。 だけど───。 彼の態度を見ている内に、私の心の奥で何か大切な物が音を立てて壊れた気がした。 ※感想欄はネタバレ配慮しておりません。ご注意下さい。

【完結】失いかけた君にもう一度

暮田呉子
恋愛
偶然、振り払った手が婚約者の頬に当たってしまった。 叩くつもりはなかった。 しかし、謝ろうとした矢先、彼女は全てを捨てていなくなってしまった──。

処理中です...