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第二章
予期せぬ出来事
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「ねえ見て! 四つ葉のクローバー!」
はしゃいだ声の白猫が、こちらを振り返った。
早く早くと言わんばかりに尻尾がせわしく揺れている。まるで子猫のようで、黒猫はつい笑ってしまう。土手に広がる緑は、昨日降った雨のせいか瑞々しく色が濃かった。一歩踏み出すごとに足がしっとりと濡れる。葉に残った滴が時折光をはね返してまぶしい。
白猫の足元を覗き込み「ふーん、めずらしいね」と言うと、物足りなげに一瞥された。
「それだけ?」
「……それだけって?」
「だって四つ葉のクローバーよ」
「だからめずらしいねって……」
白猫はわざとらしくため息をついて、呆れ顔でこちらを見る。
「黒猫さんって意外と世間にうといのね」
最近、白猫はずけずけと物を言うようになった気がする。黒猫のむすっとした表情を見て、おかしそうに笑う。なんだっていうんだ。ますます眉間にしわが刻まれる。
白猫いわく、四つ葉のクローバーは見つけたものに幸運を運んでくれるそうだ。
「昔、公園で人間の女の子たちがそう言って一生懸命探してたの」
「へえ、人間って本当ばかばかしいね。ただの草に願いを叶える力なんてあるわけないし」
「そう? 夢があってわたしはいいと思うわ」
前足で四つ葉をつついては、嬉しそうに頬をゆるませる。
『夢』。寝ているときに見るものを現実に持ち込んでどうする、と黒猫は思う。
「――願いを叶えられるのは、力があるものだけだよ」
白猫はちらとこちらを見たけれど、特に何も言わなかった。代わりに「ねえ、今日本当はここに何か用があったんじゃない?」と突然話題を変えてきた。
「……どうして?」
「なんかきょろきょろしてるなあって。何か探してる? 誰かと会う予定だった?」
「……べつに。特に意味もないよ。きみが四葉のクローバー探すのとおんなじで、何かめずらしいものはないかなあって見てただけ」
まだ何か聞きたげな白猫には気づかないふりで背中を向ける。
べつに会う予定なんてない。見るだけだ。途中までしか見てないんじゃ逆に気になってしまうから、終わりまで見届けようと思っただけの話。
それなのに、視線の先。いつもの場所でスケッチブックに向かう彩の姿はなかった。
これだから人間は。約束ぐらい守れよ。……いや、僕は約束なんてしてないけど。
「――黒猫さん!」
白猫の切羽詰まった声で我に返ると、黒猫の五倍はありそうな大型犬がこちらに向かって駆けてくるところだった。後ろから飼い主だろう人間が慌てて走ってくる。手綱に伸びた手はとても届きそうになかったけど。
興奮した犬の鼻の穴さえも見えそうな距離でひとつあくびをしてから鳴らした。
ちりんちりりん、『お前は僕たちに指一本手出しできない』。
目の前に迫っていた犬の勢いがぴたりと止まる。時が止まったようにじっと見つめあうと、犬はやがて上体を伏せ弱々しく鳴いた。遅れてやってきた飼い主が吐く息荒く手綱を手に取り、「ほら行くぞ」とひきずるように去って行った。
すっかり犬の姿が見えなくなってから、白猫が目を丸くしながら近づいてきた。
「……今、何をしたの?」
「何も? 気が変わったんだよ、きっと」
煙に巻かれたような顔がおかしかった。
――願いは叶う。そう、力さえあれば。四葉のクローバーなんて必要ない。
「ねえ、花の願い事って何?」
突然の問いかけに、白猫はけげんそうに返す。
「さっきの話のつづき? 興味なさそうだったのに急にどうしたの」
「僕なら叶えられるかもしれないから」
白猫は冗談だと思ったのか「神様でもあるまいし」と笑った。だけど黒猫は笑わない。
「確かに僕は神様じゃない。でも……神様と同じことが僕にもできるかもしれない。きみだって覚えてるだろ? 僕には、空から花を降らすことだってできる」
それは『夢』なんかじゃない、『現実』に起きたこと。もう白猫も笑わなかった。
「教えてよ、花。きみの望みを叶えたいんだ」
すこしの沈黙のあと、白猫は朝露がぽたりと地に落ちるような静かさで口にした。
「願い事、あるわ」
黒猫がぱっと瞳を輝かせると、白猫は微笑んだ。「でも、教えない」
「え?」
「わたしの願い事、当ててみて」
黒猫の横をすり抜けて、跳ねるように歩き始める。慌ててその後を追った。
「聞けば全部教えてもらえるだなんて、つまらないと思わない? 神様にケンカを売るぐらいなんだから、きっとそのぐらい楽勝ね」
願い事を叶えるのは簡単だ。でも、その願い事を知るのは――。
「……きみって時々、意地悪だ」
「ふふ。なんでも叶えてくれるんでしょ?」
河川敷を後にして町中を進んでいると、小学生の女の子二人が黒猫たちに近寄ってきた。人懐こい白猫が体をこすりつけると二人はきゃあきゃあ高い声をあげる。「美味しいものあげる」とひとりが近くの家に消えたかと思うと、かまぼこを手に戻ってきた。かつおぶしを期待していた黒猫は正直がっくりした。おまけに食事中だというのに背中を撫でようとするので不愉快だ。「マナーのないやつらだね」と横を向いたところ、かまぼこを口いっぱいに頬張り縦横無尽に尻尾を振る白猫はそれどころではなかった。
「……ねえ、もうお腹も満たされたし、さっさと行こう」
すっかり嫌気がさしてきた黒猫は、ごろごろと喉を鳴らす背中に声をかけたが、「もうちょっと」と間延びした声が返ってくる。
うんざりしながら離れた位置に腰を下ろす。ちらちらと触りたそうな目でこちらを見られたが一切合切無視をする。僕に触りたければせめてまぐろかささみを用意しろ。
毛づくろいを始めた黒猫を見て、さすがに諦めたらしい女の子は、白猫の喉をかいてやりながら、「早くクラス替えしたいなあ」とため息をついた。
「えー、なんで?」
「なんか最近の杏ちゃんたちさ、こわくない?」
「もしかして彩ちゃんのこと?」
思わず舌を引っ込めて顔を上げる。なんて聞き覚えのある名前たち。ひとりならまだしもふたり揃うとなると、他人ではないような気がする。
「さっちゃんも言われてたんだ。『彩ちゃんとしゃべっちゃだめ』って」
「皆言われてるんじゃん? もともとそんなしゃべるほど仲良くなかったけどさぁ……彩ちゃんて確かに暗いしダサいけど、べつに悪い子じゃないのにね」
「ダサいの関係なくない?」
『ダサい』という言葉がツボにはまったらしく、二人は並んで肩を震わせていた。
「でもさ、ふたり、前はすごい仲良くなかった?」
きょろきょろと辺りを見回してから、声をひそめて話し出す。
「なんか、杏ちゃんのママが彩ちゃんの絵をほめちゃったんだって」
「杏ちゃんのママって……絵の先生だっけ?」
「そうそう。杏ちゃん絵うまいじゃん? でもママから一回もほめられたことなかったんだって。なのに授業参観のとき、彩ちゃんの絵を見てほめちゃって。『杏のママとる気なんでしょ!』って杏ちゃんマジギレ」
「そういえば彩ちゃんのママって……」
その言葉のつづきは聞くことができなかった。白猫が伸びをして、「そろそろ行きましょ!」とこちらに来たからだった。未練がましげな声をあげる二人はすっかり今話していたことを忘れてしまったみたいだ。そこに留まっているのもおかしいから、二匹は並んで歩き始める。だけど、黒猫は妙に話の続きが気になってしまった。
彩と杏は間違いなく、黒猫が知るあの二人だろう。
要するにあのボス猫みたいな少女は彩の絵に嫉妬しているらしい。クレヨンを折ったのも、スケッチブックを取り上げようとしたのも。彩から絵を取り上げようとしているのだ。そこにどうして彩の母親がかかわってくるのか、まったく意味がわからないが――。
考えごとをしてるうちに、友達の三毛猫に出くわした白猫がすっかり長くなりそうな立ち話を始めてしまったので、黒猫は今度こそ「じゃあまた」とさっさと別れを切り出した。
なんだったっけ? まあ、いいや母親の話なんて。黒猫が興味があるのは彩の描く絵であって彩ではないのだし。
だけど、あの絵を描くのはあいつだから。そして、黒猫はそれを見届けてやることにしたのだから。誰かがそれを邪魔しようとするのなら――あのへなちょこの代わりに八つ裂きにする。それがいい。とても、シンプルな結論。
物思いに区切りがついて、さてもう一度ひと眠りと思ったときだ。
道路の向かい側に白猫の姿を見つけた。話がひと段落して追いかけてきたのだろうか、と最初は考えたのだが、近づくうち自分の誤りに気がついた。よく見ればまだ体が小さいし、毛並みも汚れてずいぶんと痩せている。足取りもどこかおぼつかない。
子猫はきょろきょろと周りを見渡し、道路を渡るタイミングを見計らっているようだ。一瞬、その姿が幼い自分に重なった。車がいなくなり子猫がそろそろと渡りはじめる。なんとなくその姿を目で追っていた黒猫は、はっとして叫んだ。
「――おい! 止まれ!」
子猫の視界には迫りつつある自転車が目に入っていなかったのだ。自転車をこぐ男もまだ気づいていない。自分の声も届かない。
舌打ちをしながら、せわしく鈴を鳴らす。
ちりりりりりん、『自転車、止まれ!』
自転車がどうやって止まるのかは知らないが、それですべておわりのはずだった。
だけど――何も起きなかった。
自転車はすこしもスピードを緩めないまま子猫に向かっていく。ようやく気づいた子猫は、しかし竦んで足を止めてしまう。うそだろ。なんで? 間に合わない!
瞬きしかできなかった。まるで動けなかった。その一瞬を縫って、何かが視界を横切った気がしたけれど、それすら確認できなかった。
黒猫は目をつむった。目の前で起こることを見たくなかったから。
聞こえたのは、鈍い衝撃音と今さらのブレーキ音。それから――怯えた子猫が走り去る足音。轢かれたのに?
「……急に出てくるほうが悪いんだからな。俺を恨むなよ……」
声にゆっくりと目を開いた。顔を青くした男が足元から目を背けたまま、自転車を急ぎ漕ぎ出す。心臓がばくばくと音を立てている。ぷん、と血の匂いがした。
「――なんで?」
思わず口に出たのはシンプルな疑問だった。
鼻の下にひげのような黒い毛。道の端には――ブチ猫が横たわっていた。
はしゃいだ声の白猫が、こちらを振り返った。
早く早くと言わんばかりに尻尾がせわしく揺れている。まるで子猫のようで、黒猫はつい笑ってしまう。土手に広がる緑は、昨日降った雨のせいか瑞々しく色が濃かった。一歩踏み出すごとに足がしっとりと濡れる。葉に残った滴が時折光をはね返してまぶしい。
白猫の足元を覗き込み「ふーん、めずらしいね」と言うと、物足りなげに一瞥された。
「それだけ?」
「……それだけって?」
「だって四つ葉のクローバーよ」
「だからめずらしいねって……」
白猫はわざとらしくため息をついて、呆れ顔でこちらを見る。
「黒猫さんって意外と世間にうといのね」
最近、白猫はずけずけと物を言うようになった気がする。黒猫のむすっとした表情を見て、おかしそうに笑う。なんだっていうんだ。ますます眉間にしわが刻まれる。
白猫いわく、四つ葉のクローバーは見つけたものに幸運を運んでくれるそうだ。
「昔、公園で人間の女の子たちがそう言って一生懸命探してたの」
「へえ、人間って本当ばかばかしいね。ただの草に願いを叶える力なんてあるわけないし」
「そう? 夢があってわたしはいいと思うわ」
前足で四つ葉をつついては、嬉しそうに頬をゆるませる。
『夢』。寝ているときに見るものを現実に持ち込んでどうする、と黒猫は思う。
「――願いを叶えられるのは、力があるものだけだよ」
白猫はちらとこちらを見たけれど、特に何も言わなかった。代わりに「ねえ、今日本当はここに何か用があったんじゃない?」と突然話題を変えてきた。
「……どうして?」
「なんかきょろきょろしてるなあって。何か探してる? 誰かと会う予定だった?」
「……べつに。特に意味もないよ。きみが四葉のクローバー探すのとおんなじで、何かめずらしいものはないかなあって見てただけ」
まだ何か聞きたげな白猫には気づかないふりで背中を向ける。
べつに会う予定なんてない。見るだけだ。途中までしか見てないんじゃ逆に気になってしまうから、終わりまで見届けようと思っただけの話。
それなのに、視線の先。いつもの場所でスケッチブックに向かう彩の姿はなかった。
これだから人間は。約束ぐらい守れよ。……いや、僕は約束なんてしてないけど。
「――黒猫さん!」
白猫の切羽詰まった声で我に返ると、黒猫の五倍はありそうな大型犬がこちらに向かって駆けてくるところだった。後ろから飼い主だろう人間が慌てて走ってくる。手綱に伸びた手はとても届きそうになかったけど。
興奮した犬の鼻の穴さえも見えそうな距離でひとつあくびをしてから鳴らした。
ちりんちりりん、『お前は僕たちに指一本手出しできない』。
目の前に迫っていた犬の勢いがぴたりと止まる。時が止まったようにじっと見つめあうと、犬はやがて上体を伏せ弱々しく鳴いた。遅れてやってきた飼い主が吐く息荒く手綱を手に取り、「ほら行くぞ」とひきずるように去って行った。
すっかり犬の姿が見えなくなってから、白猫が目を丸くしながら近づいてきた。
「……今、何をしたの?」
「何も? 気が変わったんだよ、きっと」
煙に巻かれたような顔がおかしかった。
――願いは叶う。そう、力さえあれば。四葉のクローバーなんて必要ない。
「ねえ、花の願い事って何?」
突然の問いかけに、白猫はけげんそうに返す。
「さっきの話のつづき? 興味なさそうだったのに急にどうしたの」
「僕なら叶えられるかもしれないから」
白猫は冗談だと思ったのか「神様でもあるまいし」と笑った。だけど黒猫は笑わない。
「確かに僕は神様じゃない。でも……神様と同じことが僕にもできるかもしれない。きみだって覚えてるだろ? 僕には、空から花を降らすことだってできる」
それは『夢』なんかじゃない、『現実』に起きたこと。もう白猫も笑わなかった。
「教えてよ、花。きみの望みを叶えたいんだ」
すこしの沈黙のあと、白猫は朝露がぽたりと地に落ちるような静かさで口にした。
「願い事、あるわ」
黒猫がぱっと瞳を輝かせると、白猫は微笑んだ。「でも、教えない」
「え?」
「わたしの願い事、当ててみて」
黒猫の横をすり抜けて、跳ねるように歩き始める。慌ててその後を追った。
「聞けば全部教えてもらえるだなんて、つまらないと思わない? 神様にケンカを売るぐらいなんだから、きっとそのぐらい楽勝ね」
願い事を叶えるのは簡単だ。でも、その願い事を知るのは――。
「……きみって時々、意地悪だ」
「ふふ。なんでも叶えてくれるんでしょ?」
河川敷を後にして町中を進んでいると、小学生の女の子二人が黒猫たちに近寄ってきた。人懐こい白猫が体をこすりつけると二人はきゃあきゃあ高い声をあげる。「美味しいものあげる」とひとりが近くの家に消えたかと思うと、かまぼこを手に戻ってきた。かつおぶしを期待していた黒猫は正直がっくりした。おまけに食事中だというのに背中を撫でようとするので不愉快だ。「マナーのないやつらだね」と横を向いたところ、かまぼこを口いっぱいに頬張り縦横無尽に尻尾を振る白猫はそれどころではなかった。
「……ねえ、もうお腹も満たされたし、さっさと行こう」
すっかり嫌気がさしてきた黒猫は、ごろごろと喉を鳴らす背中に声をかけたが、「もうちょっと」と間延びした声が返ってくる。
うんざりしながら離れた位置に腰を下ろす。ちらちらと触りたそうな目でこちらを見られたが一切合切無視をする。僕に触りたければせめてまぐろかささみを用意しろ。
毛づくろいを始めた黒猫を見て、さすがに諦めたらしい女の子は、白猫の喉をかいてやりながら、「早くクラス替えしたいなあ」とため息をついた。
「えー、なんで?」
「なんか最近の杏ちゃんたちさ、こわくない?」
「もしかして彩ちゃんのこと?」
思わず舌を引っ込めて顔を上げる。なんて聞き覚えのある名前たち。ひとりならまだしもふたり揃うとなると、他人ではないような気がする。
「さっちゃんも言われてたんだ。『彩ちゃんとしゃべっちゃだめ』って」
「皆言われてるんじゃん? もともとそんなしゃべるほど仲良くなかったけどさぁ……彩ちゃんて確かに暗いしダサいけど、べつに悪い子じゃないのにね」
「ダサいの関係なくない?」
『ダサい』という言葉がツボにはまったらしく、二人は並んで肩を震わせていた。
「でもさ、ふたり、前はすごい仲良くなかった?」
きょろきょろと辺りを見回してから、声をひそめて話し出す。
「なんか、杏ちゃんのママが彩ちゃんの絵をほめちゃったんだって」
「杏ちゃんのママって……絵の先生だっけ?」
「そうそう。杏ちゃん絵うまいじゃん? でもママから一回もほめられたことなかったんだって。なのに授業参観のとき、彩ちゃんの絵を見てほめちゃって。『杏のママとる気なんでしょ!』って杏ちゃんマジギレ」
「そういえば彩ちゃんのママって……」
その言葉のつづきは聞くことができなかった。白猫が伸びをして、「そろそろ行きましょ!」とこちらに来たからだった。未練がましげな声をあげる二人はすっかり今話していたことを忘れてしまったみたいだ。そこに留まっているのもおかしいから、二匹は並んで歩き始める。だけど、黒猫は妙に話の続きが気になってしまった。
彩と杏は間違いなく、黒猫が知るあの二人だろう。
要するにあのボス猫みたいな少女は彩の絵に嫉妬しているらしい。クレヨンを折ったのも、スケッチブックを取り上げようとしたのも。彩から絵を取り上げようとしているのだ。そこにどうして彩の母親がかかわってくるのか、まったく意味がわからないが――。
考えごとをしてるうちに、友達の三毛猫に出くわした白猫がすっかり長くなりそうな立ち話を始めてしまったので、黒猫は今度こそ「じゃあまた」とさっさと別れを切り出した。
なんだったっけ? まあ、いいや母親の話なんて。黒猫が興味があるのは彩の描く絵であって彩ではないのだし。
だけど、あの絵を描くのはあいつだから。そして、黒猫はそれを見届けてやることにしたのだから。誰かがそれを邪魔しようとするのなら――あのへなちょこの代わりに八つ裂きにする。それがいい。とても、シンプルな結論。
物思いに区切りがついて、さてもう一度ひと眠りと思ったときだ。
道路の向かい側に白猫の姿を見つけた。話がひと段落して追いかけてきたのだろうか、と最初は考えたのだが、近づくうち自分の誤りに気がついた。よく見ればまだ体が小さいし、毛並みも汚れてずいぶんと痩せている。足取りもどこかおぼつかない。
子猫はきょろきょろと周りを見渡し、道路を渡るタイミングを見計らっているようだ。一瞬、その姿が幼い自分に重なった。車がいなくなり子猫がそろそろと渡りはじめる。なんとなくその姿を目で追っていた黒猫は、はっとして叫んだ。
「――おい! 止まれ!」
子猫の視界には迫りつつある自転車が目に入っていなかったのだ。自転車をこぐ男もまだ気づいていない。自分の声も届かない。
舌打ちをしながら、せわしく鈴を鳴らす。
ちりりりりりん、『自転車、止まれ!』
自転車がどうやって止まるのかは知らないが、それですべておわりのはずだった。
だけど――何も起きなかった。
自転車はすこしもスピードを緩めないまま子猫に向かっていく。ようやく気づいた子猫は、しかし竦んで足を止めてしまう。うそだろ。なんで? 間に合わない!
瞬きしかできなかった。まるで動けなかった。その一瞬を縫って、何かが視界を横切った気がしたけれど、それすら確認できなかった。
黒猫は目をつむった。目の前で起こることを見たくなかったから。
聞こえたのは、鈍い衝撃音と今さらのブレーキ音。それから――怯えた子猫が走り去る足音。轢かれたのに?
「……急に出てくるほうが悪いんだからな。俺を恨むなよ……」
声にゆっくりと目を開いた。顔を青くした男が足元から目を背けたまま、自転車を急ぎ漕ぎ出す。心臓がばくばくと音を立てている。ぷん、と血の匂いがした。
「――なんで?」
思わず口に出たのはシンプルな疑問だった。
鼻の下にひげのような黒い毛。道の端には――ブチ猫が横たわっていた。
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