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第四章
まっすぐな背中
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翌日、黒猫はふたたび小学校の前にいた。
山田の言葉に従うようで気が向かなかったけれど、もしかしたら彩は別の誰かにいじめられているのかもしれない、と思い至ったからだ。それならばもう一度鈴を使う必要がある。確かめにいかなくては。
『魔法で変えた心はずっとそのまま変わらない』
黒猫はうるさいとばかりに頭を振るった。そのまま変わらないのなら、むしろ願ったり叶ったりじゃないか。安全を保証するようなものだ。何度だって誰のだって変えてやる。
昨日と同じように、植え込みの暗がりに隠れて彩を待つ。下校時刻のチャイムが鳴ると、子どもたちが校舎からどっと飛び出してきた。
夏休みどこ行くの、あのさ、ばーか、きゃあ、ははは、ねー。
音が濁流のように流れるなか、黒猫の耳がぴくりと反応した。彩だ、と思った。
頼りのない、びくついた足取り。うつむいたまま、ランドセルの肩ベルトをぎゅっと握る。背中を猫のように丸めて。
「――え?」
そのランドセルは赤じゃなくて、薄紫色だった。髪の毛は肩の上を揺れている。人形みたいに整った顔立ちが今日は白すぎるぐらいに白い。
近づけばもう見間違えようがない。その女の子は――杏だった。
後ろから忍び寄ってきた女の子がすれ違いざまに、杏のカチューシャを奪った。確かユリとかいう、あの子だった。
「これ、ずっと可愛いと思ってたんだー。ユリにちょーだい」
「だっ、だめ! 返して!」
弾かれるように顔をあげた杏は、取り返そうと手を伸ばす。ユリはその手をかわすと、高く手を上げたまま走り出した。杏は足がそんなに速くないらしく、必死に走っても追いつけずに引き離されるばかりだ。それを見て、ユリと一緒にいた女の子たちは大笑いする。
「ひどい! なんでこんなことするの! 返してよ!」
「えー? 杏ちゃんだって同じことやってたじゃん、木原さんにさ」
言葉に詰まった杏を見て、ユリは勝ち誇った顔をする。
「カナっぺ、パース!」投げる。杏が追う。
「ゆうちゃん、はいっ」投げる。杏がまた追う。
傍目には遊んでいると見られているのか、誰も止めようとしない。
『あっちいけよ、ちび。お前じゃまなんだよ』
どうしたことか、杏の姿は、今度は黒猫の幼い頃に重なり出した。兄弟たちに押しのけられ、たやすく転がるちいさな体。
いや、違う。だってあいつは彩をいじめた側じゃないか。自業自得だ。いいざま。いい気味。それこそが自分の望んだこと。
大成功だ。そうだろう?
苦し気に息をあげながら、杏は声を震わせる。
「お願い……それは、ママが、ママとおそろいのなんだから……返してよ!」
カチューシャはまた誰かへと天高く放り投げられる。
「――木原さん!」
いつの間にやって来ていたのだろう――すぐそこに彩が立っていた。
呆然とした顔つきのまま、手にしたカチューシャを握りしめている。
「ほら、木原さん! パスパス、まわしてー!」ユリが声をかけると、彩の肩がぎくりと震えた。
杏は手を伸ばすことも忘れて彩を見ている。
しばらく立ち尽くしていた彩がゆっくりと顔を上げた。
あれ、と思ったのはきっとそのなかで黒猫だけだった。きゃあきゃあ騒ぐ群れのなかで、カチューシャを手にしたまま進む背中は……まっすぐにぴんと伸びている。
「え……?」
戸惑う杏の手にカチューシャをしっかりと握らせると、彩はユリへと向き直った。
「も、もう、こういうの……やめようよ」
その声は震えていた。からからに乾いた声は最後にはほとんど息みたいだった。
「は?」
目を疑うようにユリは彩を見返した。女の子たちも、まさかの展開に顔を見合わせる。え、まじ? どうする? ささやき合うような視線の交わし合い。
「……まあ、木原さんがそう言うんなら、べつにいいけど」
意外にもあっさり引いたユリに、彩だけではなく見ていた黒猫までが呆気にとられる。だが、すぐにその理由に思い当たる。魔法だ。この場の誰もが、二度と彩をいじめることはできないのだった。
「でも、ユリたちが悪者みたいに言うのやめて。木原さんの分もカタキとってあげたんだからね」
ふふんと笑うと、「なんかしらけちゃったねー」と、笑いながら仲間と一緒にさっさと校門を出て行ってしまった。後に、彩と杏だけを残して。
彩が返したはずのカチューシャは、次の瞬間には地面に叩きつけられていた。
「――バカにしないでよ。こんなの、もういらないから!」
杏が駆けていく。一瞬視線を泳がせた彩だったが、カチューシャを拾い上げると迷いを振り切るように走りはじめた。校門を出たふたりが目の前を過ぎていくのを黒猫は呆然と眺めていた。
(……いったい今、何が起きてるんだ?)
ふたりの姿が小さな豆粒になりはじめたところで、ようやく我にかえる。植え込みを出ると、黒猫は全速力でふたりの後を追った。
山田の言葉に従うようで気が向かなかったけれど、もしかしたら彩は別の誰かにいじめられているのかもしれない、と思い至ったからだ。それならばもう一度鈴を使う必要がある。確かめにいかなくては。
『魔法で変えた心はずっとそのまま変わらない』
黒猫はうるさいとばかりに頭を振るった。そのまま変わらないのなら、むしろ願ったり叶ったりじゃないか。安全を保証するようなものだ。何度だって誰のだって変えてやる。
昨日と同じように、植え込みの暗がりに隠れて彩を待つ。下校時刻のチャイムが鳴ると、子どもたちが校舎からどっと飛び出してきた。
夏休みどこ行くの、あのさ、ばーか、きゃあ、ははは、ねー。
音が濁流のように流れるなか、黒猫の耳がぴくりと反応した。彩だ、と思った。
頼りのない、びくついた足取り。うつむいたまま、ランドセルの肩ベルトをぎゅっと握る。背中を猫のように丸めて。
「――え?」
そのランドセルは赤じゃなくて、薄紫色だった。髪の毛は肩の上を揺れている。人形みたいに整った顔立ちが今日は白すぎるぐらいに白い。
近づけばもう見間違えようがない。その女の子は――杏だった。
後ろから忍び寄ってきた女の子がすれ違いざまに、杏のカチューシャを奪った。確かユリとかいう、あの子だった。
「これ、ずっと可愛いと思ってたんだー。ユリにちょーだい」
「だっ、だめ! 返して!」
弾かれるように顔をあげた杏は、取り返そうと手を伸ばす。ユリはその手をかわすと、高く手を上げたまま走り出した。杏は足がそんなに速くないらしく、必死に走っても追いつけずに引き離されるばかりだ。それを見て、ユリと一緒にいた女の子たちは大笑いする。
「ひどい! なんでこんなことするの! 返してよ!」
「えー? 杏ちゃんだって同じことやってたじゃん、木原さんにさ」
言葉に詰まった杏を見て、ユリは勝ち誇った顔をする。
「カナっぺ、パース!」投げる。杏が追う。
「ゆうちゃん、はいっ」投げる。杏がまた追う。
傍目には遊んでいると見られているのか、誰も止めようとしない。
『あっちいけよ、ちび。お前じゃまなんだよ』
どうしたことか、杏の姿は、今度は黒猫の幼い頃に重なり出した。兄弟たちに押しのけられ、たやすく転がるちいさな体。
いや、違う。だってあいつは彩をいじめた側じゃないか。自業自得だ。いいざま。いい気味。それこそが自分の望んだこと。
大成功だ。そうだろう?
苦し気に息をあげながら、杏は声を震わせる。
「お願い……それは、ママが、ママとおそろいのなんだから……返してよ!」
カチューシャはまた誰かへと天高く放り投げられる。
「――木原さん!」
いつの間にやって来ていたのだろう――すぐそこに彩が立っていた。
呆然とした顔つきのまま、手にしたカチューシャを握りしめている。
「ほら、木原さん! パスパス、まわしてー!」ユリが声をかけると、彩の肩がぎくりと震えた。
杏は手を伸ばすことも忘れて彩を見ている。
しばらく立ち尽くしていた彩がゆっくりと顔を上げた。
あれ、と思ったのはきっとそのなかで黒猫だけだった。きゃあきゃあ騒ぐ群れのなかで、カチューシャを手にしたまま進む背中は……まっすぐにぴんと伸びている。
「え……?」
戸惑う杏の手にカチューシャをしっかりと握らせると、彩はユリへと向き直った。
「も、もう、こういうの……やめようよ」
その声は震えていた。からからに乾いた声は最後にはほとんど息みたいだった。
「は?」
目を疑うようにユリは彩を見返した。女の子たちも、まさかの展開に顔を見合わせる。え、まじ? どうする? ささやき合うような視線の交わし合い。
「……まあ、木原さんがそう言うんなら、べつにいいけど」
意外にもあっさり引いたユリに、彩だけではなく見ていた黒猫までが呆気にとられる。だが、すぐにその理由に思い当たる。魔法だ。この場の誰もが、二度と彩をいじめることはできないのだった。
「でも、ユリたちが悪者みたいに言うのやめて。木原さんの分もカタキとってあげたんだからね」
ふふんと笑うと、「なんかしらけちゃったねー」と、笑いながら仲間と一緒にさっさと校門を出て行ってしまった。後に、彩と杏だけを残して。
彩が返したはずのカチューシャは、次の瞬間には地面に叩きつけられていた。
「――バカにしないでよ。こんなの、もういらないから!」
杏が駆けていく。一瞬視線を泳がせた彩だったが、カチューシャを拾い上げると迷いを振り切るように走りはじめた。校門を出たふたりが目の前を過ぎていくのを黒猫は呆然と眺めていた。
(……いったい今、何が起きてるんだ?)
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