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第四章
好きってどんなもの
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『わたしに、黒猫くんを描かせてくれないかな』
ずぶぬれの彩がそう言ったのは数日前のことだった。同じくずぶぬれの黒猫がぽかんとしている間に『気が向いたらうちの庭に来て』と彩はくしゃみひとつを残して帰って行った。くしゅん。遅れて、黒猫もくしゃみをした。
その日から、黒猫はどこをとっても真っ黒な毛に顔を埋めながら考えた。
いったいなんだというのだろう。
なぜあの流れで僕を描こうって話になるのか。そもそも僕の絵なんか描いてどうする。あんなに色を詰め込んだ絵を描くのに、黒猫なんてただの黒しかないじゃないか。彩の絵から一番遠い気さえする。血迷ってるとしか思えない。
……それなのに一週間後。黒猫は青い屋根の下を訪れていた。
胸にあるのは、たいそうな意味も理由もなく、ただ『見てみたい』という、それだけ。寝ても覚めても考えるうちに風船のようにふくらんだ。あの瞳が、あの手が、どうかたちにするのか。
どんな逡巡もすべてその好奇心に負けたかたちになる。
うざったく話しかけられでもしたらすぐ帰ろうと思っていたが、絵を描いているときの彩はひどく静かだった。
瞳に焼き付けるかのごとく長く見つめていたかと思うと、次の瞬間には紙の上、吸いこんだ息を吐き出すような勢いで手を動かす。
彩の目は、どんなふうにできているんだろう。黒猫には心底不思議だった。
近づいてもまるで気づかないので、後ろからそっと回り込んでみる。ラクガキのようなタッチで黒猫が沢山描かれている。黒猫……だろうか。なぜだか赤、青、緑と色とりどり。
「あれっ」
いなくなったことにようやく気付いたらしい彩が辺りを見回す。後ろでにゃあと鳴いてみせると、驚きのあまりスケッチブックを地面に落っことした。まったくどんくさいやつ。
「いつの間に……なんだか、前もこういうことあったよね」
ぱんぱんとスケッチブックについた土を払う。幸い絵に汚れはついていないようだ。
黒猫の視線が絵にあるのに気付いた彩は「気になる?」と笑った。
「今はね、練習。黒猫くんのかたちをつかまえるっていうか……なんていったらいいのかな。あのね、写真みたいに、黒猫くんを見えるまま描きたいわけじゃないんだ。わたしの中の黒猫くんを描きたくて。ぼんやりしてるから、はっきりさせたいの。だから、今は見るために描いてる」
やっぱり全然わからなかったけれど、語る彩の瞳が力に溢れているのはわかった。
見たい、とまたつよく思う。
見てみたい。彩が描く――あの瞳に映る、自分の姿が。
「だから、黒猫くんはあんまり気にせず自由にしてて大丈夫。落ち着かないと思うけど」
……見透かされていたみたいで、なんとなくむかつく。
「――おかえりなさい」
寝床の歩道橋下に戻ってきた黒猫は、まったく歓迎されてない声で迎えられた。白猫はこちらをちらとも見ず、ばしっばしっと尻尾を地に打ち付けている。
「来てたんだ」
「来てましたけど」
「なんか不機嫌じゃない?」
「そんなこともありませんけど」
けど、のあとが本題にちがいない。駆け引きは苦手だ。
(なんだろう、何か忘れてたかな)
「最近、昼間いないことが多いのね」
「ああ、うん。ちょっと……用があって」
「また『用』。用、用、用。人間みたいにずいぶんと用事がおありなようで」
そう言って後ろを向いてしまう。尻尾がしおれている。なんだっていうんだ、いったい。
「……黒猫さん、浮気してないわよね」
「えっ」思わず声をあげると、白猫が畳みかけるように「その反応、もしかして……!」と迫ってきた。
「違うよ。まさかそんな勘違いしてるとは思わなくてびっくりしたんだ」
途端に勢いをなくした白猫はうなだれてしまう。
「だって……いつも何も言ってくれないし」
「そんなこと……」
あるな、と思い直す。でも言えるわけもない。
この場をどうおさめようかと考えていると、白猫がじっと見つめてきた。
「そんなこと『ない』なら、今日の用がなんだったのか教えて」
「えっ」一歩あとずさると、すかさず一歩白猫が詰めてくる。
「それから、わたしも一緒に連れて行って」
「ええっ」間近に迫った白猫の瞳がぎらぎらと燃えている。
「言っておくけど、ごまかそうとしたって無駄だから。そういうの全部、女にはわかるんだから!」
「わあっ、今日は白猫ちゃんも一緒なんだ」
縁側に置かれた扇風機がカタカタと首を振りながら風を送っている。その人工的なぬるい風に毛を撫でられながら、黒猫は気まずさのあまり深くうつむいていた。
「へえ……自分が来たくないって言ったくせに、こっそり来てたのね」
じろりと白猫が横目で見てくるのが気配でわかり、下げた頭がさらに下がる。まさか再びここに来ることになるとは、黒猫自身も思っていなかったのだからしょうがない。
枯れた花のようにしおれてしまった黒猫がおかしかったのか、白猫はふっと笑った。
「大丈夫よ、怒ってないから。ほっとしたし。わたしね、ここにまた来たかったの。だから今すごく嬉しい」
一目散に庭に咲き乱れる花のもとに走っていく。黒猫は花に詳しくないが、それでも夏の花は色鮮やかなものが多いと思う。赤い色のイチゴのような花、涼やかな薄紫が流水のような形をした花。
「見て。前に来た時とちがう花が咲いてる」
(また子猫みたいにはしゃいでる)
とりあえず機嫌はなおったようだとほっとしていると、うしろでちいさく笑う声がした。いぶかしげに見上げると彩が微笑んでいる。今、笑うようなことなんてあっただろうか。
「ごめんね、なんだか可愛くて……」彩はいっそう目を細めた。
「黒猫くんは白猫ちゃんのことが本当に好きなんだね。すごく、優しい目で見てた」
言われた意味がよくわからなかった。
好き? 優しく? 今、自分はただ白猫を見ていただけだ。
自分に『好き』なんて感情、あるわけがない。魔法の鈴を得た代償になくしたはずなのだから。
彩はもう縁側に腰を下ろし、膝上のスケッチブックをめくっている。なんとなくひっかかる気持ちがしながらも、まあいいかと黒猫も縁側にのぼった。彩の隣で丸くなる。
気にしなくていいと彩自身が言ったのだから、お言葉に甘えて寝てしまおう。なにせ今日はこんなにいい天気なのだから。
紙とクレヨンのこすれる音がなんだかくすぐったい。うっすらと開いた瞳の向こうでは白猫が飽きもせず花とじゃれている。木漏れ日のひかりに包まれて黒猫はこの上なく安心していた。そうしてゆっくりと夢の世界に落ちかけていたときだった。
「――彩」
突然の低い声に飛び起きた黒猫は、転げ落ちるように縁側を降りた。
和室の襖に手をかけてスーツ姿の男が立っていた。ほっそりとして、草みたいに静かなたたずまい。眼鏡をかけている以外に特徴という特徴のない男だった。
「パパ……帰ってきてたんだ」
どうやらこの男は、彩の父親らしい。眉毛を下げて困った顔をしている彩は、なぜか頬だけが赤かった。
「予定より早まってね。午前の便で成田についたんだ。電話しようかと思ったけど、帰って言えばいいかと思って」
「い、インド楽しかった?」
「遊びに行ったわけじゃないから、楽しくはないかな」
「しばらく、いられるの?」
「いや。本社の仕事を片付けたら、またどこかに出向することになると思う」
「……そうなんだ」
そこで会話は途切れてしまった。
落ち着かなげに紙の端を何度も指でこすっている娘と、何も感じてないかのように落ち着いた様子の父親。なんだか、ぎこちない親子だった。
ふいに父親の目が、彩ではなく黒猫を見た。
「――猫、飼い始めたのか。あっちにも一匹いるな」
「あっ、ちがうの。ふたりは……遊びに来てくれてるだけ。わたしが黒猫くんの絵を描いてるから……」
「彩、ふたりじゃないよ。二匹」
彩は焦ったようにうつむく。
「あ、そ、そうだよね。黒猫くんたちは友だちみたいだからつい……」
父親はわかったような、わかっていないような「そうか」を口にすると、つっかけに足を入れ、黒猫の頭を撫でようとしゃがみこんできた。なんだかこの男は気に入らない。思いきりそっぽを向いてやった。
「……嫌われちゃったみたいだな」
困ったように眉毛を下げて目を細める、その笑い方がはじめて彩に重なる。
「ずいぶんとボロボロだけど、新しいの買ってやろうか」
立ち上がった父親の視線がクレヨンの上にあるのに気づいた彩は、慌てて蓋を閉める。細かい欠片となっても本分を全うする、満身創痍の戦友たち。
「ま、まだ大丈夫。大事にするって、約束したでしょ?」
『大事にするって……約束したのにね』
懐かしい声が蘇る。折られてしまったクレヨンを前に彩がつぶやいた『約束』。あれは、父親とのものだったのか。
「そうだったっけ。でも、そんなにボロボロじゃ使いにくいだろ。遠慮しなくていいから」
なにか続けようとしたはずの彩の口からは何も出てこなかった。小さくお礼を言うと、またうつむいてしまう。
「じゃあ、ちょっと会社にも顔を出しておきたいから行くよ。こっちにいるうちに、どこか出かけような」
そうして父親はもう彩のことは振り返らずに家の中へと消えていった。変なやつがいなくなって黒猫はせいせいしたけれど、彩は見えない背中をいつまでも追い続けていた。
お礼なのか知らないが、彩はある程度絵が描き終わると、黒猫にご飯をふるまってくれる。今日は白猫と二匹連れだったせいか、いつもより豪勢だった。魚肉ソーセージ盛り、かつおぶしとにぼしを添えて。だから、帰り道はお腹が満たされてほんのりと眠い。
ぼんやりとした頭でコンクリートに長く伸びた影を踏むようにして歩いていると、突然横を歩く白猫が立ち止まった。前足で頭をかきはじめる。
「大丈夫?」
白猫は大丈夫と返す代わりに微笑んだ。
「最近ときどき頭が痛くなるの」
しばらく待って二匹はまた歩き始める。さっきよりゆっくりとした速度で。
「あんまり似てなかったね、彩たち。親子なのに」
「親子だからって皆似ているわけじゃないと思うわ」
「そうかな?」
会ったこともない父親譲りの真っ黒な毛に包まれた黒猫には、母親の真っ白な毛は一本も生えていない。確かにそうかもしれない。だとしたら、彩は母親に似ているのだろうか。
彩の顔をぼんやりと頭に浮かべているうち、そういえば今日おかしなことを言われたなと思い出す。
「あのさ……花の『好き』ってどんな感じ?」
「――どっ、どうしたの急に」
白猫の目がまんまるに見開かれる。
「いや、ちょっと気になって。よかったら説明してみてくれない?」
妙に早足になったので、黒猫も追って早足になる。
「そんなこと、普通聞かないわ」
「そうなんだ。でも僕は知りたいんだよ。お願い」
落ち着きなくぶんぶん尻尾が振られたかと思うと、急にぴたりとその動きが止まった。
「……好きになると、自分が自分じゃなくなったみたいになるの。どきどきしたり、切なくなったり、嫉妬してしまったり。心が少しだけ、乗っ取られてるみたいに」
「心が?」
心が自分だけのものじゃなかったことなんて黒猫にはない。やっぱり彩の気のせいだ。しかし『好き』ってそんな物騒なものなのか。
白猫は照れ隠しするように勢いよく振り返って尋ねる。「黒猫さんの『好き』は?」
「……僕?」
さてどうしたものか。白猫の喜びそうな答えはないかと考えていると、きらきらと自分をまっすぐに見つめる白猫の目とぶつかった。
本当の言葉を、待っていた。
何も言えないでいる黒猫を見て、白猫はなぜかおかしそうに笑う。
「ね、困るでしょ。言葉にできない気持ちってあるわ。あるならいいの。うまく言えなくっても」
白猫は黒猫の後ろに回り込むと、「この話は終わり! 行きましょ」と頭でぐいぐい押してきた。黒猫は押されながら、ふと地面に影がずいぶん広がっていることに気づく。少しずつ、そう、乗っ取られていくみたいに。
夜が近づいている。浮かび上がる白猫とは逆に、黒猫の姿は闇に溶けていった。
ああ、そうだ。やらなければいけないことをひとつ思い出した。
「――ねえ、花。この近くの小学校ってどこにあったっけ」
ずぶぬれの彩がそう言ったのは数日前のことだった。同じくずぶぬれの黒猫がぽかんとしている間に『気が向いたらうちの庭に来て』と彩はくしゃみひとつを残して帰って行った。くしゅん。遅れて、黒猫もくしゃみをした。
その日から、黒猫はどこをとっても真っ黒な毛に顔を埋めながら考えた。
いったいなんだというのだろう。
なぜあの流れで僕を描こうって話になるのか。そもそも僕の絵なんか描いてどうする。あんなに色を詰め込んだ絵を描くのに、黒猫なんてただの黒しかないじゃないか。彩の絵から一番遠い気さえする。血迷ってるとしか思えない。
……それなのに一週間後。黒猫は青い屋根の下を訪れていた。
胸にあるのは、たいそうな意味も理由もなく、ただ『見てみたい』という、それだけ。寝ても覚めても考えるうちに風船のようにふくらんだ。あの瞳が、あの手が、どうかたちにするのか。
どんな逡巡もすべてその好奇心に負けたかたちになる。
うざったく話しかけられでもしたらすぐ帰ろうと思っていたが、絵を描いているときの彩はひどく静かだった。
瞳に焼き付けるかのごとく長く見つめていたかと思うと、次の瞬間には紙の上、吸いこんだ息を吐き出すような勢いで手を動かす。
彩の目は、どんなふうにできているんだろう。黒猫には心底不思議だった。
近づいてもまるで気づかないので、後ろからそっと回り込んでみる。ラクガキのようなタッチで黒猫が沢山描かれている。黒猫……だろうか。なぜだか赤、青、緑と色とりどり。
「あれっ」
いなくなったことにようやく気付いたらしい彩が辺りを見回す。後ろでにゃあと鳴いてみせると、驚きのあまりスケッチブックを地面に落っことした。まったくどんくさいやつ。
「いつの間に……なんだか、前もこういうことあったよね」
ぱんぱんとスケッチブックについた土を払う。幸い絵に汚れはついていないようだ。
黒猫の視線が絵にあるのに気付いた彩は「気になる?」と笑った。
「今はね、練習。黒猫くんのかたちをつかまえるっていうか……なんていったらいいのかな。あのね、写真みたいに、黒猫くんを見えるまま描きたいわけじゃないんだ。わたしの中の黒猫くんを描きたくて。ぼんやりしてるから、はっきりさせたいの。だから、今は見るために描いてる」
やっぱり全然わからなかったけれど、語る彩の瞳が力に溢れているのはわかった。
見たい、とまたつよく思う。
見てみたい。彩が描く――あの瞳に映る、自分の姿が。
「だから、黒猫くんはあんまり気にせず自由にしてて大丈夫。落ち着かないと思うけど」
……見透かされていたみたいで、なんとなくむかつく。
「――おかえりなさい」
寝床の歩道橋下に戻ってきた黒猫は、まったく歓迎されてない声で迎えられた。白猫はこちらをちらとも見ず、ばしっばしっと尻尾を地に打ち付けている。
「来てたんだ」
「来てましたけど」
「なんか不機嫌じゃない?」
「そんなこともありませんけど」
けど、のあとが本題にちがいない。駆け引きは苦手だ。
(なんだろう、何か忘れてたかな)
「最近、昼間いないことが多いのね」
「ああ、うん。ちょっと……用があって」
「また『用』。用、用、用。人間みたいにずいぶんと用事がおありなようで」
そう言って後ろを向いてしまう。尻尾がしおれている。なんだっていうんだ、いったい。
「……黒猫さん、浮気してないわよね」
「えっ」思わず声をあげると、白猫が畳みかけるように「その反応、もしかして……!」と迫ってきた。
「違うよ。まさかそんな勘違いしてるとは思わなくてびっくりしたんだ」
途端に勢いをなくした白猫はうなだれてしまう。
「だって……いつも何も言ってくれないし」
「そんなこと……」
あるな、と思い直す。でも言えるわけもない。
この場をどうおさめようかと考えていると、白猫がじっと見つめてきた。
「そんなこと『ない』なら、今日の用がなんだったのか教えて」
「えっ」一歩あとずさると、すかさず一歩白猫が詰めてくる。
「それから、わたしも一緒に連れて行って」
「ええっ」間近に迫った白猫の瞳がぎらぎらと燃えている。
「言っておくけど、ごまかそうとしたって無駄だから。そういうの全部、女にはわかるんだから!」
「わあっ、今日は白猫ちゃんも一緒なんだ」
縁側に置かれた扇風機がカタカタと首を振りながら風を送っている。その人工的なぬるい風に毛を撫でられながら、黒猫は気まずさのあまり深くうつむいていた。
「へえ……自分が来たくないって言ったくせに、こっそり来てたのね」
じろりと白猫が横目で見てくるのが気配でわかり、下げた頭がさらに下がる。まさか再びここに来ることになるとは、黒猫自身も思っていなかったのだからしょうがない。
枯れた花のようにしおれてしまった黒猫がおかしかったのか、白猫はふっと笑った。
「大丈夫よ、怒ってないから。ほっとしたし。わたしね、ここにまた来たかったの。だから今すごく嬉しい」
一目散に庭に咲き乱れる花のもとに走っていく。黒猫は花に詳しくないが、それでも夏の花は色鮮やかなものが多いと思う。赤い色のイチゴのような花、涼やかな薄紫が流水のような形をした花。
「見て。前に来た時とちがう花が咲いてる」
(また子猫みたいにはしゃいでる)
とりあえず機嫌はなおったようだとほっとしていると、うしろでちいさく笑う声がした。いぶかしげに見上げると彩が微笑んでいる。今、笑うようなことなんてあっただろうか。
「ごめんね、なんだか可愛くて……」彩はいっそう目を細めた。
「黒猫くんは白猫ちゃんのことが本当に好きなんだね。すごく、優しい目で見てた」
言われた意味がよくわからなかった。
好き? 優しく? 今、自分はただ白猫を見ていただけだ。
自分に『好き』なんて感情、あるわけがない。魔法の鈴を得た代償になくしたはずなのだから。
彩はもう縁側に腰を下ろし、膝上のスケッチブックをめくっている。なんとなくひっかかる気持ちがしながらも、まあいいかと黒猫も縁側にのぼった。彩の隣で丸くなる。
気にしなくていいと彩自身が言ったのだから、お言葉に甘えて寝てしまおう。なにせ今日はこんなにいい天気なのだから。
紙とクレヨンのこすれる音がなんだかくすぐったい。うっすらと開いた瞳の向こうでは白猫が飽きもせず花とじゃれている。木漏れ日のひかりに包まれて黒猫はこの上なく安心していた。そうしてゆっくりと夢の世界に落ちかけていたときだった。
「――彩」
突然の低い声に飛び起きた黒猫は、転げ落ちるように縁側を降りた。
和室の襖に手をかけてスーツ姿の男が立っていた。ほっそりとして、草みたいに静かなたたずまい。眼鏡をかけている以外に特徴という特徴のない男だった。
「パパ……帰ってきてたんだ」
どうやらこの男は、彩の父親らしい。眉毛を下げて困った顔をしている彩は、なぜか頬だけが赤かった。
「予定より早まってね。午前の便で成田についたんだ。電話しようかと思ったけど、帰って言えばいいかと思って」
「い、インド楽しかった?」
「遊びに行ったわけじゃないから、楽しくはないかな」
「しばらく、いられるの?」
「いや。本社の仕事を片付けたら、またどこかに出向することになると思う」
「……そうなんだ」
そこで会話は途切れてしまった。
落ち着かなげに紙の端を何度も指でこすっている娘と、何も感じてないかのように落ち着いた様子の父親。なんだか、ぎこちない親子だった。
ふいに父親の目が、彩ではなく黒猫を見た。
「――猫、飼い始めたのか。あっちにも一匹いるな」
「あっ、ちがうの。ふたりは……遊びに来てくれてるだけ。わたしが黒猫くんの絵を描いてるから……」
「彩、ふたりじゃないよ。二匹」
彩は焦ったようにうつむく。
「あ、そ、そうだよね。黒猫くんたちは友だちみたいだからつい……」
父親はわかったような、わかっていないような「そうか」を口にすると、つっかけに足を入れ、黒猫の頭を撫でようとしゃがみこんできた。なんだかこの男は気に入らない。思いきりそっぽを向いてやった。
「……嫌われちゃったみたいだな」
困ったように眉毛を下げて目を細める、その笑い方がはじめて彩に重なる。
「ずいぶんとボロボロだけど、新しいの買ってやろうか」
立ち上がった父親の視線がクレヨンの上にあるのに気づいた彩は、慌てて蓋を閉める。細かい欠片となっても本分を全うする、満身創痍の戦友たち。
「ま、まだ大丈夫。大事にするって、約束したでしょ?」
『大事にするって……約束したのにね』
懐かしい声が蘇る。折られてしまったクレヨンを前に彩がつぶやいた『約束』。あれは、父親とのものだったのか。
「そうだったっけ。でも、そんなにボロボロじゃ使いにくいだろ。遠慮しなくていいから」
なにか続けようとしたはずの彩の口からは何も出てこなかった。小さくお礼を言うと、またうつむいてしまう。
「じゃあ、ちょっと会社にも顔を出しておきたいから行くよ。こっちにいるうちに、どこか出かけような」
そうして父親はもう彩のことは振り返らずに家の中へと消えていった。変なやつがいなくなって黒猫はせいせいしたけれど、彩は見えない背中をいつまでも追い続けていた。
お礼なのか知らないが、彩はある程度絵が描き終わると、黒猫にご飯をふるまってくれる。今日は白猫と二匹連れだったせいか、いつもより豪勢だった。魚肉ソーセージ盛り、かつおぶしとにぼしを添えて。だから、帰り道はお腹が満たされてほんのりと眠い。
ぼんやりとした頭でコンクリートに長く伸びた影を踏むようにして歩いていると、突然横を歩く白猫が立ち止まった。前足で頭をかきはじめる。
「大丈夫?」
白猫は大丈夫と返す代わりに微笑んだ。
「最近ときどき頭が痛くなるの」
しばらく待って二匹はまた歩き始める。さっきよりゆっくりとした速度で。
「あんまり似てなかったね、彩たち。親子なのに」
「親子だからって皆似ているわけじゃないと思うわ」
「そうかな?」
会ったこともない父親譲りの真っ黒な毛に包まれた黒猫には、母親の真っ白な毛は一本も生えていない。確かにそうかもしれない。だとしたら、彩は母親に似ているのだろうか。
彩の顔をぼんやりと頭に浮かべているうち、そういえば今日おかしなことを言われたなと思い出す。
「あのさ……花の『好き』ってどんな感じ?」
「――どっ、どうしたの急に」
白猫の目がまんまるに見開かれる。
「いや、ちょっと気になって。よかったら説明してみてくれない?」
妙に早足になったので、黒猫も追って早足になる。
「そんなこと、普通聞かないわ」
「そうなんだ。でも僕は知りたいんだよ。お願い」
落ち着きなくぶんぶん尻尾が振られたかと思うと、急にぴたりとその動きが止まった。
「……好きになると、自分が自分じゃなくなったみたいになるの。どきどきしたり、切なくなったり、嫉妬してしまったり。心が少しだけ、乗っ取られてるみたいに」
「心が?」
心が自分だけのものじゃなかったことなんて黒猫にはない。やっぱり彩の気のせいだ。しかし『好き』ってそんな物騒なものなのか。
白猫は照れ隠しするように勢いよく振り返って尋ねる。「黒猫さんの『好き』は?」
「……僕?」
さてどうしたものか。白猫の喜びそうな答えはないかと考えていると、きらきらと自分をまっすぐに見つめる白猫の目とぶつかった。
本当の言葉を、待っていた。
何も言えないでいる黒猫を見て、白猫はなぜかおかしそうに笑う。
「ね、困るでしょ。言葉にできない気持ちってあるわ。あるならいいの。うまく言えなくっても」
白猫は黒猫の後ろに回り込むと、「この話は終わり! 行きましょ」と頭でぐいぐい押してきた。黒猫は押されながら、ふと地面に影がずいぶん広がっていることに気づく。少しずつ、そう、乗っ取られていくみたいに。
夜が近づいている。浮かび上がる白猫とは逆に、黒猫の姿は闇に溶けていった。
ああ、そうだ。やらなければいけないことをひとつ思い出した。
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