すべてが叶う黒猫の鈴

雪町子

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第二章

それだけ

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 嘘だ。なんでこんなところに。あいつのはずがない。あいつがいるはずがない。
 近づくたびに血の匂いが濃くなる。いやだ、と思う。でも、確かめずにはいられなくて黒猫はガードパイプをくぐる。
 間近で目にした瞬間、ふたつのことが確信に変わった。
 ひとつは、猫の正体がやはりブチ猫だということ。
 もうひとつは――手の施しようがないということ。ものすごい速度で命が失われていくのがわかった。見ていられない。だけど、目をそらすこともできない。
 ぼんやりした瞳の焦点が黒猫を見つけて定まる。苦しげに息をするブチ猫の口から血の泡が漏れた。
「やめろ、しゃべらないほうがいい」
 ブチ猫はそれでもぱくぱくと口を動かした。
「……何か、言いたいことがあるの?」
 黒猫は耳を口元に近づけた。
「……は、なは……無事……?」
 そのとき、ブチ猫も黒猫と同じ勘違いをしていたのだと気づいた。
 震え出しそうなほどの感情が喉元にこみ上げる。
 間抜けにもほどがあるだろう。ちょっと威嚇したぐらいで腰を抜かす臆病者のくせに、どうして。ヒーローなんて器じゃないだろ。ちがう、ちがうんだよ。お前が命を賭けて助けた猫は、お前の愛した白猫じゃないんだよ!
 すがるような瞳が、自分を見ている。
「……花は、元気だよ」
 ブチ猫はようやくほっとしたように、目を細めた。
「そう……よか、った……」
 びくと体が小さく痙攣すると、力が抜けていくのがわかった。あっ、だめだ。だめだってば。黒猫は軽くブチ猫の体に触れた。その感触にぞっとする。その体はまだやわらかくあたたかいのに、空っぽだった。
「……おい、起きろよ」
 声が返ってくるはずもない。でも、かけずにはいられなかった。嘘だって、夢だって、思いたかった。
「――そこにはもうブチ猫ちゃんはいないよ」
 返事はあさっての方向からやってきた。
 ガードパイプの下、みすぼらしいサンダルが覗く。山田太郎がポケットに手を突っ込んでこちらを見下ろしていた。
「なんでお前がって顔してる。黒猫ちゃんは感情が顔に出るから可愛いなあ」
 黒猫は顔をゆがめる。顔見知りの猫が一匹、目の前で死んだ。その状況でふざける男が信じられなかった。ひょいっと一跨ぎして傍らにしゃがみこむ山田に「失せろ」と凄む。
「今、お前なんか相手にできる気分じゃないんだよ」
「それは失礼。でもお生憎様、今日はそっちの猫ちゃんに用事があんの」
 ブチ猫の顔に大きな手のひらがかぶさる。雑な口調とは裏腹に、薄く膜が張り始めた瞳を閉じさせる手つきは優しかった。
「苦しかったろうに安らかな顔してる。最後に黒猫ちゃんが心配事をなくしてくれたおかげだね。この子の魂はちゃんとのぼってったから大丈夫だよ」
「たましい……?」
 山田がにやっと笑む。
「暇そうに見えるでしょ? 俺。でも、実は今お仕事中。魂の迷子ちゃんが出ないようにパトロールしてんの」
 山田はブチ猫のくたりとした体を両手で抱えると、よいしょと腰をあげた。血でみるみると腕や服が汚れていくのも気にせずに、「じゃ、いこっか」とすたすたと歩き始めた。
「いくって……どこへ?」
「お別れしに」

「まあこんなとこでしょー」
 ぽんぽんと盛り上がった土を叩いて形を整えると、仕上げといったふうにシャベルがわりに使っていた石を上に置く。
 見上げれば木漏れ日がちらちらと揺れる。木々の隙間から見える遊具からは子どもたたちの笑い声が聞こえてくる。静かだけど静かすぎないいい場所だった。
 山田と黒猫はいつかブチ猫と決闘したあの公園に来ていた。
 滑り台を越えて、公園の隅までやって来た山田は、生い茂る木々のなかそっとたたずむキンモクセイの木の前で足を止めた。秋になれば黄色い花が咲く。こういうのは目印があったほうがいいから、と。
 手ごろな石を見つけ土をざっざと掘って、適度な深さまで掘れたところでブチ猫を横たえて、土をかぶせて……と言った一連の動作を、黒猫は少し離れた距離からただずっと眺めていた。
 山田は胸の前で手を合わせ、謎の呪文を唱え始める。
「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏……」
「……なにそれ」
「この国の形式美のひとつ。仏さんは俺に唱えてほしくないだろうけど」
 黒猫にはよくわからないことを言うと、唐突に屈伸運動を始めた。長い時間しゃがんでいたので腰を痛めたらしい。
「まあ、なんでもいいんだよ。これは生きてるほうのためにやるものだから。死んだほうには関係ない」
 とっくにのぼってるんだから、と山田は続ける。
「……さっきもブチ猫が『のぼった』とかなんとか言ってたけど……どういう意味? 死ぬとどうなるか、あんたは知ってるの」
「雨とおんなじだよ」天気について聞かれたかのようにあっさりと山田は答えた。
「川や海や大地の水が蒸発して、雲になって、雨になる。魂もおんなじ。死んだらのぼって、また地上におちてくる。黒猫ちゃんもその一滴だよ」
 土がこんもりとして山のようなブチ猫の墓を見る。
「……また死ぬために?」
「また生きるためだよ」
 黒猫にはその違いがよくわからない。
「あ、これちょうどいいじゃーん」
 山田は近くの小柄な薄紫の花を引き抜いて、そっと石に添えた。
 『花』。たどりつきたくないところに考えが及びそうになって、慌てて山田に思い浮かんだ疑問を投げつけた。
「いつもこんなことしてるの」
 花の角度が気に入らなかったようで何度か置き直している。意外と細かい。
「こんなことってお墓? まっさかー。こんな面倒くさいこといちいちしてたらキリないし」
 黒猫は首を傾げる。
「じゃあなんで……」
 面倒になったらしく、手にした花をぽいっと墓に放り投げた。やっぱり大雑把。
「あのままだと黒猫ちゃん泣いちゃいそうだったから」
 一瞬何を言われたのか分からなかった。
 言葉の意味がじわじわと浸透していくにしたがって、頭が熱くなり、毛が逆立つ。
「なんだよ、それ。変なこと言うなよ、泣くわけないだろ! なんで僕が泣かなきゃいけない!? ただの事故だろ。僕は関係ない! だって僕は……」
 ――ぼくは。
 怒りはこみ上げた時と同じ唐突さでぶつりと尽きた。声が喉にからまって、ひっかかる。
「た、すけようとした……でも、魔法が、かからなかったんだ」
「へえ。不具合かな」
「今までこんなことなかったのに」
「そんな日もあるさ」
 あまりにのん気な返答に睨むと、意外なことに山田は笑っていなかった。
「黒猫ちゃんのせいじゃないよ」
 思いがけない言葉に胸をつかれて黒猫はうつむいた。木々の向こうの遊具から、何がそんなに楽しいのか、いつまでも笑い続ける子どもの無邪気な笑い声が聞こえた。
「……この鈴、時間は戻せないの」
 ふいに、昼に食べたかまぼこのやんわりとした感触が蘇ってきた。
 むっちりを噛み切る瞬間の、あの平和で、まぬけな、歯ごたえ。
「『あるものをないことにはできないし、ないものをあることにはできない』」
 それは確か、どこかで聞いた。
「過去をなかったことにはできないんだよ」
 隣にいるはずの男の声がやたらと遠く聞こえる。
 あのかまぼこからどうして今ここにつながるのだろう。あれはたった数時間前のことだったのに。
 何も言わず公園を飛び出した。
 そのまま、ぐんぐんぐんぐん、町を駆け抜けた。片っ端から魔法をかけながら。
 買い物袋をさげたおばさんに、『落とせ』。
 がうがうやかましいバカ犬に、『黙れ』。
 道の真ん中でいちゃつくカップルに、『ケンカしろ』。
 おばさんは落とした拍子に卵が割れてしまって半泣きだ。
 バカ犬は急に眠くなったようで、今は小屋の中ですぴすぴ鼻を鳴らしている。
 男が女の名をいとしげに呼ぶと、急に般若の顔でひっぱたかれた。どうやら元カノの名前だったらしい。
 走りながら声を出して笑う。ほら、世界はいつも通りに思い通り。
 黄昏時の薄闇にゆらゆら近づいてくる光を見つけ、黒猫は足を止めた。ああ、あれは自転車の灯り。
 ごくり。つばを飲み込むと、首を左右に、ちりりんと鈴を鳴らした。
『今すぐ止まれ』
 次の瞬間、風船が割れるような破裂音が響いた。学生服の男は慌ててブレーキを引く。自転車は黒猫の数メートル前であっさりと止まった。
「パンクとか……マジかよ……」
 青年はぺちゃんこの前輪を前に途方に暮れている。
 ほら、世界はいつも通りに思い通り――そのことが余計にたまらなかった。
 黒猫はまた走り出す。
 商店街の人ごみをすり抜けて、植え込みの下をくぐって、ブロック塀に跳びうつって、何にも追いつかれないように。

 息をきらした黒猫が寝床の歩道橋下につく頃には、陽はもうすっかり落ちていた。
 しんとした闇から影がひとつ現れて、こちらに近づいてくる。黒猫はその正体が誰なのか見なくても分かった。
「おかえりなさい」月明かりの下、白猫が微笑んだ。
「……来てたんだ」
「来たら悪かった? なんだか途中から黒猫さん上の空だったなあって、気になって。考え事しながら歩いてたから、わたし電柱に顔ぶつけちゃったのよ。ほら、鼻赤いでしょ」
 白猫は鼻をこすりながら無邪気に笑う。
「ねえ、何かあったの?」
 その問いはそういう意味ではないと頭では分かっていた。
「ブチ猫が死んだよ」
 なのに、なにかがあふれて零れるように答えていた。
 まばたきを忘れてしまったように白猫の目は大きく見開かれる。
「子猫をかばって自転車に轢かれたんだ。僕が最後を看取った。山田太郎って覚えてる? あの猫の言葉がわかるおかしな男。あいつが前にブチ猫が決闘に呼んだ公園の木の下に墓をつくって埋めた。変なことするよね、ブチ猫は猫なのに。キンモクセイとかいう木で……秋になると黄色くてくさい花を咲かすんだって、そういうのがいいんだって……僕は知らないけど」
 ろくに顔も見ずに一息にしゃべると、もうそれ以上言葉は出てこなかった。喉がからからに乾いて妙にねばつく。
 口を開く気配がして、ぎゅっと目をつむった。
「そう、残念ね」
 白猫は、言った。
「……それだけ?」
 思わず顔をあげると、白猫は静かな瞳で見つめ返した。
「ごめんなさい、冷たく聞こえた? 悲しいことだけど……野良猫にはよくあることだから」
 知っている。今までいくつもの死を見てきた。
「でも、あいつは……きみにとってブチ猫は……」
「今わたしが好きなのはあなたよ」
 知っていた。自分が『そう』したのだから。この、魔法の鈴で。
「……ごめん、変なこと言って」
 白猫は首を振ると、ぽつりと呟いた。
「……子猫をかばうなんて、彼らしい」
 ブチ猫が白猫を助けるつもりで死んだのだ、ということを黒猫は言うつもりがなかった。最期の瞬間まで白猫を想っていたことも。白猫はこれからも一生、それを知ることがない。
 白猫と目が合った。
「なに?」
「……いや、なんでもない」
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