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第四章
杏と彩
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追いかけっこは河川敷まで続いた。永遠に続くかと思われたふたりの――いや、ふたりと一匹の追いかけっこは突然終わりを迎えた。
走る速度はおなじぐらいでも、体力は彩のほうがあるらしい。
「ま、待って、杏ちゃん」
どうにか肩をつかんだ彩を体ごと振り払う勢いで、杏は暴れた。
「離してよ!」
バランスを崩した杏につられて彩までもが、芝生の傾斜を転がり落ちていく。ぎょっとした黒猫が坂の上から様子をうかがうと、身体中に草をつけたふたりは、それでもなんとか無事のようだった。
うつむいたままぴくりとも動かない杏に、彩が顔色を変える。
「杏ちゃん、だいじょうぶ!? どこか打っ……」
「名前で呼ばないでよ! 友だちでもなんでもないんだから!」
ガラスの破片のように尖りきった声だった。
「言っておくけど、あんたなんかに助けられても全然うれしくないから。なに? 正義の味方きどり? いいこちゃんぶるの気持ち悪いからやめて」
吐き捨てるように言うと、鼻で笑う。
「よかったじゃん。杏がいじめられてんの見てすっきりしたんじゃない? ざまあみろって。これでおあいこでしょ」
「――おあいこじゃないよ」
黙って聞いていた彩がはじめて反応したことに、杏は不愉快そうに顔をしかめた。
彩の顔にははっきりと、こわい、と書かれている。それでも続けた。やめなかった。
「わ、わたしがされたことと、杏ちゃんがされたこと、べつだよ。杏ちゃんがいじめられたからって、おあいこになんかならない。なかったことになんて……できない……」
「へえ? だからおあいこなんて許さないって? じゃあ、ほっとけばよかったじゃん。いい子ぶらないでさ!」
自分のなかに言葉を探すように、「わたしは、」と、口にする。
「……いじめられてたとき、ずっとかなしかった。誰かたすけて、ってずっと思ってた。杏ちゃんがいじめられるようになって『ほら、かなしいでしょ』って思ったよ。『杏ちゃんがしたことだよ』って。でも、ずっと痛かった。杏ちゃんが……わたしみたいだったから」
「はあ!? 杏が? 木原さんみたい? やめてよ、気持ち悪っ」
刺だらけの言葉に体を震わせながらも、彩はぐっと足を踏みしめる。杏とはっきり向き合うために。
「……そうなの、本当はちがうの。ば、ばかみたいだよね。でも、わたしにはわたしに見えたの。だから、さっきは――杏ちゃんを助けたわけじゃなくて……かなしくてずっと泣いてる、わたしを助けにいったんだ」
彩は杏を見つめ返す。静かな、ただ同じぐらい強い瞳で。
唇を噛むと、杏は笑った。いつも通りに笑い飛ばした。
「なーんだ。結局木原さんだって、杏のこと友だちだなんて思ってないんじゃん。そうだよね、『友だちなら絵やめてよ』って杏が何度言ってもやめてくれなかったもんね。杏は友だちだと思ってたのにさ」
彩の瞳が揺れる。
「ごめん……杏ちゃんのこと、友だちだと思ってたよ。でも、絵は……わたしには絵しかなかったから……」
「『絵しかない』とか、今度は天才きどり? バッカみたい。ママにほめられたぐらいでいい気にならないでよね!」
「えっ」という表情を彩が、「あっ」という表情を杏が浮かべた。思わず口走ってしまったようだった。決まり悪げにそっぽを向いた杏に、おずおずと彩が口を開く。
「あの……前も言ったけど、わたし、杏ちゃんのママをとったりなんか――」
『ママ』という言葉を耳にした瞬間、杏の顔色が変わる。
「うるさいっ! あんたがママの話するなっ!」
突然目の前で爆発が起きたかのようだった。
「なんなの、さっきから杏ばっかり悪者にして……あんたが悪いくせに! ぜんぶぜんぶ! 大っ嫌い、大っ嫌い、大っ嫌い!」
真っ赤な顔でしゃがみこんで、ぶちぶちと草を抜いては投げつける。草は彩まで届かずにひらひらと地面に落ちていく。
「鉛筆がBとHB以外もあるって知らないくせに! クレヨンよりもずっといい道具、杏は沢山持ってる! 杏のほうが頑張ってる! いつもっ、毎日っ、頑張ってる! なのに……なんで杏がほめられなくて、彩ちゃんなんかがママにほめられるの!?」
杏が顔をしかめる。草の端で手のひらを切ったのだ。傷口に赤がにじんでいく。怒りが徐々に色褪せていく。
「……あの絵。杏が黒く塗りつぶした、あの、川の絵。ママに見せたの。『杏が描いた』って嘘ついて。そしたらママ、すっごく喜んだ。『さすがママの娘ね』って。じゃあ、ほんとのママの娘は彩ちゃんなの? 杏は? にせもの?」
嵐のような怒りが去ったあとには、もう何も残っていなかった。ぽたぽたと、手のひらに、地面に雫が落ちていく。しゃくりあげたまま、膝に顔をうずめる。
「彩ちゃん見てると、心の中が真っ黒になる。どんどん嫌なやつになるの。杏、こんな子じゃなかったのに。もうお願いだから、どっか行って。話しかけないで。杏も話しかけないから。お願い。お願い……」
静かだった。彩も、杏も、本当はここに誰もいなくて、何も起こらなかったかもしれないというぐらいに。
「……転校してきたとき、ね」
彩がふと、それだけを口にした。
「一番はじめに話しかけてくれて、嬉しかった。わたし、友だちつくるのへたくそだから」
杏は返事をしない。
「杏ちゃんの描くオリキャラ好きだった……頭に杏ちゃんみたいなリボンつけたキリンさん。絵を描く友だちができたの初めてで、すごい、嬉しかった……」
自分を抱きしめるように膝をかかえる杏の、肩だけがかすかに揺れていた。カチューシャが、そっと杏のそばに置かれる。
「……ばいばい」
体中につけた草を払うこともなく、あとからこぼれつづける涙をぬぐうこともなく、彩が坂をのぼりはじめる。黒猫は、彩が気づく前に姿を消した。
河川敷はいつもの平穏を取り戻している。出番をなくした鈴の音は響かない。
走る速度はおなじぐらいでも、体力は彩のほうがあるらしい。
「ま、待って、杏ちゃん」
どうにか肩をつかんだ彩を体ごと振り払う勢いで、杏は暴れた。
「離してよ!」
バランスを崩した杏につられて彩までもが、芝生の傾斜を転がり落ちていく。ぎょっとした黒猫が坂の上から様子をうかがうと、身体中に草をつけたふたりは、それでもなんとか無事のようだった。
うつむいたままぴくりとも動かない杏に、彩が顔色を変える。
「杏ちゃん、だいじょうぶ!? どこか打っ……」
「名前で呼ばないでよ! 友だちでもなんでもないんだから!」
ガラスの破片のように尖りきった声だった。
「言っておくけど、あんたなんかに助けられても全然うれしくないから。なに? 正義の味方きどり? いいこちゃんぶるの気持ち悪いからやめて」
吐き捨てるように言うと、鼻で笑う。
「よかったじゃん。杏がいじめられてんの見てすっきりしたんじゃない? ざまあみろって。これでおあいこでしょ」
「――おあいこじゃないよ」
黙って聞いていた彩がはじめて反応したことに、杏は不愉快そうに顔をしかめた。
彩の顔にははっきりと、こわい、と書かれている。それでも続けた。やめなかった。
「わ、わたしがされたことと、杏ちゃんがされたこと、べつだよ。杏ちゃんがいじめられたからって、おあいこになんかならない。なかったことになんて……できない……」
「へえ? だからおあいこなんて許さないって? じゃあ、ほっとけばよかったじゃん。いい子ぶらないでさ!」
自分のなかに言葉を探すように、「わたしは、」と、口にする。
「……いじめられてたとき、ずっとかなしかった。誰かたすけて、ってずっと思ってた。杏ちゃんがいじめられるようになって『ほら、かなしいでしょ』って思ったよ。『杏ちゃんがしたことだよ』って。でも、ずっと痛かった。杏ちゃんが……わたしみたいだったから」
「はあ!? 杏が? 木原さんみたい? やめてよ、気持ち悪っ」
刺だらけの言葉に体を震わせながらも、彩はぐっと足を踏みしめる。杏とはっきり向き合うために。
「……そうなの、本当はちがうの。ば、ばかみたいだよね。でも、わたしにはわたしに見えたの。だから、さっきは――杏ちゃんを助けたわけじゃなくて……かなしくてずっと泣いてる、わたしを助けにいったんだ」
彩は杏を見つめ返す。静かな、ただ同じぐらい強い瞳で。
唇を噛むと、杏は笑った。いつも通りに笑い飛ばした。
「なーんだ。結局木原さんだって、杏のこと友だちだなんて思ってないんじゃん。そうだよね、『友だちなら絵やめてよ』って杏が何度言ってもやめてくれなかったもんね。杏は友だちだと思ってたのにさ」
彩の瞳が揺れる。
「ごめん……杏ちゃんのこと、友だちだと思ってたよ。でも、絵は……わたしには絵しかなかったから……」
「『絵しかない』とか、今度は天才きどり? バッカみたい。ママにほめられたぐらいでいい気にならないでよね!」
「えっ」という表情を彩が、「あっ」という表情を杏が浮かべた。思わず口走ってしまったようだった。決まり悪げにそっぽを向いた杏に、おずおずと彩が口を開く。
「あの……前も言ったけど、わたし、杏ちゃんのママをとったりなんか――」
『ママ』という言葉を耳にした瞬間、杏の顔色が変わる。
「うるさいっ! あんたがママの話するなっ!」
突然目の前で爆発が起きたかのようだった。
「なんなの、さっきから杏ばっかり悪者にして……あんたが悪いくせに! ぜんぶぜんぶ! 大っ嫌い、大っ嫌い、大っ嫌い!」
真っ赤な顔でしゃがみこんで、ぶちぶちと草を抜いては投げつける。草は彩まで届かずにひらひらと地面に落ちていく。
「鉛筆がBとHB以外もあるって知らないくせに! クレヨンよりもずっといい道具、杏は沢山持ってる! 杏のほうが頑張ってる! いつもっ、毎日っ、頑張ってる! なのに……なんで杏がほめられなくて、彩ちゃんなんかがママにほめられるの!?」
杏が顔をしかめる。草の端で手のひらを切ったのだ。傷口に赤がにじんでいく。怒りが徐々に色褪せていく。
「……あの絵。杏が黒く塗りつぶした、あの、川の絵。ママに見せたの。『杏が描いた』って嘘ついて。そしたらママ、すっごく喜んだ。『さすがママの娘ね』って。じゃあ、ほんとのママの娘は彩ちゃんなの? 杏は? にせもの?」
嵐のような怒りが去ったあとには、もう何も残っていなかった。ぽたぽたと、手のひらに、地面に雫が落ちていく。しゃくりあげたまま、膝に顔をうずめる。
「彩ちゃん見てると、心の中が真っ黒になる。どんどん嫌なやつになるの。杏、こんな子じゃなかったのに。もうお願いだから、どっか行って。話しかけないで。杏も話しかけないから。お願い。お願い……」
静かだった。彩も、杏も、本当はここに誰もいなくて、何も起こらなかったかもしれないというぐらいに。
「……転校してきたとき、ね」
彩がふと、それだけを口にした。
「一番はじめに話しかけてくれて、嬉しかった。わたし、友だちつくるのへたくそだから」
杏は返事をしない。
「杏ちゃんの描くオリキャラ好きだった……頭に杏ちゃんみたいなリボンつけたキリンさん。絵を描く友だちができたの初めてで、すごい、嬉しかった……」
自分を抱きしめるように膝をかかえる杏の、肩だけがかすかに揺れていた。カチューシャが、そっと杏のそばに置かれる。
「……ばいばい」
体中につけた草を払うこともなく、あとからこぼれつづける涙をぬぐうこともなく、彩が坂をのぼりはじめる。黒猫は、彩が気づく前に姿を消した。
河川敷はいつもの平穏を取り戻している。出番をなくした鈴の音は響かない。
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