すべてが叶う黒猫の鈴

雪町子

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第五章

似た者親子

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 日々は姿を変えてしまった。
 すべてのものから身を隠すように、黒猫は息をひそめて生活した。
 狩りを知らない黒猫は、鼠や雀などの小動物はおろか虫すら捕まえることができなかった。なるべくお腹が空かないように、とにかく暇があれば寝る。空腹になれば、ほかの猫がいない時間帯を狙ってゴミを漁る。腐った匂いに慣れなくて何度も吐きそうになった。
 彩のところに行けば、きっと何かが口にできただろう――そう、たとえば飽きるほどの魚肉ソーセージ。だけど、どれだけ腹を鳴らしても黒猫は庭に寄りつかなかった。そこに白猫がいるかもしれないから。会いたくなかった。絶対に。
 山田のアパートには何度となく足を運んだ。いつまで経っても部屋にひとがいる気配はない。まるで消えてしまったみたいだった。鈴の力と一緒に。
 山田のいそうな場所と言えばコロッケ、肉屋の前の行列だ。すがるように祈るように黒猫は何時間でも待ち続けた。山田はそれでも現れない。
 ひとつだけ分かったことがあったとすれば、山田を待っているのは自分だけじゃないということだった。
 眉間にしわを寄せ不機嫌そうな顔で、唐木田は今日もコロッケの列に並んでいる。
 いつも変わらず、買ったコロッケを店の近くのベンチで、空いていないときは壁に寄りかかって立ち食いで、ぱくぱく食べきってすぐさま帰る。
 ただ、ひとつだけ頼んでいるはずだったコロッケは、いつのまにかふたつに増えている。ふたつ分待ってみても、山田は現れないままだったけれど。
(いったいコロッケ何個分待ったら、あいつは現れるんだろうね)
 心のなかで、去っていく背中に語りかけた。無意味な問い。
お腹が空いて空きすぎると、頭が食べ物で支配されるようになってくる。
 魚肉ソーセージを頬張る白昼夢を見た。隣で笑う、白猫の柔らかな白い毛も。スケッチブックから顔をあげて、彩もハの字眉毛でおかしそうに笑う。
 黒猫は庭の逆方向へと足を向ける。庭から遠く、とおく、遠く。

 雲のない夜だ。水面に映りこんだ月の光がゆらゆらと揺れている。
 久しぶりに訪れた河川敷は何も変わっていない。痩せ細った黒猫だけが異質だった。鈴が使えなくなってから、どのぐらい経ったのだろう。たったの数日にも思えるし、もう何か月かが経過したようにも思えた。
 ちりりん、と鈴を鳴らしてみる。
「……おなか、すいた……」
 言葉は闇に溶けるだけ。
 彩がいつも座っていた場所まで足を伸ばすと、先客がいた。スーツ姿の若くはない男だ。傍にコンビニのビニール袋。時折ビールの缶をあおるのがシルエットでわかった。
 遠くなってしまった風景のなかで、なぜか初めて会うはずの男だけが近く感じた。
 湿気がまとわりつくような風がひとつ吹いた。鈴がちりりんと鳴ると、音に導かれるように男が振り向いた。
 黒猫は思わずぎょっとした。その顔に見覚えがあったからだ。
「……黒猫に縁があるな」
 彩の父親がぼそりと呟く声もまた、闇に溶けていった。
 特にそれ以上の興味はないようで、川に視線を戻した父親が缶をあおる。ごくり、喉仏が上下する。
(こんなところで何やってるんだ。彩の待つ家に帰りもせずに)
「ああ、そういえば……」
 突然ごそごそと袋のなかを漁りはじめたかと思えば――「これ、いる?」差し出されたのは夢にまで見た、魚肉ソーセージだった。
 瞬く間によだれで口が満ちていく。そろそろと距離を縮めそうになって、慌てて踏みとどまる。この男にほどこしなんて受けたくない。
 近づいて来ない黒猫を見て、父親は不慣れな手つきで包みをとってしまうと、小さくちぎってから少し離れた草の上に置いた。
「ご自由にどうぞ」
 聞こえるか聞こえないかぐらいの声でそうつぶやいて、また元の場所で座り込んだ。何事もなかったかのように、また缶ビールをごくり。
 食べても食べなくても心からどうでもいい、という情のない重さ。だけど、今このときの黒猫にはその重さがちょうどよかった。
 匂いが鼻まで届く。それだけで味がよみがえる。空腹をこれ以上抑えこむのは無理だった。がつがつと音がするような、我ながら切羽詰まった食べ方だ。むさぼるように口にしたそれは、冗談みたいに美味しかった。
「……ほんとうに好きなのはきみたちなんだろうな」つぶやく声に目をやると、首だけこちらに傾けた父親と目が合った。「家に帰れば沢山あるんだ、それ」
「うちの娘が好きだから買ってほしいって母に頼んだらしくて……」
 ふっと鼻で笑う。
「本当にたんまりでね、笑えるよ。あまりお願いをしたりする子じゃないから、よほど嬉しかったんだろう」
 前に会ったときと少し印象が違う。酔っているのかもしれない。
「もしかして本当にあのときの黒猫――」
 言いかけて、また鼻で笑う。
「バカバカしい。黒猫がどれだけいると思ってるんだ。酔ってきたかな」
 凝った肩をほぐすようにぐるぐると肩を回すと、スーツが汚れるのも気にせず後ろに倒れた。仰向けで空を見上げる。
「疲れたな……」
 さっさと立ち去ればよかったのに、そのつぶやきが黒猫のこころを代弁しているようで、つられるように黒猫も空を見上げた。
 途方もない闇に浮かぶ、ちっぽけな月。
 寝てしまったのかと思うぐらいの長い沈黙のあと、「変わってないな、僕は」吐く息とともに父親が言った。
「昔からよく、この土手に意味もなく来てたんだ。家に帰りたくなくて。父も母も真っ当ないい人間なんだ。ただ、あの人たちの望むことに僕が応えられないだけで。いつまでたっても噛み合わない。時々息苦しくなると、ここで日が暮れるまでぼーっとしてた。気持ちが落ち着いた。川がただ流れる、それだけなんだけど」
 微かな水音が響く。幼い父親が膝を抱えてその音を聞いている。
「そういえば、彩も連れてきたことがあったかな。咲と別れて、この町に越して来た日。彩は借りてきた猫みたいに大人しくて……こんな何もないところに連れて来られて困ってたんじゃないかな」
 風が草をなびかせる。その向こう、今より少しだけ幼い彩が父親に手を引かれて立っている。
「わかってるんだけどね……いびつな歯車は僕なんだって」
 今に重なる景色が消えた。残ったのは寝転ぶ若くない男と薄汚れた黒猫。ああ、なんて冴えない風景だ。
 首だけがこちらを向いた。彩と重なる、ハの字の眉毛。
「もし。もし、きみがあのときの黒猫なら……これからも彩と仲良くしてやって。あの子のあんな楽しそうな顔は、久しぶりに見た。僕じゃあんな顔はさせてやれないから」
 それだけ言うと、父親はよいしょと腰を上げた。スーツについた草を払うと、傍の鞄と袋を手に取る。なかには空のビール缶。
「酔っ払いの戯言を聞いてくれてどうもありがとう。じゃあね」
 父親はもう振り返らなかった。そのまま風景に溶けてしまいそうな背中を、黒猫はずっと見つめていた。
「……あんた、彩を思ってるんじゃないか」
 そして、彩も父親を思っている。
 その証拠に彩はここにずっと座っていた。
 この場所から見える風景を絵にしていたのだ。
「なんだ……似たもの親子なんじゃないか……」
 空腹が満たされたせいか、気が抜けたせいか、眠気が波のように襲ってくる。
 少しの間、寝よう。草の上、うずくまって目を閉じる。遠のく意識のなか、ちょっと遅かったな、と黒猫は思った。
 あの絵を見たら、きっとわかったのに。特別のカケラがすぐ近くにあること。
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