すべてが叶う黒猫の鈴

雪町子

文字の大きさ
上 下
8 / 36
第二章

約束

しおりを挟む
 淀んだ水と草の匂いが満ちている。水の流れる音がする。黄色かったタンポポの花はすっかり綿毛に姿を変えていた。そしてその傍ら、土手に座る女の子がスケッチブックに向かい無心に手を動かしている。三つ編みが小刻みに揺れる。
 そして向かい立つのは――まるで挑むように足裏でむんずと草をつかむ黒猫一匹。
 来てはみたものの、まさか本当にいるなんて。
 その考えこそがまさにひるんでいる証拠な気がして、黒猫は首を振るった。大型犬だってちっとも怖くないこの僕に、なにか恐れるものがあるなんてアイデンティティの崩壊だ。気が乗らないから行かない、はアリ。ひるんで行かない、は絶対にナシ。
(ほら、僕はひるんでなんかない!)
 突然彩が顔を上げてこちらを見たものだから、黒猫はあやうく心臓ごと飛び跳ねそうになった。目がぱちりと合うと、大きな黒の瞳が細められる。
「やっぱり」
 黒猫もまた、やっぱり、と思う。
 彩は立ち尽くしたままの黒猫を手招きした。「ねえ見て、もうすぐ完成なの」
 吸い寄せられるように一歩を踏み出してから、はっとした。なんでこんなやつの言いなりにならなきゃいけない。でも足は止まらなかった。しちうるさい内心の声も、スケッチブックを覗き込んだ瞬間、霧散した。
 わん、と頭の中で音がするような絵だった。幾重にも塗り重ねられた色は、彩の手にもすっかり移りこんでいる。極彩色の手のひら。情報の多さに眩暈がするような。きっとこの絵は色を詰め込みすぎている。それなのに、それだから。痛いぐらいに胸を掴まれる絵だ、と思った。
「鈴の音がしたから、黒猫くんだってすぐわかったよ」
 なんでもない言葉のはずなのに、すっと体温が下がった気がした。
 ――なんだ、自分を見分けていたわけじゃなかったのか。
「また来てくれるって気がしてたの、なんでかな」
 黒猫の心とは裏腹に彩は明るい声で続けた。
「黒猫くんはさ、わたしのこと好きじゃないでしょう」
 ぎょっとして思わず顔を見る。
「……でも、わたしの絵は好き。ちがう?」
 にこっと逆に顔を覗き込まれる。
「わたしもなんだ。だから、描いてるときはわたしを好きになれる」
 スケッチブックに向き直ると、またクレヨンを一つ手に取った。群青。
「いっつも間違えちゃうんだ、わたし。バカだから。大事なところで……ママにも、パパにも、杏ちゃんにも。何言ったらいいか全然わからない、何も言えない。でも、それって一番間違いなの。みんな、わたしが嫌いになる」
 今度は黄色を手に取り、光を水面に描きこんでいく。
「でも、絵は……わかる。クレヨンごしにしゃべれたらよかったのかも」
 反射光が目に刺さる。この絵には彩の感情が色ごと溶け込んでいる、そんな気がした。
「――ほら、やっぱ木原さんじゃん」
 耳をきんとさせる高い声がうしろから聞こえた。彩の肩がびくりと跳ねる。
 振り返れば、女の子が四人ほど。声に聞き覚えがあった。細かく砕けたクレヨンをちらりと見る。
「絶対あのだっさい服は木原さんだって言ってたんだよー」
「ひとりぼっちでお絵かきしてるの邪魔しちゃってごめんねー」
 仲良さげな声音で話しかけながらも、織り交ぜた毒への反応を楽しげにうかがっている。
 ああ遊んでるんだな、と黒猫は理解する。猫の世界でも同じだ。強者は時折たわむれに弱者をいたぶる。狩りの練習だ。どうやらそのターゲットに選ばれているらしい彩は、小さな体をいっそう小さくしていた。手元のスケッチブックを隠すように胸元に寄せ、意を決してというように振り返った。
 中でもひときわ顔立ちが整った、おそらく中心的な役割だろう少女がにこっと笑った。小ぶりなリボンをつけたカチューシャが子どもらしく可愛い。だけど、肩までの髪をさらりと耳にかける、その目はすこしも笑っていなかった。
「ねえ、どんな絵描いてるの。見たいな。見せてよ。友だちでしょ?」
「杏ちゃん……」
 彩の眉毛がみるみる垂れ下がる。さっきその名をどこかで聞いたな、と黒猫が考えているうちに、伸びてきた手がスケッチブックを捕まえた。
「だ、だめ……!」
 悲鳴のようなその声は――本物の悲鳴によって上から塗りつぶされることになる。
 何が起こったのかわからずにきょとんとする彩を置き去りに、しゃがみこんだ杏は今にも泣き出しそうに声を震わせた。
「――ひどい、その猫、今、杏の足ひっかいたぁ……!」
「杏ちゃん、大丈夫!? 血出てるよ!」
 何をそのぐらいで大げさな。ちょっとした挨拶のようなものだろう。
 黒猫は彩を後ろにして女の子たちの間に立つと、毛を逆立てて威嚇した。敵意に満ちた視線が黒猫から彩に移る。
「何そいつ、木原さんの猫!? 杏ちゃん何もしてないのにひっかくとかなくない!?」
「えっ、あの、わたしの猫ではないけど……ご、ごめんなさ……」
 すっかり涙目になった杏の目が、怒りの赤色に染め上げられる。
「もう超むかつく! なんなのこのバカ猫、ゆるせない!」
 近寄るのは怖かったのだろう、足元にあった石をつかむと黒猫に向かって投げつけた。周りの女の子も顔を見合わせて、加勢するように石を探し出す。
 ぎょっとした彩が必死に止めにかかるも、しょせん多勢に無勢。だけど、黒猫はすこしも怖くなかった。力ない子どもの小石が猫に当たる可能性は、さてどれほど? 目の前で問いに答えていくかのごとく、てんで違う方向に落ちていく石を横目に、黒猫はあざ笑うかのように女の子たちへと距離を詰めていく。おっと石のお礼をしなくちゃね。黒猫は躊躇なく鈴を鳴らすと、願い事をひとつつぶやいた。
 ちりん、ちりりん。『全員今すぐ下痢になれ』、と。
 一瞬の後、杏たちは持っていた石を次々落として、急にお腹を押さえはじめた。
「ちょっと待ってごめん、なんかお腹、痛……」「あたしも……」「えっ、皆も!?」「うそ……なんで……?」
 ひとりが怯えた眼差しで目の前の黒猫を見る。当の黒猫はすっかり退屈そうに頭をかくなどしていたが。
「ねえ……もしかしてこいつのせい? 黒猫って不吉って聞いたことあるけど、もしかして石投げたからバチが……」
「やだ! 変なこと言わないでよ!」「わたし当ててないもん!!」「とにかく、それより、トイレに……」
この場から逃げ出したいのとトイレに行きたいのは方向性が合致したらしい。杏たちは恨みがましい目でこちらを一瞥しながらも、それどころじゃないといった様相で去って行った。時折立ち止まりながら、変な歩き方で。
「一番近いトイレは……そっちじゃないけど……」
 ひとり取り残された彩は、呆然としてつぶやく。
「それ傑作」
 にゃあとしか聞こえないだろうが、黒猫はその一言にけたけた笑った。だが言葉がわかるはずもないのに、鳴き声を聞いて、耐えきれないといったように彩も吹き出した。
「笑っちゃ、だめだよね……わたし、ひどい……でもなんか歩き方が……おかしくて……ふふふふ。変なものでも食べちゃったのかなあ……ふふ。ああ、でも、びっくりした……」
 ひとしきり笑うと、彩は地面にへたりと座り込んでしまった。
「黒猫くん……守ってくれたんだよね、ありがとう」
 彩は黒猫を見ずに突然そうつぶやく。
「でも、もういいからね。わたしはもういいんだ。黒猫くんにケガがあったら……わたし、もっと自分が嫌になるから」
 そのまま小さく消えてしまいそうな体に近寄ると、黒猫はスケッチブックにぐりぐり頭をこすりつけた。
「――そっか……絵を、一緒に守ってくれたんだね……」
 意図は通じたらしい。はじめてくしゃっと泣きそうな顔をみせた彩は、それでも泣かなかった。唇を噛みしめて目をつむり、何事もなかったかのように立ち上がる。
「……帰るね。おばあちゃんに卵買ってきてって頼まれてるし」
 スケッチブックとクレヨンをバッグにしまって肩にかけると、黒猫を振り返り微笑んだ。
「黒猫くん、わたし、この絵描き上げるね。約束。もうすぐだから……見てて」
(そんなの、僕に宣言してどうする。知らないし。勝手にやってろよ)
 そう思うのに、なんでなんだろう。遠ざかる後ろ姿がやがて曲がり角で消えてしまうまで、黒猫はずっと目で追っていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

流星の徒花

柴野日向
ライト文芸
若葉町に住む中学生の雨宮翔太は、通い詰めている食堂で転校生の榎本凛と出会った。 明るい少女に対し初めは興味を持たない翔太だったが、互いに重い運命を背負っていることを知り、次第に惹かれ合っていく。 残酷な境遇に抗いつつ懸命に咲き続ける徒花が、いつしか流星となるまでの物語。

独身寮のふるさとごはん まかないさんの美味しい献立

水縞しま
ライト文芸
旧題:独身寮のまかないさん ~おいしい故郷の味こしらえます~ 第7回ライト文芸大賞【料理・グルメ賞】作品です。 ◇◇◇◇ 飛騨高山に本社を置く株式会社ワカミヤの独身寮『杉野館』。まかない担当として働く有村千影(ありむらちかげ)は、決まった予算の中で献立を考え、食材を調達し、調理してと日々奮闘していた。そんなある日、社員のひとりが失恋して落ち込んでしまう。食欲もないらしい。千影は彼の出身地、富山の郷土料理「ほたるいかの酢味噌和え」をこしらえて励まそうとする。 仕事に追われる社員には、熱々がおいしい「味噌煮込みうどん(愛知)」。 退職しようか思い悩む社員には、じんわりと出汁が沁みる「聖護院かぶと鯛の煮物(京都)」。 他にも飛騨高山の「赤かぶ漬け」「みだらしだんご」、大阪の「モダン焼き」など、故郷の味が盛りだくさん。 おいしい故郷の味に励まされたり、癒されたり、背中を押されたりするお話です。 

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

愛しき夫は、男装の姫君と恋仲らしい。

星空 金平糖
恋愛
シエラは、政略結婚で夫婦となった公爵──グレイのことを深く愛していた。 グレイは優しく、とても親しみやすい人柄でその甘いルックスから、結婚してからも数多の女性達と浮名を流していた。 それでもシエラは、グレイが囁いてくれる「私が愛しているのは、あなただけだよ」その言葉を信じ、彼と夫婦であれることに幸福を感じていた。 しかし。ある日。 シエラは、グレイが美貌の少年と親密な様子で、王宮の庭を散策している場面を目撃してしまう。当初はどこかの令息に王宮案内をしているだけだと考えていたシエラだったが、実はその少年が王女─ディアナであると判明する。 聞くところによるとディアナとグレイは昔から想い会っていた。 ディアナはグレイが結婚してからも、健気に男装までしてグレイに会いに来ては逢瀬を重ねているという。 ──……私は、ただの邪魔者だったの? 衝撃を受けるシエラは「これ以上、グレイとはいられない」と絶望する……。

恋と呼べなくても

Cahier
ライト文芸
高校三年の春をむかえた直(ナオ)は、男子学生にキスをされ発作をおこしてしまう。彼女を助けたのは、教育実習生の真(マコト)だった。直は、真に強い恋心を抱いて追いかけるが…… 地味で真面目な彼の本当の姿は、銀髪で冷徹な口調をふるうまるで別人だった。

【完結】失いかけた君にもう一度

暮田呉子
恋愛
偶然、振り払った手が婚約者の頬に当たってしまった。 叩くつもりはなかった。 しかし、謝ろうとした矢先、彼女は全てを捨てていなくなってしまった──。

ひまわり~好きだと、言って。~【完結】

水樹ゆう
ライト文芸
どうしても忘れられない光景がある。社会人になっても恋人が出来ても、忘れられないもの。心の奥に残る微かな痛みを抱えたまま、今年も又、忘れられない夏が訪れる――。25歳のOL・亜弓には、忘れられない光景があった。それは高三の夏祭りの夜の出来事――。年上の恋人と初恋の人。気の置けない従弟と親友。恋と友情。様々な想いの狭間で揺れ動く、OL視点の恋と友情の物語。 ★2019/04/4 連載開始 ★2019/04/17 完結 ★2022/4 ライト文芸大賞にエントリーしました。 ★6万文字ほどの中編です。短い連載になるかと思いますが、最後までお付き合いいただけたら嬉しいです。 ★今作の主人公・亜弓のいとこの浩二視点の物語『ひまわり~この夏、君がくれたもの~』も同時連載中です。そちらは、浩二と陽花のラブストーリーになっていますので、よろしければ覗いてみてください。

あなたの秘密を知ってしまったから私は消えます

おぜいくと
恋愛
「あなたの秘密を知ってしまったから私は消えます。さようなら」 そう書き残してエアリーはいなくなった…… 緑豊かな高原地帯にあるデニスミール王国の王子ロイスは、来月にエアリーと結婚式を挙げる予定だった。エアリーは隣国アーランドの王女で、元々は政略結婚が目的で引き合わされたのだが、誰にでも平等に接するエアリーの姿勢や穢れを知らない澄んだ目に俺は惹かれた。俺はエアリーに素直な気持ちを伝え、王家に代々伝わる指輪を渡した。エアリーはとても喜んでくれた。俺は早めにエアリーを呼び寄せた。デニスミールでの暮らしに慣れてほしかったからだ。初めは人見知りを発揮していたエアリーだったが、次第に打ち解けていった。 そう思っていたのに。 エアリーは突然姿を消した。俺が渡した指輪を置いて…… ※ストーリーは、ロイスとエアリーそれぞれの視点で交互に進みます。

処理中です...