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第四章
つよいひかり
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「今日もこの後行くんでしょ? 彩ちゃんのところ」
翌日、暑苦しい日向を避けて木陰でぼんやり涼んでいたところだった。
待ちきれないようにこちらを見る白猫は、今日はずいぶんと調子がよさそうだ。だけど黒猫はどうにも乗り気になれなかった。
「あいつ……いないかもしれないよ」
「彩ちゃん? なんで?」
「いや……なんとなく」
当たり前だが白猫はまったく腑に落ちない顔をしている。でも、なんとなく第三者が話すことではない気がした。それに何より、黒猫自身が昨日のことをまだうまく整理できないでいる。
「じゃあとりあえず行ってみて、いなかったらまた考えましょ」
そう言われてしまうと、断ることはできなかった。昨日の今日でいるはずがないが、姿がないことを確認すれば白猫も諦めるだろう……と踏んで、しぶしぶ頷いた。
ところが黒猫の予想とは裏腹に、彩は庭にいた。
花に水をやりながら、ときどき様子をうかがうように葉を撫でている。白猫がにゃあとはしゃいだ声をあげると、こちらに気づき目を細めた。
「今日は白猫ちゃんも一緒だ」
嬉しそうに笑うその顔は、いつもと変わらないように見えた。昨日のことは夢か幻だったんじゃないかと思うぐらいに。
彩はいつもどおりにスケッチブックを膝にのせ、傍らのクレヨンの箱を開ける。
心配して損をした。いや、心配なんかべつにしてないけど。そう、心配じゃなくて……なんだかもやもやするだけだ。
昨日から彩はまるで別人みたいだ、と黒猫は思う。
黒猫の知る彩は、目の前の相手に思うことの少しも伝えられない、ぐずぐずとしたやつだった。誰かを責めることをしない代わり、自分ばかりをいつも責めていた。
そのどれもが、昨日の彩とは結びつかない。今の彩とも。いつの間に、そんなに強くなったんだろう――。
ポトッ、と音がした。
何かがそばに落ちている。庭の緑に映える、橙色。彩がつかみ損ねて落としたクレヨンだった。
なんだよドジだな、とそのときは思っただけだった。けれど、音はもう一度聞こえた。
クレヨンが、また緑の上に転がる。
さすがにおかしい気がして見上げた先、彩の手が震えていることに気がついた。右手をぎゅっと左手でおさえこむように握りしめて、なお震える。
そのとき、黒猫の目に映るはずのないものがはっきりと見えた。
あるのだ。外からは見えない、だけど内側にざっくりと大きな傷跡が。
痛い、痛い、と口にしない代わりに、誰にともなく彩は呟いた。
「……こわい」
(――なんだ。やっぱり弱いままじゃないか)
今目の前にいるのは、出会った頃と同じ彩なのだ。
急に強くなれるわけがない。逃げそうな足をぐっとこらえて。飲み込みそうになる言葉をどうにか紡ぎ出して。そうして立ち向かった結果、大きな大きな傷を負った。
(そういうのを、ただのバカっていうんじゃないか)
弱いくせに無理するから。安全な場所で絵だけ描いていればよかったのに。いくらだってそうさせてやれたのに。昨日だって僕が、鈴の力で。いくらだって、僕が。
言葉が続かなかった。
(僕が――いったい、何をできたっていうんだろう)
圧倒されるばかりだった。痛みを越えて、まっすぐに前を向く眼差しに。変わっていくための、つよいひかりに。
「――黒猫さん。黒猫さんってば」
声に振り向けば、白猫がお腹を見せたり、喉を鳴らしたり、体をこすりつけたり、必死に彩を励まそうとしているところだった。ちらちらと視線を送ってくる。黒猫もなんとかして励ませ、と言いたいのだろう。
そう、今度こそ鈴を使ってしまえばいい。簡単なことだ。
『昨日のことは忘れて元気になれ』、と。
でも、黒猫は首を振るわなかった。なぜ? 浮かぶ問いに、心が答える。
だって、置き去りにしたくない。今の彩も、昨日の彩も、おとといの彩も。ぜんぶ。
自分でも何が言いたいかわからないまま、黒猫は彩に声をかけた。
「僕は花みたいに優しくないから。頭を撫でさせてやったり、喉を鳴らすなんて死んでもごめんだ」
励ませと言ったのに! という目で白猫が睨んでくるけど無視をする。どうせ彩にはにゃあにゃあ鳴いてるようにしか聞こえないのだ。よく見れば少し腫れている瞼の下、弱々しい眼差しが黒猫に向けられる。揺れる瞳を捉えて離さんとするがごとく、黒猫もまっすぐに見返した。
「でも……絵なら、描かせてやってもいい」
魔法を使えば、もっとすごく簡単に、彩の心を楽にできる。
だけど、黒猫は自分の中に言葉を探した。結局言いたいことは、これしかなかったのだけど。
「描いてよ、彩。……僕が、見たいから」
何層にも重なる蝉の鳴き声があたりに響いている。彩の震える唇が、動いた。
「黒猫くんの瞳って……やっぱり、すごくきれい。不思議な色してる。何色と何色を混ぜたら描けるんだろう」
しっぽが急降下で地面まで落ちる。猫の言葉が伝わるはずもなし、彩の言葉は明後日を向いていた。わかっていた、わかっていたけれど。
項垂れる黒猫の上、ふいに彩が小さく吹き出した。
「変なの……わたし、やっぱり、絵のことばっかり考えてるんだ」
困ったようなハの字の眉毛で、絡んだ糸が解けるように笑う。
「描きたいなあ……描きたい。わたし、絵が描きたい。もっと」
手のひらを大きく広げて、ぐっと拳をつくる。その繰り返し。うまく力の入らない手のひらがクレヨンを握りこむ。色は赤。真っ白なスケッチブックに伸びていく、へたくそな線。それでも。
「――わたし、黒猫くんみたいに、強くなりたいな」
彩の瞳のなか、陽を跳ね返すひかりが輝いている。
翌日、暑苦しい日向を避けて木陰でぼんやり涼んでいたところだった。
待ちきれないようにこちらを見る白猫は、今日はずいぶんと調子がよさそうだ。だけど黒猫はどうにも乗り気になれなかった。
「あいつ……いないかもしれないよ」
「彩ちゃん? なんで?」
「いや……なんとなく」
当たり前だが白猫はまったく腑に落ちない顔をしている。でも、なんとなく第三者が話すことではない気がした。それに何より、黒猫自身が昨日のことをまだうまく整理できないでいる。
「じゃあとりあえず行ってみて、いなかったらまた考えましょ」
そう言われてしまうと、断ることはできなかった。昨日の今日でいるはずがないが、姿がないことを確認すれば白猫も諦めるだろう……と踏んで、しぶしぶ頷いた。
ところが黒猫の予想とは裏腹に、彩は庭にいた。
花に水をやりながら、ときどき様子をうかがうように葉を撫でている。白猫がにゃあとはしゃいだ声をあげると、こちらに気づき目を細めた。
「今日は白猫ちゃんも一緒だ」
嬉しそうに笑うその顔は、いつもと変わらないように見えた。昨日のことは夢か幻だったんじゃないかと思うぐらいに。
彩はいつもどおりにスケッチブックを膝にのせ、傍らのクレヨンの箱を開ける。
心配して損をした。いや、心配なんかべつにしてないけど。そう、心配じゃなくて……なんだかもやもやするだけだ。
昨日から彩はまるで別人みたいだ、と黒猫は思う。
黒猫の知る彩は、目の前の相手に思うことの少しも伝えられない、ぐずぐずとしたやつだった。誰かを責めることをしない代わり、自分ばかりをいつも責めていた。
そのどれもが、昨日の彩とは結びつかない。今の彩とも。いつの間に、そんなに強くなったんだろう――。
ポトッ、と音がした。
何かがそばに落ちている。庭の緑に映える、橙色。彩がつかみ損ねて落としたクレヨンだった。
なんだよドジだな、とそのときは思っただけだった。けれど、音はもう一度聞こえた。
クレヨンが、また緑の上に転がる。
さすがにおかしい気がして見上げた先、彩の手が震えていることに気がついた。右手をぎゅっと左手でおさえこむように握りしめて、なお震える。
そのとき、黒猫の目に映るはずのないものがはっきりと見えた。
あるのだ。外からは見えない、だけど内側にざっくりと大きな傷跡が。
痛い、痛い、と口にしない代わりに、誰にともなく彩は呟いた。
「……こわい」
(――なんだ。やっぱり弱いままじゃないか)
今目の前にいるのは、出会った頃と同じ彩なのだ。
急に強くなれるわけがない。逃げそうな足をぐっとこらえて。飲み込みそうになる言葉をどうにか紡ぎ出して。そうして立ち向かった結果、大きな大きな傷を負った。
(そういうのを、ただのバカっていうんじゃないか)
弱いくせに無理するから。安全な場所で絵だけ描いていればよかったのに。いくらだってそうさせてやれたのに。昨日だって僕が、鈴の力で。いくらだって、僕が。
言葉が続かなかった。
(僕が――いったい、何をできたっていうんだろう)
圧倒されるばかりだった。痛みを越えて、まっすぐに前を向く眼差しに。変わっていくための、つよいひかりに。
「――黒猫さん。黒猫さんってば」
声に振り向けば、白猫がお腹を見せたり、喉を鳴らしたり、体をこすりつけたり、必死に彩を励まそうとしているところだった。ちらちらと視線を送ってくる。黒猫もなんとかして励ませ、と言いたいのだろう。
そう、今度こそ鈴を使ってしまえばいい。簡単なことだ。
『昨日のことは忘れて元気になれ』、と。
でも、黒猫は首を振るわなかった。なぜ? 浮かぶ問いに、心が答える。
だって、置き去りにしたくない。今の彩も、昨日の彩も、おとといの彩も。ぜんぶ。
自分でも何が言いたいかわからないまま、黒猫は彩に声をかけた。
「僕は花みたいに優しくないから。頭を撫でさせてやったり、喉を鳴らすなんて死んでもごめんだ」
励ませと言ったのに! という目で白猫が睨んでくるけど無視をする。どうせ彩にはにゃあにゃあ鳴いてるようにしか聞こえないのだ。よく見れば少し腫れている瞼の下、弱々しい眼差しが黒猫に向けられる。揺れる瞳を捉えて離さんとするがごとく、黒猫もまっすぐに見返した。
「でも……絵なら、描かせてやってもいい」
魔法を使えば、もっとすごく簡単に、彩の心を楽にできる。
だけど、黒猫は自分の中に言葉を探した。結局言いたいことは、これしかなかったのだけど。
「描いてよ、彩。……僕が、見たいから」
何層にも重なる蝉の鳴き声があたりに響いている。彩の震える唇が、動いた。
「黒猫くんの瞳って……やっぱり、すごくきれい。不思議な色してる。何色と何色を混ぜたら描けるんだろう」
しっぽが急降下で地面まで落ちる。猫の言葉が伝わるはずもなし、彩の言葉は明後日を向いていた。わかっていた、わかっていたけれど。
項垂れる黒猫の上、ふいに彩が小さく吹き出した。
「変なの……わたし、やっぱり、絵のことばっかり考えてるんだ」
困ったようなハの字の眉毛で、絡んだ糸が解けるように笑う。
「描きたいなあ……描きたい。わたし、絵が描きたい。もっと」
手のひらを大きく広げて、ぐっと拳をつくる。その繰り返し。うまく力の入らない手のひらがクレヨンを握りこむ。色は赤。真っ白なスケッチブックに伸びていく、へたくそな線。それでも。
「――わたし、黒猫くんみたいに、強くなりたいな」
彩の瞳のなか、陽を跳ね返すひかりが輝いている。
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