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第三章
いらない
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人の隙間を縫って、はじめはゆっくりと、だんだんと速度をあげていく。
景色は横に流れる。ゴミ箱にたかるカラス、変な顔のマンホール、横断歩道の白、刺されそうなヒール、くさい革靴、石ころ、風に舞うビニール袋、それから……サンダル。
『この世に落ちて目を開けた瞬間、全部わかってるんだ。必要も無駄もね。だから俺たちは迷わない』
山田の声が蘇った。
草が匂い立つ傾斜をかけのぼると、ぱっと景色が開けて、夏の夕陽を跳ね返す水面が顔を出す。今週雨が続いたせいか、水量が少し多い以外はいつもの河川敷だった。彩は当たり前のように今日もいない。
いっちゅうーっ、ふぁいっおっ、ふぁいっおっ、ふぁいっおっ、ふぁいっおっ!
謎の呪文を声高に叫びながら、汚いユニフォームの一団が黒猫のそばを駆けていく。ひとり、のろのろと後を遅れて走る少年がいた。
細身の少年はぐっと顎をあげて必死に追いつこうとするも、息遣いは荒くなる一方で詰めたはずの距離もまた広がっていく。
ぐらぐらとした瞳に今なにが映ってるんだろう。
ほら、また距離が広がった。早くやめてしまえばいいのに。そんなことして何になる。わかっていたはずだろう、無理だって。無駄だって。
いまや遠い影となった少年の背中を追って、黒猫の瞳に川をまたぐ橋が映った。
(なんだ……?)
ひらり、と落ちる一片を見つけた時、夏にもかかわらずまるで雪のようだと思った。続けて、ひらり。光を跳ね返しながら、次々に紙片が川面に落ちていく。
欄干にもたれた誰かが、手にした紙をちぎっては捨てているようだ。その姿は逆光でよく見えない。だけど、ちいさなその影を目にした瞬間――黒猫は考えるより先に走り出していた。
影に近づくうち、自分の予感は正しかったと知る。
小柄な背に垂れた、長い三つ編み。
手元の紙を破く彩は、足元までやってきた黒猫にも気づかないようだった。ただひたすらに小さく、細かく、ゆっくりと裂いていく。いったい何をしているんだろう。橋の隙間から宙を舞う一片が見えた。
紙に塗りたくられたクレヨンの色。その色に見覚えがあった。橙、紫、桃色……黒猫には見えない色が描き出された、夕陽を跳ね返すあの川面のきらめき。
どすん。
ふいに訪れた衝撃に驚き、彩はようやく足元を見た。
「黒猫くん……?」
返事の代わりに牙をむいた。毛を逆立てながら、黒猫はどうしようもなく怒っていた。
なんで。どうして。荒れ狂う黒猫の心とは反対に、彩はなぜか嬉しそうに目を細めた。
「そっか。本当に……待っててくれたんだ……わたしが約束、したから」
『約束』と口にした瞬間、表情が曇る。手元の紙に視線を落とすと、くしゃりと握りしめた。あちこち千切れて、見る影もない残骸。
「……約束、守れなかった……ごめんね」
黒猫にはわからない。自らの手で引き裂きながら、なぜそんなことを言うのか。
今度は引っ掻いてやろうかとしたところで、体に何かが触れた。川面に落ちて行かず地に落ちた紙片が風に飛ばされたのだ。苛々しながら見やったそれに、ふと見覚えのない色を見つけた。怒りが、針で穴を開けられた風船のように、みるみるしぼんでいく。
乱暴で、冷たくて……すべてを無にするような色だ。
悪意しか感じられない『黒』が、彩の絵を覆い隠すように塗りたくられていた。
「わたしが悪かったの。学校に持っていかなければよかったのに、ばかだ。スケッチブック、隠されちゃって。返してって何度も言ったんだけど、杏ちゃんたち『知らない』ってずっと……」
紙を持つ手が震えている。
「今日、机の中にあって。返してくれたんだって思って嬉しくて、開いたら、真っ黒だった。それ見たら……なんか、気が抜けちゃって。また描き直せばいいって、思おうとしたけど無理だった。『絵を描くわたし』もどっかにいっちゃったみたい」
彩は眉を下げて無理に笑うと、残った絵を一気にびりびりと破り始める。
「もっと早くにやめていればよかった。あんなに『描かないで』って言われてたのに。なんでやめられなかったんだろう。こんなに……簡単なことだったのに」
そうつぶやく瞳は、絵と一緒に塗りつぶされたように底の見えない黒だった。
(……僕は、バカだ)
この河川敷にいれば彩を守ることができると勘違いしていた。きっと、痛めつけられたあげくに逃げてきたのがこの場所だったのに。
「完成させてあげられなくてごめんね」
開いた手のひらから雪のように紙片がこぼれ落ちていく。ひらり、ひらり。
『…………いらないの?』
なんで今思い出すんだろう。唐木田の声が頭のなかに響いた。
「――黒猫くん!?」
地面を強く蹴って一目散に橋を駆けだすと、生い茂る雑草を突き抜けて、コンクリートブロックを跳ねるように越え、川に飛び込んだ。
どぷん。水のはじける音が頭上で聞こえた。
全身を雨で包まれたような感覚。耳の奥まで一気に水が詰まる。慌てて、水面まで顔を出した。
絵は、絵はどこだ。絵を探さなきゃ。
視界に紙片を見つけて、もがくように足を動かす。どうにか紙片を口にくわえる。絡みつくような流れに足を取られて、思わず水を飲み込んでしまった。
なんだこれ、苦しい。
鈴を鳴らそうとして、水の中だとどうにもできないことに今さら気づく。確かに川の水の量はいつもより多かったけど、外からは穏やかな流れに見えたのに。目には見えない力に翻弄される。焦って、また水を飲み込んだ。水面が遠い。頭の中が真っ白になり、あぶくのような言葉の断片で支配される。
やばい、まずい、こんな、何を、彩が、びりびり、このまま、かなしい、バカ、無駄、苦しい、だって、息が、僕は、流れる、嫌だ、だって、僕は、僕には――
『……いらないの?』
――僕には、『いる』んだよ。
突然、呼吸が楽になった。一気に空気が流れ込んできて激しく咳き込む。音がずいぶんと近い。水面は下にあった。湿った布越しに感じるあたたかな温度。はあはあと荒い息遣い。見上げると、すぐそこに彩の泣きそうな顔があった。
「浅くて……よかった……」
よろよろと頼りない小さな腕に抱えられ、なかば倒れ込むようにコンクリートの上に下ろされる。情けないことに足に力が入らなかった。震えが止まらない。黒い闇がすぐそこまで来ていた感覚がした。
「――ばか! 死んじゃったらどうするの!」
びっくりした。濡れてなかったら毛がふくらんでいたはずだ。
雨が降ってるみたいだ、なんてとんちんかんな思いが浮かぶ。だって、なんでかわからない。どれだけ悲しいことがあっても泣かなかった彩が、今、黒猫のために大粒の涙をこぼしているのだから。
しゃくりあげる彩を前に黒猫はどうしていいかわからずに視線を泳がせ……ようやく自分の足元に落ちているものに気がついた。
そろそろと近寄ると、しゃがみこむ足に頭をこすりつけた。鼻を鳴らしながら赤い目で顔を上げた彩に、黒猫は自分のくわえていたものを見せる。
おそるおそる差し出された手に、そっと載せてやった。
泥にまみれた、輝く色の切れ端を。
彩はしばらくの間、じっと見つめていた。したたる滴が紙片に吸い込まれていく。
「……こんなの、取ってきたって、絵は元通りにならないのに……」
塀から足を踏み外して二メートル下のアスファルトに叩きつけられたような衝撃。
(いや、もっともだけど。改めて言われるとその通りだけど。こんなことで死にかけるなんてバカ以外の何物でもないけど!)
今すぐに深い穴を掘ってそのなかに自らを隠したい。黒猫が羞恥心と戦っていると、突然、彩が笑い出した。身体の奥からくつくつと満ちてあふれてこぼれるような響き。
「でも、なんでなのかな……黒猫くんが、取り戻してくれた気がするの」
目じりにまだ涙をためながら、彩はとてもきれいに微笑んだ。
その瞳には、黒猫が絵のなかに見たひかりが浮かんでいる。
「――ねえ、黒猫くん。わたしに、黒猫くんを描かせてくれないかな」
景色は横に流れる。ゴミ箱にたかるカラス、変な顔のマンホール、横断歩道の白、刺されそうなヒール、くさい革靴、石ころ、風に舞うビニール袋、それから……サンダル。
『この世に落ちて目を開けた瞬間、全部わかってるんだ。必要も無駄もね。だから俺たちは迷わない』
山田の声が蘇った。
草が匂い立つ傾斜をかけのぼると、ぱっと景色が開けて、夏の夕陽を跳ね返す水面が顔を出す。今週雨が続いたせいか、水量が少し多い以外はいつもの河川敷だった。彩は当たり前のように今日もいない。
いっちゅうーっ、ふぁいっおっ、ふぁいっおっ、ふぁいっおっ、ふぁいっおっ!
謎の呪文を声高に叫びながら、汚いユニフォームの一団が黒猫のそばを駆けていく。ひとり、のろのろと後を遅れて走る少年がいた。
細身の少年はぐっと顎をあげて必死に追いつこうとするも、息遣いは荒くなる一方で詰めたはずの距離もまた広がっていく。
ぐらぐらとした瞳に今なにが映ってるんだろう。
ほら、また距離が広がった。早くやめてしまえばいいのに。そんなことして何になる。わかっていたはずだろう、無理だって。無駄だって。
いまや遠い影となった少年の背中を追って、黒猫の瞳に川をまたぐ橋が映った。
(なんだ……?)
ひらり、と落ちる一片を見つけた時、夏にもかかわらずまるで雪のようだと思った。続けて、ひらり。光を跳ね返しながら、次々に紙片が川面に落ちていく。
欄干にもたれた誰かが、手にした紙をちぎっては捨てているようだ。その姿は逆光でよく見えない。だけど、ちいさなその影を目にした瞬間――黒猫は考えるより先に走り出していた。
影に近づくうち、自分の予感は正しかったと知る。
小柄な背に垂れた、長い三つ編み。
手元の紙を破く彩は、足元までやってきた黒猫にも気づかないようだった。ただひたすらに小さく、細かく、ゆっくりと裂いていく。いったい何をしているんだろう。橋の隙間から宙を舞う一片が見えた。
紙に塗りたくられたクレヨンの色。その色に見覚えがあった。橙、紫、桃色……黒猫には見えない色が描き出された、夕陽を跳ね返すあの川面のきらめき。
どすん。
ふいに訪れた衝撃に驚き、彩はようやく足元を見た。
「黒猫くん……?」
返事の代わりに牙をむいた。毛を逆立てながら、黒猫はどうしようもなく怒っていた。
なんで。どうして。荒れ狂う黒猫の心とは反対に、彩はなぜか嬉しそうに目を細めた。
「そっか。本当に……待っててくれたんだ……わたしが約束、したから」
『約束』と口にした瞬間、表情が曇る。手元の紙に視線を落とすと、くしゃりと握りしめた。あちこち千切れて、見る影もない残骸。
「……約束、守れなかった……ごめんね」
黒猫にはわからない。自らの手で引き裂きながら、なぜそんなことを言うのか。
今度は引っ掻いてやろうかとしたところで、体に何かが触れた。川面に落ちて行かず地に落ちた紙片が風に飛ばされたのだ。苛々しながら見やったそれに、ふと見覚えのない色を見つけた。怒りが、針で穴を開けられた風船のように、みるみるしぼんでいく。
乱暴で、冷たくて……すべてを無にするような色だ。
悪意しか感じられない『黒』が、彩の絵を覆い隠すように塗りたくられていた。
「わたしが悪かったの。学校に持っていかなければよかったのに、ばかだ。スケッチブック、隠されちゃって。返してって何度も言ったんだけど、杏ちゃんたち『知らない』ってずっと……」
紙を持つ手が震えている。
「今日、机の中にあって。返してくれたんだって思って嬉しくて、開いたら、真っ黒だった。それ見たら……なんか、気が抜けちゃって。また描き直せばいいって、思おうとしたけど無理だった。『絵を描くわたし』もどっかにいっちゃったみたい」
彩は眉を下げて無理に笑うと、残った絵を一気にびりびりと破り始める。
「もっと早くにやめていればよかった。あんなに『描かないで』って言われてたのに。なんでやめられなかったんだろう。こんなに……簡単なことだったのに」
そうつぶやく瞳は、絵と一緒に塗りつぶされたように底の見えない黒だった。
(……僕は、バカだ)
この河川敷にいれば彩を守ることができると勘違いしていた。きっと、痛めつけられたあげくに逃げてきたのがこの場所だったのに。
「完成させてあげられなくてごめんね」
開いた手のひらから雪のように紙片がこぼれ落ちていく。ひらり、ひらり。
『…………いらないの?』
なんで今思い出すんだろう。唐木田の声が頭のなかに響いた。
「――黒猫くん!?」
地面を強く蹴って一目散に橋を駆けだすと、生い茂る雑草を突き抜けて、コンクリートブロックを跳ねるように越え、川に飛び込んだ。
どぷん。水のはじける音が頭上で聞こえた。
全身を雨で包まれたような感覚。耳の奥まで一気に水が詰まる。慌てて、水面まで顔を出した。
絵は、絵はどこだ。絵を探さなきゃ。
視界に紙片を見つけて、もがくように足を動かす。どうにか紙片を口にくわえる。絡みつくような流れに足を取られて、思わず水を飲み込んでしまった。
なんだこれ、苦しい。
鈴を鳴らそうとして、水の中だとどうにもできないことに今さら気づく。確かに川の水の量はいつもより多かったけど、外からは穏やかな流れに見えたのに。目には見えない力に翻弄される。焦って、また水を飲み込んだ。水面が遠い。頭の中が真っ白になり、あぶくのような言葉の断片で支配される。
やばい、まずい、こんな、何を、彩が、びりびり、このまま、かなしい、バカ、無駄、苦しい、だって、息が、僕は、流れる、嫌だ、だって、僕は、僕には――
『……いらないの?』
――僕には、『いる』んだよ。
突然、呼吸が楽になった。一気に空気が流れ込んできて激しく咳き込む。音がずいぶんと近い。水面は下にあった。湿った布越しに感じるあたたかな温度。はあはあと荒い息遣い。見上げると、すぐそこに彩の泣きそうな顔があった。
「浅くて……よかった……」
よろよろと頼りない小さな腕に抱えられ、なかば倒れ込むようにコンクリートの上に下ろされる。情けないことに足に力が入らなかった。震えが止まらない。黒い闇がすぐそこまで来ていた感覚がした。
「――ばか! 死んじゃったらどうするの!」
びっくりした。濡れてなかったら毛がふくらんでいたはずだ。
雨が降ってるみたいだ、なんてとんちんかんな思いが浮かぶ。だって、なんでかわからない。どれだけ悲しいことがあっても泣かなかった彩が、今、黒猫のために大粒の涙をこぼしているのだから。
しゃくりあげる彩を前に黒猫はどうしていいかわからずに視線を泳がせ……ようやく自分の足元に落ちているものに気がついた。
そろそろと近寄ると、しゃがみこむ足に頭をこすりつけた。鼻を鳴らしながら赤い目で顔を上げた彩に、黒猫は自分のくわえていたものを見せる。
おそるおそる差し出された手に、そっと載せてやった。
泥にまみれた、輝く色の切れ端を。
彩はしばらくの間、じっと見つめていた。したたる滴が紙片に吸い込まれていく。
「……こんなの、取ってきたって、絵は元通りにならないのに……」
塀から足を踏み外して二メートル下のアスファルトに叩きつけられたような衝撃。
(いや、もっともだけど。改めて言われるとその通りだけど。こんなことで死にかけるなんてバカ以外の何物でもないけど!)
今すぐに深い穴を掘ってそのなかに自らを隠したい。黒猫が羞恥心と戦っていると、突然、彩が笑い出した。身体の奥からくつくつと満ちてあふれてこぼれるような響き。
「でも、なんでなのかな……黒猫くんが、取り戻してくれた気がするの」
目じりにまだ涙をためながら、彩はとてもきれいに微笑んだ。
その瞳には、黒猫が絵のなかに見たひかりが浮かんでいる。
「――ねえ、黒猫くん。わたしに、黒猫くんを描かせてくれないかな」
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