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第四章
ざまあみろ
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校門近くの植込みに黒猫はそっと隠れている。
かたく細かい葉に囲まれた体はなんだかこそばゆいけれど、また「黒猫は不吉」とかわけがわからない理由で頭の悪い子どもを相手にするのは面倒だった。
「ふああ……」
暑すぎない、日向ぼっこ日和だ。さっさと終わらせて、昼寝のつづきに入らなければ。
瞳と耳だけが後を絶たず出てくる子どもの群れを追って細かく動く。頭より先に耳がぴくりと反応した。ざわざわとうるさい声、かちかちと金属部のかみ合うランドセル、地面を踏みしめる音の重なり。その向こうに、ひときわ冴えない足取りを聞き分けた。
やがてランドセルの肩ベルトをぎゅっと握りしめた彩が現れた。もともと小柄な体は猫背のせいでいっそう小さく、まるで全身で「ごめんなさい」と言っているよう。とにかく辛気くさい。
突然、彩が膝から崩れ落ちた。
「ごめーん! 気がつかなかったー」
かたちばかりの謝罪だ。手を差し出すこともない。
笑い声を残して去っていく集団。そのまんなかに、肩までの黒い髪を弾ませる整った顔立ちの少女を見つけた。確か、名前は杏。
植込みの外に出た黒猫は、うしろを振り返る。彩は膝小僧についた土を払って立ち上がり、黒猫とは逆の方向に歩き始めるところだった。また、猫みたいに背を丸めて。
前に向きなおる。見失わないよう逃さないよう、通学路を駆け抜けた。
「――あいつ、ほんっとむかつく」
幼い甘さに毒の混じる声。黒猫は速度を落とし、少しずつ距離を縮めていく。
「あいつって木原さん? 杏、ほんと木原さんキライだよね」
「いらいらするんだもん! 転校してくんないかな。クラス替えまで遠いし」
いら立ちが抑えきれないように爪を噛む。
「そんなむかつく? ユリ、べつにそうでもないけどな~」
のんきな調子でユリという少女が口をはさむと、杏はぴたりと足を止めた。
「ユリちんはどっちの友達なわけ?」
振り返った杏の顔を見て、ユリは顔色を変えて「そりゃ杏ちゃんだけど」と続ける。
周りの少女たちもしんとおしゃべりをやめて二人を見ている。
「……ユリちんは木原さんのこと詳しくないからしょうがないか」
杏は長い息をひとつ吐くと、ぴんと張った糸を切るようににこっと微笑んだ。
「ユリちん、カネトくん好きなんだよね」
ユリは顔をちょっと赤くする。
「そうだけど……それがなに?」
「じゃあカネトくん、木原さんに取られちゃうかもよ。あいつ、『フリン女』の子どもだから」
『フリン』というあやしい言葉に何人かが食いつき、「あたし知ってるー」とまた何人かが笑う。
「あいつのママ、結婚してたくせにほかの男の人好きになって出てったんだって。やばくない? きっと親子で男好きなんだよ。ああやっておどおどして男に守られるの待ってるのかも」
言いすぎだよ、といさめる少女たちの目も好奇心で輝いている。
どうやら前に彩のクラスメイトが話していたことのつづきは、これだったようだ。確かに今まで彩の母親が家にいる気配はなかった。この先も現れることはないらしい。
ただ、なぜ、それだけのことを笑うのだろう。そして、母親のことと彩になんの関係があるのだろう。おどおどして男が助けてくれるのを待ってる? ばかじゃないのか。怯えてるんだよ、次に起こることに。壊されてるんだよ、前にされたことで。
自分の絵をその手で細かく破いていく、猫みたいに丸まった彩のちいさな背中を思い出した。
もう二度とそんなことはさせない。あいつの色を塗りつぶさせない。
黒猫はゆっくりと首を振り、鈴を鳴らした。ちりん、ちりりん。
『――お前らは、もう二度と、彩をいじめることはできない』
次の瞬間、杏が大きく伸びをする。
「……でも、いいかげん飽きてきたかな。もうやめとく?」
「そうだねー」
さっきまでの騒ぎはどこへやら、少女たちはあっけなく頷いた。話題はもう次へと移っていた。ちいさな背中たちはだんだんと遠のいていく。
目的は果たした。もうこれで十分なはずだ。だけど、黒猫は杏から目が離せなかった。
これから彩がいじめられることはないだろう。でも、これまでは? 彩の絵を心を真っ黒に塗りつぶした、これまでは?
帳消しになんてならない。僕が、させてやらない。
ちりん、ちりりん。もう一度鈴を鳴らし、低くつぶやく。
『今度いじめられるのは……お前だ』
杏がひとり先に歩きはじめた。
「ねえ今日さ、うちに来て遊ばない?」
けれど、その後を誰もついていかない。
顔を見合わせた少女たちのなかで、ユリが「あー、ごめんね。今日用があって」と口火を切ると、「わたしもー」と声が次々と後に続いた。
不満を顔ににじませながらも「じゃあ、またね」と杏は曲がり角の向こうに去っていく。杏の姿がすっかり見えなくなるころ、急に少女たちは元気になった。
「ぶっちゃけ、杏わがまますぎ」
「ほんとほんと! もう付き合ってらんないよ。っていうか、木原さんもかわいそー」
コップから水があふれるように次々と杏への不満がこぼれだしてゆく。ユリが秘密を打ち明けるように小声で言った。
「ね、ね、ね。今日、ほんとは予定ないひとー」
全員が手を挙げる。
「じゃあ、ユリんちで遊ぼうよ!」
笑い声が遠く去っていく。少女たちの背中を黒猫はじっと見つめている。
ざまあみろ。さあ、昼寝の時間だ。
かたく細かい葉に囲まれた体はなんだかこそばゆいけれど、また「黒猫は不吉」とかわけがわからない理由で頭の悪い子どもを相手にするのは面倒だった。
「ふああ……」
暑すぎない、日向ぼっこ日和だ。さっさと終わらせて、昼寝のつづきに入らなければ。
瞳と耳だけが後を絶たず出てくる子どもの群れを追って細かく動く。頭より先に耳がぴくりと反応した。ざわざわとうるさい声、かちかちと金属部のかみ合うランドセル、地面を踏みしめる音の重なり。その向こうに、ひときわ冴えない足取りを聞き分けた。
やがてランドセルの肩ベルトをぎゅっと握りしめた彩が現れた。もともと小柄な体は猫背のせいでいっそう小さく、まるで全身で「ごめんなさい」と言っているよう。とにかく辛気くさい。
突然、彩が膝から崩れ落ちた。
「ごめーん! 気がつかなかったー」
かたちばかりの謝罪だ。手を差し出すこともない。
笑い声を残して去っていく集団。そのまんなかに、肩までの黒い髪を弾ませる整った顔立ちの少女を見つけた。確か、名前は杏。
植込みの外に出た黒猫は、うしろを振り返る。彩は膝小僧についた土を払って立ち上がり、黒猫とは逆の方向に歩き始めるところだった。また、猫みたいに背を丸めて。
前に向きなおる。見失わないよう逃さないよう、通学路を駆け抜けた。
「――あいつ、ほんっとむかつく」
幼い甘さに毒の混じる声。黒猫は速度を落とし、少しずつ距離を縮めていく。
「あいつって木原さん? 杏、ほんと木原さんキライだよね」
「いらいらするんだもん! 転校してくんないかな。クラス替えまで遠いし」
いら立ちが抑えきれないように爪を噛む。
「そんなむかつく? ユリ、べつにそうでもないけどな~」
のんきな調子でユリという少女が口をはさむと、杏はぴたりと足を止めた。
「ユリちんはどっちの友達なわけ?」
振り返った杏の顔を見て、ユリは顔色を変えて「そりゃ杏ちゃんだけど」と続ける。
周りの少女たちもしんとおしゃべりをやめて二人を見ている。
「……ユリちんは木原さんのこと詳しくないからしょうがないか」
杏は長い息をひとつ吐くと、ぴんと張った糸を切るようににこっと微笑んだ。
「ユリちん、カネトくん好きなんだよね」
ユリは顔をちょっと赤くする。
「そうだけど……それがなに?」
「じゃあカネトくん、木原さんに取られちゃうかもよ。あいつ、『フリン女』の子どもだから」
『フリン』というあやしい言葉に何人かが食いつき、「あたし知ってるー」とまた何人かが笑う。
「あいつのママ、結婚してたくせにほかの男の人好きになって出てったんだって。やばくない? きっと親子で男好きなんだよ。ああやっておどおどして男に守られるの待ってるのかも」
言いすぎだよ、といさめる少女たちの目も好奇心で輝いている。
どうやら前に彩のクラスメイトが話していたことのつづきは、これだったようだ。確かに今まで彩の母親が家にいる気配はなかった。この先も現れることはないらしい。
ただ、なぜ、それだけのことを笑うのだろう。そして、母親のことと彩になんの関係があるのだろう。おどおどして男が助けてくれるのを待ってる? ばかじゃないのか。怯えてるんだよ、次に起こることに。壊されてるんだよ、前にされたことで。
自分の絵をその手で細かく破いていく、猫みたいに丸まった彩のちいさな背中を思い出した。
もう二度とそんなことはさせない。あいつの色を塗りつぶさせない。
黒猫はゆっくりと首を振り、鈴を鳴らした。ちりん、ちりりん。
『――お前らは、もう二度と、彩をいじめることはできない』
次の瞬間、杏が大きく伸びをする。
「……でも、いいかげん飽きてきたかな。もうやめとく?」
「そうだねー」
さっきまでの騒ぎはどこへやら、少女たちはあっけなく頷いた。話題はもう次へと移っていた。ちいさな背中たちはだんだんと遠のいていく。
目的は果たした。もうこれで十分なはずだ。だけど、黒猫は杏から目が離せなかった。
これから彩がいじめられることはないだろう。でも、これまでは? 彩の絵を心を真っ黒に塗りつぶした、これまでは?
帳消しになんてならない。僕が、させてやらない。
ちりん、ちりりん。もう一度鈴を鳴らし、低くつぶやく。
『今度いじめられるのは……お前だ』
杏がひとり先に歩きはじめた。
「ねえ今日さ、うちに来て遊ばない?」
けれど、その後を誰もついていかない。
顔を見合わせた少女たちのなかで、ユリが「あー、ごめんね。今日用があって」と口火を切ると、「わたしもー」と声が次々と後に続いた。
不満を顔ににじませながらも「じゃあ、またね」と杏は曲がり角の向こうに去っていく。杏の姿がすっかり見えなくなるころ、急に少女たちは元気になった。
「ぶっちゃけ、杏わがまますぎ」
「ほんとほんと! もう付き合ってらんないよ。っていうか、木原さんもかわいそー」
コップから水があふれるように次々と杏への不満がこぼれだしてゆく。ユリが秘密を打ち明けるように小声で言った。
「ね、ね、ね。今日、ほんとは予定ないひとー」
全員が手を挙げる。
「じゃあ、ユリんちで遊ぼうよ!」
笑い声が遠く去っていく。少女たちの背中を黒猫はじっと見つめている。
ざまあみろ。さあ、昼寝の時間だ。
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